#あちこちのすずさん の物語――『戦中・戦後の暮らしの記録』と「この世界の片隅に」
勤労奉仕先の宮崎県延岡市の旭化成の工場の寮にいた女学校時代の母。空襲の夜、六角形の筒に細いリボン状の紐が付いた爆弾が幾つもひらひら舞い降りてきて、目の前の女学生の首に当たり亡くなったのを見た、と言ってました。昭和3年生まれ、終戦の年は17歳の母の話しです。#あちこちのすずさん
2018-07-25 20:10:08戦時中女学生だった母。槍付きとかもさせられていたらしいが、あんなもんで米兵に勝てるなんて思ってなかったって言ってました。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:04:02戦後の建築ラッシュ。戦争前に宮崎で製材所を始めたばかりの祖父は、大阪の問屋から船で仕入れた材木をとにかく売りまくったらしい。娘だった母はバラックの屋根や壁の材料の材木の皮まで自転車で売り歩き、祖父から小遣いを貰っていたと。しっかり働き手だったんですね。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:40:42終戦をむかえて文無し?になったので、貨物列車に飛び乗り横須賀から鹿児島へ帰った祖父。 鹿児島の家族は、煤まみれになった祖父が判らなかくて身構えた #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:01:57@shibuya_soujiro 「焼酎=水」だったから、喉が渇いたので、お飲みなっただけではないんですかね。戦争が終わって飲むお酒は、とても美味しかったのではないかと想像してしまいます。
2018-07-25 20:30:38@poorinvester 蟒蛇みたいに飲む人でしたが、その辺りは聞けてませんでした。 いずれにしても当時はまだ17か18ぐらいなんですけどね😅
2018-07-25 20:39:15「戦争中は本当にものがなにもなかったのよー」 そういいながらスプーン印の砂糖をしこたま貯め込む祖母であった #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:04:33「朝起きたらね、雪が積もってて家の前を兵隊さんが行進してたの」 2月の終わりごろのことであったらしい (ちょと追記 #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:16:29祖父から聞いた話。 南方の無人島で、敵の戦闘機に見つからないように塩作りしたり、野菜を栽培してたらしい。(軍の補給が途絶えていた為) お酒飲むと笑いながら話してくれたけど、現地では命懸けやったんやよね… #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:04:34祖父は当時病気で召集されぬまま大阪の空襲に遭い、目の前に落ちた爆弾が不発だったことで無事逃げおおせたとか遠い昔に聞きました #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:04:35父は祖父の病逝が原因で昭和20年春に満州から内地に帰還。 母は祖父が戦地から帰らない事もあり、念の為と昭和20年春頃に広島市から山口市に疎開。 よって私は、ここに居る。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:09:13お袋は祖父の仕事先(単身赴任)の支那に会いに行った帰りの客船が日本海上で軍艦に衝突し沈没。(灯火をつけてなかったのでお互いに気づかなかった)お袋は親兄弟とバラバラに救出され、軍艦の甲板は人でごった返してしばらく消息がわからない状態だった。#あちこちのすずさん
2018-07-25 20:12:53満州にいた祖母と父は、ソ連軍が襲ってきたのでとにかく列車に乗って逃げようとしたが、馬に乗った盗賊団に進路を塞がれ、客車に乗り込んできて金品を洗いざらい奪っていった。残ったのは最後まで隠し通した祖父の懐中時計一つ。#あちこちのすずさん
2018-07-25 20:34:07母方の祖母は名前が「すず」で年齢も同じ(笑)。戦争中は福岡の片田舎でこれといった 劇的な体験もなく過ごしていたようですが、元特攻隊員だった祖父と結婚したり、戦艦「定遠」の部材を一部使用した定遠館に住んだりと戦後のエピソードの方が豊富かもしれない・・・(^_^;) #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:14:21母方の祖父は働きつつ明治大の夜学に通っていたところ学徒動員で陸軍に。航空隊に配属されるも訓練中に部隊が丸ごと特攻隊に指定(第52航空師団)。桶川飛行場で出撃待機中に終戦。なお、出撃時の搭乗機は複葉の九五式練習機の予定。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:20:20父方の祖母は小倉に住んでいたため、よく戦車が近所を走っていたとのこと。「あれが走ると道が荒れて迷惑なんだよなぁ」と思っていたとか(苦笑)。戦争中は逓信局(電話局)で交換手をしていたことがいまだに自慢の一つ。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:24:40#あちこちのすずさん 雪の中、丘を越えた隣の本家の井戸に、風呂の水を汲みに何度も行く母(祖母)の姿を見て、当時小学生だった父は家の庭を掘って井戸を作ろうとしたが、1mくらい掘ったとこで断念したとか…。
2018-07-25 20:18:26B29が墜落して見学するために艀?に大勢乗りすぎて沈んだとか、戦後、闇市で食料交換の為、軽機関銃を所持してて捕まった人の話を親から聞いた。#あちこちのすずさん
2018-07-25 20:18:48戦後は洋裁教室を地元で開いて、無くなる少し前までお得意さんの注文の服を造っていました。 なんで「あちこちのすずさん」と言うかむしろ「あちこちの糸子さん」なお話を義祖母さんから聴くのは楽しかったな。 旦那方の家の話を勝手に出したのでタグは付けません〜。
2018-07-25 20:21:36母方のばさま、昭和20年はまさに広島市の爆心あたりで電電の職員として働いていた。けど、8月6日は「皆勤賞のご褒美」で休暇、そのため段原の家ごと吹き飛ばされながらも生き残った。当然職場は壊滅との由。 そのお陰でワシがここに居る。てめえら、ザマアミロ。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:24:19@kado_busdev 富国生命のところにあった広島電信局だったんでしょうか。「岡山の電信電話」という本で読んだ、投下の瞬間に途絶えた広島電信局との交信の話を思い出します。
2018-07-26 00:16:28