ちょっと書きたくなった。主人公とヒロインについて。今回のシリーズには女の子がほとんど登場しない。まともに登場したのは雪歩くらい。だが、「主人公」と「ヒロイン」はどの物語にも配置したつもりだ。
2011-04-17 23:06:26「主人公」と「ヒロイン」の定義について。「主人公」の定義は「物語の中心であり、かつ物語を通して成長するキャラクター」である。対する「ヒロイン」の定義は「成長はあまりしないが、状況の変化によって態度や行動が変化する様子が描かれるキャラクター」である。
2011-04-17 23:08:40……つまり、性別は問わない。どれだけ描写回数が少なくても、この定義に当てはまれば主人公であり、ヒロインなのである。……ありていに言ってしまえば、ギャルゲみたいなもん。ギャルゲの主人公は姿さえ出てこない場合もあるし、背景を軽く描いただけで対応から成長していくものだ。抜きゲーは別だが
2011-04-17 23:10:44で、この定義で見てみる。「カルタゴの淡雪」では、「主人公」なのはボミルカルと雪歩、「ヒロイン」は雪歩だ。ボミルカルはまったく喋らないキャラクターだけど、物語の終盤で少しだけ喋るようになる、という「成長」。雪歩も男の人と接触できるようになる、という成長。
2011-04-17 23:16:10「黄金色の鴎」だと「主人公」はゼヌマン、「ヒロイン」はテルティウスになる。テルティウスは大きく成長したという印象をほとんど与えなかった。彼が純朴な青年から老獪な商人、元老院議員になったのはあの後の20年にあると思うからだ。故に成長はあまりせず、ヒロインの役に。守られてるしね。
2011-04-17 23:19:39ではゼヌマンはというと。誰も信頼せず、仕事だけの付き合いであるはずの傭兵だったはずなのに、人を信頼することを覚え、かつローマ人として生活するようになる。これは「主人公」の役割。明らかに彼は「主人公」として描写している。
2011-04-17 23:21:06他にも色々心理的な書き方には気を遣ったつもりだ。カルタゴの淡雪の中で例をみると。逃げ出したボミルカルに追いついた雪歩が、森の中での焚火でボミルカルの「左」に座る様子がある。あれ、「隣」ではなく、「左」だから意味がある。
2011-04-17 23:24:19何故左か。左に座るということは、右手を相手側に差しだすということ。右手とは本来利き手のことを意味するのだから、それを差しだすのは相手への信頼を意味しているのだ。あれを「隣」と書いては雰囲気的におかしなことになる。左に座ってこそ意味がある。
2011-04-17 23:26:52それから、白い砂が降ってきたシーン。あれはボミルカルの心象風景。あれが意味するのは「融けない雪」=「心の傷」。見せたくない、降り積もってなくならない、醜いもの、とボミルカルが思うものを、雪歩が美しいと言う。直前のシーンに対応した光景として描写している。
2011-04-17 23:30:36