#あちこちのすずさん の物語――『戦中・戦後の暮らしの記録』と「この世界の片隅に」
ある日、警戒警報を空襲警報と聞き間違えた祖母は防空壕に逃げ込み、先生に怒られた。警戒警報を空襲警報と間違えたから覚えているのだと教えてくれた。 この時、祖母が逃げ込んだ防空壕は建物のあいだに縦方向に掘っただけのものだった。もし建物が空襲にあえば命はなかった。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:08:40映画 #この世界の片隅に がきっかけで祖父が呉から出征して途中アメリカ軍に撃墜され、東南アジアで捕虜生活をしていたことを初めて知ったときのツイート。 輸送船だったので哲さんとはちょっと違うけど、映画のエピソードに祖父を重ねてしまった。 #あちこちのすずさん #クローズアップ現代 twitter.com/sahi_kemukujar…
2018-07-25 21:09:40先日祖父の四十九日の後祖父の回顧録を読む機会があった。生前は戦争について話したがらなかったから、知らない事ばかりだった。 祖父が南方戦線に行っていたのは知っていたが、呉から出征したらしい。輸送船で東南アジアに向かう途上米軍の攻撃で船は沈没。仲間や馬が次々死んでいくのも辛かったが→
2017-03-30 21:01:09#あちこちのすずさん とっても素晴らしいハッシュタグ。 映画のファンだからってだけじゃない。このタグがきっと記憶の器になってくれる。日本中、世界中あちこちの片隅のすずさんのお話が聞きたい。 pic.twitter.com/9ctHaCpOei
2018-07-25 21:09:52ボクの父親は海軍で、大和に乗る予定が身体を壊して除隊して、そのおかげで今ボクが生きています。父親は大正12年生まれです。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:10:17タイムラインで流れてきた #あちこちのすずさん の色んなお話、なんだかしんみりする。平和に過ごせて、命を狙われることもなく自分の好きなことを思い切りできる毎日が大切で尊い。昔ほんとうにあったリアルな事実を「歴史の教科書のネタ」として風化させちゃ絶対だめだよなぁと私は思います……
2018-07-25 21:11:43(このタグに該当するかはわからないけど) #あちこちのすずさん 鹿児島の祖父は特攻隊員(候補?)だったそうです。1945年の9月に出撃する予定だったのですが、8月で戦争が終わったために行かずに済みました。もし戦争が半月でも長引いていたら、父も私も生まれていませんでした。。
2018-07-25 21:12:14#あちこちのすずさん 中学の時、技術の先生から聞いた話。昭和二十年八月六日、国民学校低学年だった先生は、家族と畑仕事をしていた。腰をかがめて仕事をしていたら、額のあたりに「カッ」と閃光のようなものを感じ、頭をあげると北の空に巨大な雲が。愛媛の松前という町でのことである。
2018-07-25 21:15:45終戦時3歳半の母は空中戦で飛行機が煙吹いて落ちるのを見て怖かったと祖母に報告した。(祖母の手記より) 当の本人は覚えていない。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:16:46なんか、主催者の引き出したい「ほのぼのエピソード」とは違う投稿をしちゃった。でもウチにはないのよ。身内に戦死者も出てるしね… #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:17:01終戦時国民学校四年生だった父。学校で先生から聞いた事を走って帰って家族に報告。「ルーズベルトが死んだって!これで戦争勝つよね!!」と。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:20:36#あちこちのすずさん 祖父の妹(今年で95歳)は戦時中、徳島の薬問屋に身を寄せていたそうですが、空襲で焼夷弾の降り注ぐ中を吉野川の浅瀬を走って逃げたと教えてくれました。 その後大阪に嫁ぎ、今現在も健在です。9月に大阪へ行くので、色んな事を聞いてこようと思います。
2018-07-25 21:17:33今年86歳の母、昭和20年8月13日の秋田市土崎空襲では、祖母と裏山に避難しました。その祖母が避難中おしっこを漏らした事と道端の野草を摘んで食べていた事を繰り返し話します #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:18:12戦後、子供の学生服ボタンがなかったので祖父が着てた予科練の制服からボタンを頂戴してた祖母。 なので祖父の遺品である予科練制服にはボタンが全部ない。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:19:36#あちこちのすずさん 台湾育ちの母は晴美さんより少し年下。木果(パパイヤ)や大根餅を食べていたそう。窓ガラスにはヤモリがビッシリ貼りついていた。 母の兄、鬼ィちゃん(妹に拳骨はしない)は敗戦後、道端の煙草を拾い集めて包み直し、台湾人に売って小遣い稼ぎしていたそう。タフです。
2018-07-25 21:20:33前にも書いたがうちの祖母は看護婦として中島飛行機の小泉の工場にいた 東京大空襲の日は東京の方の空が夕焼けのように真っ赤に染まって、普段は真っ暗な深夜なのに互いの顔が見えたという そして確か自身も空襲に遭ったはずだがそのへんの話はちゃんと聞けてない #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:21:19義父が子供の頃、群馬県太田市の中島飛行機の工場を爆撃したB-29が迎撃され、墜落する様子を見たそうです。子ども心に銀色に輝く機体は美しく、スローモーションのようだったと。 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に pic.twitter.com/veT2LKCJB4
2018-07-25 21:22:47#あちこちのすずさん 母は大和町の農家生まれ、毎日すいとんやさつまいもを食べていた。 疎開してきた遠縁の女優さん一家との生活、街から物々交換に来る人々を見た話を沢山聞きました。 そしてあの朝、遥かに離れた広島のきのこ雲が山の向こうに見えたそうです。晴美さんと同年代でした。
2018-07-25 21:24:217年生まれの父は呉市亀山町に住んでいて、配給の小麦粉持ってメロンパンさんにお使いに行っていたそうな。 配給難で小売できるパンが焼けなかったメロンパンさんは、小麦粉と手間賃パンを焼いてくれていたそうです。 (あのメロンパンさんです。) #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-25 21:25:10父が亀山町に住んでいた頃はそこそこ裕福だったそうで、二階の空き部屋を海軍さんを下宿させていたそう。 海軍さんは休みになると、父を連れて本通で駄菓子を買ってくれたりしたそう。 その後、ボンは帰れと言って別れ、朝日町方面に歩いて行ったとか。 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-25 21:30:27戦中に一歳数ヶ月だった父。 当時のハッキリした記憶は殆どない。 ただ…… 疎開先に会いに来た祖母が帰る時に姉(私の伯母)が祖母に取りすがり「帰らないで!お母ちゃん!置いてかないでぇ!」と泣き叫んだ声だけは今でも忘れられないという。 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-25 21:27:08私の祖父、海軍で船に乗って、雑誌(艦報)作ってた。 #あちこちのすずさん pic.twitter.com/ezvmrz7ENZ
2018-07-25 21:27:29近所の農家から聞いた話。先代のおじいさんが若かったころ、甘いものが不足していた時代に 山梨から東京まで一斗缶の黒蜜を買い出しに行ったとのこと。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:27:51亡くなった祖母がしてた話。。湾内に停泊してたタンカーが艦載機の空襲で沈没。海岸には大量の油が漂着。近隣住民が総出で油を回収して蝋燭にした。配給が全くなかったので有難い贈り物だった。調べてみると、そのタンカーは「せりあ丸」だった。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:30:56