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日本人の私が、李登輝の秘書になったワケ

「どんな仕事をしているのか?」という質問と同じくらいよく聞かれるのが、「なぜ李登輝の秘書になれたのか?」というもの。それにはまず、そもそも私がなぜ台湾と縁が出来たのかについてお話ししなければならない。
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リンク WEDGE Infinity(ウェッジ) 日本人の私が、李登輝の秘書になったワケ 「どんな仕事をしているのか?」という質問と同じくらいよく聞かれるのが、「なぜ李登輝の秘書になれたのか?」というものだ。それにはまず、そもそも私がなぜ台湾と縁が出来たのかについてお話ししなければならない。 1 user 179
ウェッジ編集部-2 @wedge_infinity2

「いつもどんな仕事をしているのか?」という質問と同じくらいよく聞かれるのが、「なぜ李登輝の秘書になれたのか?」というものだ。それにはまず、そもそも私自身がなぜ台湾と縁が出来たのかについてお話ししなければならない。wedge.ismedia.jp/articles/-/132…

2018-07-10 13:33:52

李登輝元総統と早川友久氏(写真:筆者提供)

私の運命を変えた「おばあちゃん」

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初めて台湾を訪れたのは2002年9月。大学の卒業旅行に、親友と誘い合わせたのが始まりだった。とはいえ、当初から台湾に関心があったわけではない。むしろ台湾に関する知識は皆無と言っていい。行き先を台湾に決めたのも、以前お土産でもらったジャスミン茶が美味しかったから、という程度のものだ。

2018-07-10 13:33:52
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ガイドブックに載っているような観光地巡りをして過ごしたが、9日間ある日程の半分ほどで著名な観光地をまわり尽くしてしまった。「時間はあるけど金はない」という学生旅行ゆえ、行ける場所は自ずと限られてくる。「入場無料」に惹かれて訪れたのが、台湾のホワイトハウスにあたる「総統府」だった。

2018-07-10 13:33:53
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私たちの担当になってくれたのは黄林玉鳳さんという、おばあちゃんだった。2002年当時、台湾社会にはまだまだ「日本語族」の人たちがたくさん現役で活躍されていた。「日本語族」とは、日本統治時代に教育を受け、流暢な日本語を操る台湾の年配者たちのことである。

2018-07-10 13:33:53
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そんな「日本語族」が総統府のガイドとして多数在籍しており、玉鳳さんもその一人だった。総統府の1階に展示されたパネルを見ながら、台湾のこれまでの歴史を解説してくれた。

2018-07-10 13:33:53
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「日本時代には、八田與一さんがダムを作って台湾の農業に大きな貢献をしてくれました」「日本時代がなかったら、台湾は今のような現代化された社会にはなっていません」知らぬこと、知らぬ人物が次々と登場し、ガイドさんの軽妙洒脱な語り口もあって知らず知らずのうちに聞き入っていた。

2018-07-10 13:33:53
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日本から来た若者の姿が嬉しかったのだろうか。玉鳳さんにはその夜、食事まで御馳走していただいた。「食事が終わったら面白いところに連れて行ってあげましょう」と連れて行かれたのが台北市長選挙の民進党の選挙演説会場だった。

2018-07-10 13:33:54

2002年末の台北市長選挙の民進党の選挙演説会場(写真:筆者提供)

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度肝を抜かれたが、不思議なことに私はあっという間にその場の熱気に引き込まれてしまった。言葉は全く分からないが、日本の統治を離れた台湾が、戦後中国大陸から敗走してきた中国国民党により、苦難の道を歩み、1990年代からやっと民主化が始まったことくらいは知っていた。

2018-07-10 13:33:54
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若い、ということもあっただろうし、現地にいる、という興奮も手伝ったのだろうが、私はまさに台湾の民主化や、台湾の建国を熱心に説く彼ら、そしてそれを献身的に支持する大衆の人々に「感動」してしまったのである。

2018-07-10 13:33:54

言い出しっぺの“あなた”がやってください

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日本に帰国後も、私の「台湾熱」はおさまらなかった。台湾関連本を読み漁ると、日本統治時代の歴史、台湾の戦後史がおぼろげながらわかってきた。むしろますます台湾への関心が強まっていく。

2018-07-10 13:33:55
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その直後、日本でひとつの組織が立ち上がった。台湾の民主化を推し進めた李登輝総統の支持団体「日本李登輝友の会」だ。会が設立されるニュースとともに、「当日の会場運営を手伝ってくれる学生ボランティア募集」という文字も飛び込んできた。もちろん喜び勇んでボランティアに応募した。

2018-07-10 13:33:55
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大会が終わるとき事務局の方に、「学生部か、青年部を作りましょうよ」と提案したところ、「いいですねぇ。じゃあ言い出しっぺの“あなた”がやってください」という展開になった。「李登輝」という名前をようやく覚えたくらいの私が、なんと青年部の部長におさまってしまったのである。

2018-07-10 13:33:55
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2007年にそれまでの仕事を辞して台湾へ留学。学生を続けながら、日本李登輝友の会のスタッフを続けていくことにした。ある程度、中国語で用が足せるようになってくると、中国語が出来るスタッフが不在の会では自然と重宝される存在になっていった。

2018-07-10 13:33:56
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2009年には、青年会議所の招聘により東京で講演し、高知県、熊本県を訪問することになった。すでに知己となっていた李登輝事務所の日本人秘書から、正式に「李登輝事務所のスタッフとして同行してほしい」と依頼された。

2018-07-10 13:33:56

鴨がネギを背負ってやってきた!

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卒業まであと半年となる2012年のある日。総統の講演会場で顔を合わせた秘書長(李登輝事務所の責任者)から、廊下の隅に呼ばれた。「卒業したらどうするんだ。台湾に残って仕事をしたい? アテはあるのか?」と矢継ぎ早に質問され、「李総統の仕事を手伝ってみないか?」と誘われた。

2018-07-10 13:33:56
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「それはもちろん望むところだ」と答えたところ、数日後に秘書長から電話がかかってきて「いますぐ、事務所に来なさい」という。部屋に入るなり李総統から「早川さん、これから頼みますよ」と声をかけられ、大きな手で握手を求められた。緊張と共に、突然のことで、はっきりとした記憶がない。

2018-07-10 13:33:57
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日本人秘書は以前から心臓が悪く、そろそろ後任に譲って日本へ帰りたいと思っていたという。そこに鴨がネギを背負ってきたように、私が「もうすぐ卒業です。台湾に残って仕事をしたいですが、まだ仕事は見つかっていません。李総統のお手伝いを出来るなら本望です」と答えたわけだ。

2018-07-10 13:33:57
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以来、秘書として仕えるのも今年で7年目となった。この間、2009年で途切れていた李総統の訪日も、2014年以降3年連続で実施することができた。安倍総理と李総統との関係も非常に良好で、それが良好な日台関係に繋がっていることは間違いない。

2018-07-10 13:33:57

▼連載「日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔」