新撰組局長・近藤勇の生涯をまとめてみた

新撰組局長・近藤勇の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1868年5月17日(慶応4年4月25日)幕臣で新選組局長の近藤勇が中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されました。享年35歳。 首は京都の三条河原で梟首されますが、その後の首の行方は不明です。墓所は日本国内各地に在り、現在も訪れる人が絶えません。 #幕末 #佐幕派 #新撰組 pic.twitter.com/SwvABr6UEv

2018-05-17 08:21:00
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1834年11月9日(天保5年10月9日)近藤勇は武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれました。 幼名は勝五郎、後に勝太。天保9年の上石原村の宗門人別改帳に拠れば、宮川家は多摩郡大沢村(現:三鷹市)の龍源寺の檀家で、 pic.twitter.com/p3mmIAuHQe

2018-05-17 22:15:48
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石高から中流クラスの上層の家庭環境であったと考えられています。 1849年12月6日(嘉永元年11月11日)勝五郎は江戸牛込(現:東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門。翌1850年(嘉永2年)6月には目録を受けます。 pic.twitter.com/4y4qLpzv4P

2018-05-17 22:15:49
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同年12月3日には近藤周助(近藤周斎)の養子となり、周助の実家である嶋崎家へ養子へ入り嶋崎勝太と名乗ります。 その後、正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ってから近藤勇と名乗るようになりました。

2018-05-17 22:15:51
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万延元年(1860年)4月19日に御三卿・清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女・松井つねと結婚。 翌年10月1日には府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担う事になりました。

2018-05-17 22:15:51
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1862年(文久2年)には、つねとの間に長女・たま(瓊子)が誕生。 勇の死後、1876年(明治9年)勇の長兄 音五郎の次男・勇五郎を近藤家の養子に迎え、娘・たまは勇五郎の妻になっています。 勇は天然理心流の門人同士で独自の交流を持ち、上京後も江戸や多摩の有力門人と書簡を介して交流し、 pic.twitter.com/GzM1iaDrjl

2018-05-17 22:15:52
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金策の要請などを行っています。中でも勇が密接に交流した人物には佐藤彦五郎、小島鹿之助らが居ました。 佐藤彦五郎は日野宿の名主で、天然理心流の門人となり屋敷内に稽古場も持っていました。佐藤彦五郎や小島鹿之助は農兵隊を組織し、一部は後に甲陽鎮撫隊と名を改めた新撰組に合流しています。 pic.twitter.com/GtU0CGFTEC

2018-05-17 22:15:53
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東京都調布市に在る調布市郷土博物館には近藤勇の生家・宮川家を復元したジオラマが展示されています。 pic.twitter.com/37tMFb7XCC

2018-05-25 00:10:38
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近藤勇の生家は1943年(昭和18年)調布飛行場建設に伴い、取り壊されましたが、その時に撮影された写真を基に宮川家10代当主 豊治氏の協力を得てジオラマとして復元したそうです。 pic.twitter.com/zLNqv4p99Y

2018-05-25 00:10:40
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1863年(文久3年)正月 江戸幕府は旗本の松平忠敏、出羽国庄内藩出身の清河八郎の献策を容れ、14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織 「浪士組」への参加者を募りました。永倉新八「新撰組顛末記」に拠れば、浪士募集を受け斎藤一を除く、近藤ら試衛館の8人はこの浪士組への参加を決めます。 pic.twitter.com/ykQbcgyKcK

2018-05-25 00:10:41
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1863年3月26日(文久3年2月8日)浪士組一行は共に京都に向けて出発します。一行は江戸小石川(現:東京都文京区)の伝通院を発して中山道を進みました。 同年4月10日 一行は京都に到着すると、壬生村(現:京都府京都市中京区)の民家や寺社に分宿します。 pic.twitter.com/qtQ2VazjwL

2018-05-25 00:10:43
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近藤は壬生村の郷士・八木源之丞邸や周辺の寺社に分宿しました。しかし、一行が京都に到着した10日夜、清河は新徳寺において 「浪士組上京の真の目的は、朝廷に尊皇攘夷の志を建白する事である」と宣言し、浪士組の江戸帰還を提案します。 pic.twitter.com/ErTzhzldS2

2018-05-25 00:10:45
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翌4月11日に清川は学習院国事参政掛に建白書を提出。これにより浪士組は清河ら江戸帰還派と近藤・芹沢ら京都残留派に分裂し、異議を唱えた近藤や芹沢ら24名は京に残留します。 1863年4月27日(文久3年3月10日)二条城において京都守護職を務める会津藩主・松平容保は幕府老中から京都の治安維持の為、 pic.twitter.com/pxWOd4t1Tt

2018-05-25 00:10:47
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浪士を差配する事を命じられ、近藤・芹沢ら京都残留組は会津藩に嘆願書を提出。同年4月29日に受理され会津藩預かりとして、将軍在京中の市中警護を担う「壬生浪士組」が結成されます。 浪士組24名のうち、試衛場出身者は近藤ら8名が居ました。 pic.twitter.com/KLptaUPRtB

2018-05-25 00:10:48
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結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、近藤は5月12日に四条大橋(現:京都市下京区・東山区)において幕府から伝達を受け、 浪士組の探索を行っていた下総浪士の殿内義雄を暗殺しています。殿内の暗殺により、浪士組は近藤派と芹沢派5名の二派閥体制となりました。

2018-06-03 23:05:40
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1863年9月30日(文久3年8月18日)長州藩を京都政局から排する為に中川宮朝彦親王(尹宮)会津藩や薩摩藩主導の「八月十八日の政変」が起こると、 壬生浪士組は御花畑門の警護担当になりますが、目立った活躍も無く長州勢の残党狩りに出動するようになります。 pic.twitter.com/E6f83HanV3

2018-06-03 23:05:41
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その後、浪士組は働きぶりが認められ、武家伝奏より「新撰組(新選組)」の隊名を下賜されます。しかし二派閥体制となった後も内部粛清は続きます。 近藤・土方らは副長だった新見錦を自殺させ、10月25日には近藤の意に応じないとして隊士の田中伊織を暗殺。

2018-06-03 23:05:43
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さらに10月28日に芹沢鴨らを暗殺すると、近藤勇主導の新体制が構築されます。「八月十八日の政変」により京都政局は公武合体派が掌握し、 一橋慶喜や松平容保(会津藩主)松平定敬(桑名藩主)の三者による【一会桑政権】が形成され、新撰組はその一角を担います。 pic.twitter.com/TNuIssBRd5

2018-06-03 23:05:43
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1864年(元治元年)2月22日 14代将軍徳川家茂が入京し、二条城へ入ります。松平容保は陸軍総裁職・軍事総裁職となり、福井藩主・松平慶永が京都守護職に就任します。 この時、幕府では新撰組を松平慶永に預ける案も浮上しますが、近藤はこれを断っています。 pic.twitter.com/Gb2LNaGD6n

2018-06-03 23:05:43
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7月4日、新選組は熊本藩士・宮部鼎蔵下僕・忠蔵とほか不審者二名も捕縛します。やがて拷問で謀反の計画を知ると、 7月8日には四条通小橋西入ル真町(現:京都市下京区)で薪炭商・枡屋喜右衛門(古高俊太郎)を捕縛、古高の供述から中川宮邸放火計画を知った新選組は直ちに探索を開始し、

2018-06-03 23:05:45
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一味が潜伏していた池田屋に突入して宮部一派を壊滅させました。世にいう「池田屋事件」です。この働きにより、新撰組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜っりました。 禁門の変出動を経て、近藤は隊士募集の為に一時帰郷し伊東甲子太郎ら新隊士の補充に成功しました。 pic.twitter.com/d3gFfdKZ1u

2018-06-03 23:05:46
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1865年(慶応元年)11月4日 14代将軍・徳川家茂は上洛して二条城に入り、11月9日には京都御所へ参内して長州再征の勅許を得ます。 再征勅許の獲得により、幕府では大目付・永井尚志を長州訊問使として派遣を決定し、長州側との会見場所は安芸国広島の国泰寺(現:広島県広島市中区)に決定されました。 pic.twitter.com/0XteqVRbna

2018-06-13 03:22:31
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近藤は会津藩を通じて訊問使への同行を願い出て許可されると、武田観柳斎・伊東甲子太郎ら隊士8名と共に12月24日に大坂を立ち、1月2日に広島へ到着。 1月6日に永井は近藤らを自らの家臣として長州派遣を要請しますが、長州側にこれを拒否されてしまいます。

2018-06-13 03:22:33
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さらに1月8日には永井は近藤らを長州側との折衝役とし、近藤らは長州藩側の宿舎に赴いていますが、ここでも面会を拒否されています。 翌1月9日 近藤らは長州藩士との面会を果たし、1月27日には長州入りを要請しますが、再び拒否されます。

2018-06-13 03:22:33
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1月31日 近藤らは長州藩の支藩・岩国藩領の新湊(現:山口県岩国市新港町)において岩国藩との会談を要請しますが、これも拒否されます。やがて近藤らは長州入りを断念し、2月7日 京都に帰還しました。 1866年(慶応2年)3月8日 幕府は長州藩への処分を決定し、老中・小笠原長行を広島へ派遣します。 pic.twitter.com/rmt0BCUBLg

2018-06-13 03:22:34
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