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1863年5月30日(文久3年4月13日)幕末の庄内藩出身の志士・清河八郎が幕府の刺客・佐々木只三郎らによって麻布赤羽橋(現:麻布十番商店街付近)で暗殺されました。享年34歳。 清河は浪士組を結成し新選組・新徴組への流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった人物です。 #幕末 #浪士組 pic.twitter.com/iU8K7hLzhv
2018-05-30 22:55:011830年11月24日(文政13年10月10日)清河八郎は、出羽の庄内藩に在った清川村(現:山形県東田川郡庄内町)の郷士・齋藤豪寿(齋藤治兵衛とも)の長男として生まれました。 斎藤家は庄内随一の醸造を行っていた酒屋でした。1833年(天保3年)八郎が4歳の時「天保の大飢饉」となり、
2018-05-30 23:54:38清川村も天候不順や最上川の大洪水などで大凶作の年となりますが、庄内藩の年貢米取立ては厳しく村人の生活は困窮しました。 そんな折、清川村の若者16人が齋藤家の蔵で預かっていた藩の米を盗むという事件が起こります。 この時4歳の八郎は蔵の酒造用大釜の陰に隠れて一部始終を見ており pic.twitter.com/UbzjZb9ELY
2018-05-30 23:54:38すぐさま家人に報告、押し入った16人全員が捕獲され藩に引き渡されました。 八郎の父は庄内藩に助命嘆願を願い出ますが、1人は追放で 残りの15人は斬首と言う厳しい処分となります。僅か4歳にして適切に状況を判断し通告した清河八郎の明敏さには誰もが驚いたという話が伝わっています。
2018-05-30 23:54:391843年(天保14年)八郎14歳の時、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しみ、1846年(弘化3年)後の天誅組総裁・藤本鉄石と会い親交を深めました。 翌1847年(弘化4年)には江戸に出て古学派の東条一堂に師事。才を認められて東条塾の塾頭を命ぜられますが、固辞し安積艮斎に転塾します。
2018-06-09 16:43:22その傍らで塾の同輩に誘われ、北辰一刀流の開祖・千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を許されます。また幕府の学問所・昌平黌でも学びます。 八郎はその後、清河塾を開設しますが、当時江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけでした。 pic.twitter.com/4Inhw4ZrmP
2018-06-09 16:43:231860年3月24日(安政7年3月3日)に起こった「桜田門外の変」では強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強めます。この事件を契機に、清河塾には憂国の士が集まり出しました。 その中には幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)・笠井伊蔵・松岡万、薩摩藩の伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満休之助、 pic.twitter.com/6sVZvhCBzz
2018-06-09 16:43:24同門だった安積五郎らが居ました。また広島藩藩士の池田徳太郎・中村貞太郎・西川練造・村上俊五郎・石坂宗順などとも交流があったようです。 同年、八郎は盟主として「虎尾の会」を結成します。発起人は山岡鉄太郎ら15名。「虎尾の会」は尊王攘夷党で「虎尾」とは「書経」の「心の憂慮は虎尾を踏み、 pic.twitter.com/thO0TAYISg
2018-06-09 16:43:26春氷を渡るごとし」から起こった言葉で「危険を犯す」という意味です。この当時の尊王攘夷志士達は、しきりに横浜の外国人居留地の焼き討ちを狙っていました。 八郎ら虎尾の会のメンバーは尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てますが、この密計が幕府に知られてしまいます。
2018-06-09 16:43:261861年(文久元年)には罵詈雑言を浴びせてきた幕府の手先を斬り捨てた為、幕府に追われる立場となります。この時、笠井・中村・西川らは捕縛され、後に獄死。 八郎は倒幕運動を続ける為、京に潜伏したり諸国を回り、青侍・田中河内介に続いて九州遊説に入りました。 pic.twitter.com/CG85P8gj56
2018-06-09 16:43:26八郎は筑後国の水田天満宮に蟄居中の真木保臣の下にも滞在し、福岡藩士の平野国臣、小郡、肥後の尊皇攘夷派とも接触。 その戦略は薩摩藩の率兵上京に期待を寄せるものであり、薩摩は立つと諸国を遊説しましたが、小松清廉(帯刀)は一切の言質を与えていないそうです。
2018-06-20 00:52:00一説には京都に参集した尊皇攘夷派は、清河の空想的政局論により集められた一面もあるとしています。 その後、八郎は幕臣・山岡鉄舟らを通して幕府政事総裁職・松平春嶽に急務三策として 1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育を上書します。 pic.twitter.com/WuohuXaGNJ
2018-06-20 00:52:01尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、浪士組結成が許可され幕臣・松平忠敏のもとにおよそ234名が集まります。しかし、八郎は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京に集め出しました。 1863年(文久3年)4月10日 14代将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組を率い京へと出発します。 pic.twitter.com/LurJY3HOoI
2018-06-20 00:52:01八郎は到着した夜に浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べます。鵜殿鳩翁は浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に京に残留する事を希望する者の取りまとめを依頼し、 攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し、袂を分かちました。 pic.twitter.com/swhhLiOZkW
2018-06-20 00:52:03翌日、200名の手勢を率い八郎は朝廷に建白書の上申を願い出で、幸運にも受理されます。しかし、この様な浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻します。 八郎は江戸に戻った後も浪士組を動かそうとしますが、京都で完全に幕府と対立していた為、命を狙われていました。
2018-06-20 00:52:051863年5月30日(文久3年4月13日)八郎は幕府の刺客 佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布赤羽橋(現:東京都港区麻布十番商店街そば)で首を討たれました。享年34歳。 出羽・上ノ山藩の家老・金子興三郎邸に攘夷連名簿を携え、訪ねた帰りの出来事で、八郎は酔っていました。
2018-07-30 00:20:38裏門から出て一の橋を渡り切ったところで八郎は「清河先生」と声をかけられます。声の主は既知の幕府講武所教授方・佐々木只三郎でした。 彼は陣笠を取り会釈するので、清河も陣笠を取ろうと両手を笠紐にかけたその時に背後から抜き打ちを浴び、前からは佐々木只三郎から切りつけられます。
2018-07-30 00:20:38八郎は血の海の中へと倒れ込み、絶命しました。八郎の首は同士の石坂周造(宗順)によって山岡鉄舟宅へ運ばれました。 寺の裏手には山岡鉄舟の私邸が在ったといわれます。山岡は、当時傳通院の子院だった処静院の住職に頼み、傳通院の墓地に八郎を埋葬したと伝えられています。 pic.twitter.com/Ng8davJHz5
2018-07-30 00:20:38八郎の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりになります。 1869年(明治2年)4月 八郎の母の切なる願いと八郎の弟・熊三郎により、八郎の遺骨は故郷である歓喜寺(現:山形県東田川郡庄内町清川)の齋藤家墓所に改葬されます。 pic.twitter.com/kiHmA9DdRJ
2018-07-30 00:20:401962年(昭和37年)庄内町出身の清河八郎の百年記念事業の1つとして「清河八郎記念館」が建設されました。 八郎が残した日記や書簡、遺物などが保管され、保管されている作品で山形県文化財として指定されているものは51点にも及びます。 pic.twitter.com/arTg9VQmnc
2018-07-30 00:20:42明治維新の火付け役として、また稀代の策士ともいわれた清河八郎は、現在も傳通院・歓喜寺共に妻の阿蓮と共に並び、埋葬されています。 pic.twitter.com/CL7fUk5GA2
2018-07-30 00:20:43清河八郎ゆかりの地を地図にまとめました。未訪の場所も有るので訪ねたら更新します。 google.com/maps/d/edit?hl…
2018-07-30 00:59:49