#あちこちのすずさん の物語――『戦中・戦後の暮らしの記録』と「この世界の片隅に」
ワイのジッジ、ご先祖の墓を掃除中に長崎の原爆投下を目撃したらしい (山一つ挟んだ佐賀側から強烈な光と音、立ち上る原爆雲を見て呆気にとられたとかなんとか #あちこちのすずさん
2018-07-27 01:32:3899歳になる義理の伯母がそっとしまっていた、戦場からの恋人の手紙、そして新聞の切り抜きと、葬儀の通知。 facebook.com/10000217509662… #あちこちのすずさん
2018-07-27 02:16:47名称生まれの曾祖母は戦争中大阪の紡績工場で働いていたが、大空襲の時は黒こげの遺体が道にゴロゴロ転がっていたので、それらを跨いで炎から逃げたそうだ。 #あちこちのすずさん
2018-07-27 04:21:55これは叔父から聞いた話だが、曾祖父は外国航路の船員で開戦前は欧州にも行っていたそうで、地中海でドイツのUボートを目撃したらしい。 子供だつた自分には眉唾物だったが、ある時家の古い箪笥から古い10万マルク札が出て来たので恐らく実話だったのだろう。 #あちこちのすずさん
2018-07-27 04:31:58@katabuchi_sunao おはようございます ^^ お盆に帰省したら当時の事を母親に聞いてみます。昭和5年生まれ、福島県に住んでいました。 #あちこちのすずさん #いくつもの片隅に #この世界の片隅に
2018-07-27 05:45:46#あちこちのすずさん 母の家での「かて飯」は芋とかじゃなくてなんとお茶がらを入れていたとのこと。あるとき盗まれたが、きれいにお茶がらをより分けて米粒だけ盗んで行かれたとか… shimirubon.jp/columns/1683069
2018-07-27 05:51:32
2018年7月27日 06:00-
ああ❗ この空襲で犠牲に成られた方々だったんですね。 伯母が女学校に通う道すがら黒焦げの遺体を横目に学校へ行った話を聞いていた。 その夫の伯父はシベリア抑留中の話を笑い話に昇華して話して呉れていた。 子供の頃は彼らの笑顔の下の辛い気持ちに思いが至らなかった。 #あちこちのすずさん twitter.com/isokaze1937/st…
2018-07-27 06:14:087月26日 本土爆撃 徳山空襲 23:00頃、米第20空軍B-29 97機、徳山市街地を焼夷弾爆撃。市街地の約90%が焼失。死者482名。 (市役所で陣頭指揮を執っていた羽仁市長も犠牲となる) pic.twitter.com/DcoBNIg5UQ
2018-07-26 23:00:45「あちこちのすずさん」ハッシュタグほどでは無いが、知り合いのお爺ちゃんを「この世界の片隅に」誘って、見終わった後、ドトールでコーヒー飲みながら聞いた話、、 お母様を東京の空襲で亡くされているという事ですが、飛んでくるB29を見て、、>
2018-07-27 07:40:22<「銀色にピカピカ光っててな、カッコいい飛行機だった。」 正直驚きました。怒り憎しみじゃなくて、純粋に飛行する飛行機を見た少年の感想はそういうものだったのかな?
2018-07-27 07:44:06まあ凄いってのは今更なんだが、NHKが戦中戦後の思い出を募集するにあたって、そのパブリックイメージとして「#あちこちのすずさん 」、すずさんを採用してしまう辺り、改めて凄いなって思いを噛み締める。
2018-07-27 07:53:56大おばに聞いた話で、アメリカの飛行機は空襲の帰りに海岸線近くの畑に余った爆弾を落としていったらしい。畑がぐちゃぐちゃになって野菜がもったいなくて、なんで家や工場でなくこんなとこに落とするだろうと悲しく思ってたとのこと。荷を軽くするためらしいが。 #あちこちのすずさん
2018-07-27 07:56:12しかし、よそ様の人生をこんなに手軽に教えてもらっていいものだろうか。読み物としてしか受け止めきれないけれど、いいんだろうか。#あちこちのすずさん
2018-07-27 08:11:43うちの祖父は陸戦隊で呉に居たそうで、呉軍港空襲の時には敵機の機銃に狙われながら電令届けたりもしたそうな。 褒美に上官から恩賜の煙草貰って仲間と回し吸いしたのをよく語ってたけど、原爆の雲を見たと言ってもその後の事は語らなかったな。 #あちこちのすずさん
2018-07-27 08:17:58あまり話したがらない祖父母から何とか聞き出した話しはヘビもみかんの皮もスズメも食べた。山に防空壕を掘って隠れた。祖父は訓練中に終戦を迎えた。祖父母どちらも実際の苗字の家の人間では無く夫婦で養子縁組した。って事かなぁ #あちこちのすずさん
2018-07-27 08:27:01戦中祖父母は台湾におり、敗戦で3歳のおじと生後すぐの母を連れて引き揚げた。食べるにも事欠き、引き揚げ船で配られるコーラン飯(コーリャン)にありつけても、おじの英夫は「ひでちゃんは赤いご飯は嫌いんよ」と駄々をこねた話はよく祖母が生前語っていた。#あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-27 08:36:14あの当時は親の決めた相手と結婚するなんて当たり前で、祖母もそうして祖父と結婚したわけだが、「おじいちゃんと結婚する前、おばあちゃんは他に好きな人がいたらしいよ」と母から聞いた。まあ片思いは自由だしね。 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-27 08:49:04#あちこちのすずさん ウチの父は終戦時12歳、千葉県の九十九里浜側の家の前にある木の上から終戦後に上陸してくる米軍を見たと言ってたけど そばの海は遠浅で港も無い、小さな上陸艇で来た? 隣町には海軍飛行場があり小規模な爆撃があったようだ、模型店のご主人がこの近くに爆弾が落ちたと言ってた
2018-07-27 09:30:34うちの祖母から聞いた話。 兵隊さんとデートをするのに洋服や生地が無くて、カーテンを染めてワンピースを作って着ていったそうです。 「私は日本のスカーレット・オハラよ」 とちょっと恥ずかしそうに言っていました。 #あちこちのすずさん
2018-07-27 09:32:47私の祖母は終戦の年にはすでに4人の子どもがいた。 本当は5人だったんだけど…。 終戦の前の年に生まれた男の子を亡くした。 祖母はそれをずっと悲しんでいて、亡くなるまでずっとその男の子の月命日にはお菓子のお供えを忘れなかった。 #あちこちのすずさん
2018-07-27 09:33:31父方の祖父は背が低くて痩せてて病弱だったので(でも働かないわ浮気しまくりだわのろくでなしだったらしい(祖母談))丙種合格。 終戦の年に祖父が徴兵された時に祖母は「このろくでなし(本当に言った)まで集めないといけないんだから、日本は負ける」と思ったと。(続) #あちこちのすずさん
2018-07-27 09:53:34でも当時は負けるとは口に出しては言えなかったし、負けた時に子どもたちだけでも生きていけるように備えておくことも本当にこっそりとバレないようにやっていたと話してくれた。 あんなに息苦しい悲しい時代は2度とごめんだ、ときっぱり言っていた。 #あちこちのすずさん
2018-07-27 09:53:35大正15年生まれの母方亡祖父。母方実家に昔から軍服の若い男性の写真があり、母も誰か知らなかったので調べたら祖父の戦死した従兄だった。母方実家は元々祖父の叔母の嫁ぎ先で、祖父は養子だった。 戦死地は沖縄でハクソー・リッジの数キロ近く。あの映画は他人事ではなかった #あちこちのすずさん
2018-07-27 09:46:39