幕末の幕臣・小栗上野介忠順の生涯をまとめてみた

幕末期の幕臣・小栗上野介忠順の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)幕臣で勘定奉行の小栗忠順が烏川の水沼河原(現:群馬県高崎市倉渕町水沼)で斬首されました。享年42歳。 薩長軍の東征に対し、小栗は主戦論を唱えていましたが取り入れられず罷免され、領地権田村に隠棲していました。 #小栗上野介 #幕末 #佐幕派 pic.twitter.com/VqIuI4JulN

2018-05-27 20:25:25
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1827年7月16日(文政10年6月23日)小栗忠順は禄高2,500石の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台(現:千代田区神田駿河台1-8)の屋敷に生まれました。幼名は剛太郎。 当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていましたが、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮するようになります。 pic.twitter.com/LpWEM2WhLE

2018-05-30 01:36:41
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8歳から小栗家の屋敷内に在った朱子学者・安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、思想家・栗本鋤雲と出会います。 武術については剣術を剣客・島田虎之助に師事。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許されました。 pic.twitter.com/jpXFv2Q5js

2018-05-30 01:36:43
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また砲術を田付主計に、19歳から4年間に渡って柔術と山鹿流兵学を兵学者で武術家の窪田助太郎清音に師事。 1840年(天保11年)頃 田付主計の同門で、年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受けるようになります。

2018-05-30 01:36:43
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1843年(天保14年)17歳になると文武の才を注目され、若くして両御番となります。率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられますが、 その度に才腕を惜しまれて役職を戻されています。1849年(嘉永2年)林田藩の前藩主・建部政醇の娘・道子と結婚。

2018-05-30 01:36:44
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1853年(嘉永6年)アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航します。その後、忠順は来航する異国船に対処する詰警備役となりますが、 戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉は出来ず、開国の要求を受け入れる事しか出来ませんでした。 pic.twitter.com/LFNdfs2oyb

2018-05-30 01:36:44
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1860年(安政7年)遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米、2ヶ月の船旅の後にサンフランシスコに到着します。 代表は新見でしたが目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けます。勘違いの理由として新見を含め、同乗者の多くはこれまで外国人と pic.twitter.com/WHdvmMMkms

2018-06-04 01:20:27
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接した事が無く困惑していたのですが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験が有った事から落ち着いており、そのため代表に見えたとされています。 また「目付とはスパイの事だ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか」という嫌疑を受けます。

2018-06-04 01:20:28
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その際に「目付とはCensor(=検査官・監察官)だ」と主張して切り抜けたといわれます。「Censor」という役の重さが代表扱いされた一因とも考えられます。 フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑みます。これは1858年(安政5年)7月に日米修好通商条約で定められた

2018-06-04 01:20:28
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交換比率が不適当で経済の混乱が生じていたからです。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明したものの、 残念ながら比率の改定までには至りませんでしたが、この交渉に関して多くのアメリカの新聞が絶賛の記事を掲載します。

2018-06-04 01:20:28
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また小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰っています。 その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着。 帰国後は遣米使節の功により200石を加増されて2700石となり、外国奉行に就任しました。 pic.twitter.com/KSueawiP02

2018-06-04 01:20:29
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1861年(文久元年)ロシア軍艦対馬占領事件が発生。小栗は事件の処理に当たりますが同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中に ・対馬を直轄領とすること。 ・今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。 ・国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。 pic.twitter.com/6Hr2MKZisV

2018-06-19 23:45:13
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などを提言しましたが、容れられず外国奉行を辞任します。1862年(文久2年)勘定奉行に就任し、名乗りを小栗豊後守から上野介に変更、幕府の財政立て直しを指揮します。 当時、幕府は海軍力強化の為に44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千ドルに上っていました。

2018-06-19 23:45:14
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小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じてロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げます。 当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えますが、当時アメリカは南北戦争で国が疲弊しており、 pic.twitter.com/sKkSuxeUYX

2018-06-19 23:45:14
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外国を助ける余裕が無かった為、結果的にロッシュとの繋がりが出来たフランス中心の招聘となったのです。1863年(文久3年)小栗は製鉄所建設案を幕府に提出、 幕閣などから反発を受けますが、14代将軍・徳川家茂はこれを承認。1月5日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定されました。 pic.twitter.com/o312g64nuz

2018-06-19 23:45:15
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建設に際しては多くの鉄を必要とした為、上野国甘楽郡中小坂村(現:群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣しました。 見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好だと判明します。

2018-06-19 23:45:16
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ただし、近隣での石炭供給が不十分であるので、暫くの間は木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けます。 また1865年(慶応元年)には高炉で使用する木炭を確保する為、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議もしています。

2018-06-19 23:45:16
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1866年(慶応元年)1月1日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設が始まります。費用は4年継続で総額240万ドルで、これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるのですが、 実際には万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益で建設費用を賄っていたようです。 pic.twitter.com/qMVyiUWMeN

2018-06-19 23:45:17
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横須賀製鉄所の建設を巡っては相当な費用負担を強いる為、幕府内部の反対論は強く、建設地を横須賀にする事への反対論もありました。 しかし工作機械類がフランスに発注済だった事もあり、最終的に製鉄所は完成します。多くの反対を押しきれたのは計画の進捗が迅速であり、

2018-06-19 23:45:17
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外部がこれを知った時には取りやめが不可能だったからです。小栗は横須賀製鉄所の首長としてフランスのレオンス・ヴェルニーを任命します。 これは幕府公認の事業では初の事例でしたが、この人事により職務分掌・雇用規則・残業手当・社内教育・洋式簿記・月給制など、経営学や pic.twitter.com/sZpoUTCHwn

2018-06-19 23:45:18
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人事労務管理の基礎が日本に導入されました。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所も設立されます。 ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業も行われました。この学校は明治政府に貢献した人物を多く輩出しています。

2018-06-19 23:45:18
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小栗は陸軍の力も増強する為、小銃・大砲・弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進します。 1862年(文久2年)12月 銃砲製造責任者に任ぜられると、それまで韮山代官江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や多発していた製造不良の低減に着手します。

2018-07-12 00:00:27
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これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりとして武田斐三郎・友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用します。 また、ベルギーより弾薬用火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設しました。

2018-07-12 00:00:27
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小栗は更なる軍事力強化の為、幕府陸軍をフランス軍人に指導させる事を計画します。1867年1月12日(慶応2年12月7日)フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始されました。 また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、 pic.twitter.com/EA414dEetW

2018-07-12 00:00:28
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陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上ります。 経済面では関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全国の商品流通を掌握しようとします。これが後の商社設立に繋がりました。 pic.twitter.com/oOy0IMvOxi

2018-07-12 00:00:28
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