「諫言」は西アジアの歴史にもあったのか?
- hoshinospw
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まずは唐の太宗、李世民の、臣下からの「諫言」に対する姿勢のエピソードから始まった・・・
李世民は本人が「自分は諫言した臣下を遠ざけたり罰したことは一度もない」と語っているように、そもそも諫言に怒って誰かを左遷したり罷免したこと自体ないんじゃないかな?他人をやたら弾劾したり失敗を攻め立てる蕭瑀を怒って罷免したことはあるけど、彼もすぐ復職してるし
2018-07-29 23:57:30魏徴と李世民の間には一種の緊張感があったと思うけれど、それは優れた君主であろうとする李世民の義務感と、それを支えようとする魏徴の義務感からくる引き締まった雰囲気が主だったもので、二人の関係性に冷ややかなものがあったかというとまた違うと思うんだな〜
2018-07-30 20:36:29それこそ李世民が「魏徴は私のことを前後三百回諌めた」と語っているように、三百回世民が何かやらかしてもその都度魏徴は彼を正そうとして、それだけの意志と根気を李世民に向けていたわけで。お互いに信頼関係が築けていなかったらこんな数字は積み上げられていないと思う。
2018-07-30 20:44:39魏徴が李世民に拝謝して「自分が諫言を行うのは陛下がそれを聞き入れてくれるからで、陛下がそういった人物でなければ、敢えて龍鱗を犯すような真似はしない」と語ったのは、李世民へ納諫を勧めるためでもあるだろうけど、ストレートに自分の存在を受け入れる李世民への謝辞も含まれているように感じる
2018-07-30 20:53:42東アジアの君主は独裁君主であるけれども、臣下がそれを諫める「諫言」という政治風土がありますね、というお話。
中国では五諫といって進諫の手法が五つに分類される。史料によって異同があるけれど、たとえば『後漢書』李雲伝の注では諷諫、順諫、窺諫、指諫、陷諫を五諫とし、このうち君主に直言して進諫を行うのは指諫と陷諫の二つのみ。中国でも基本的には君主の顔色を伺って進諫するのがベターだったみたい。
2018-08-01 22:45:05『後漢書』李雲伝の注によれば、諷諫は災いの兆しを察知して君主に遠回しに行う諫言。順諫は言葉遣いを控えめにし、君心に逆らうことなく行う諫言。窺諫は君主の顔色を伺いつつ行う諫言。指諫は物事の誤りを率直に指摘する諫言。陷諫は国家の害を述べ、君主のために命を賭して行う諫言。だそう。
2018-08-01 22:46:00ここでの進諫の過激さの度合いは状況の深刻さと連動しているのだと思う。諷諫のように良くない兆しが見られたらそれとなく諫言を行うのが一番スマートで、禍の萌芽を早くに摘み、君主の面子も潰さず自分の身も危うくならない。逆に状況が深刻であれば、諫言も必然陷諫のようなラディカルなものになる。
2018-08-01 22:49:57あ…だから新旧唐書や貞観政要に「犯顏正諫」のような表現が頻出するのは、唐太宗政権において朝政の制度が整備されて、朝廷で直言による進諫が活発に行われたというのが大きいのかも。同時に朝政には起居注も同席するようになり、進諫の記録も大量に残されたわけだしtwitter.com/fudge_sp/statu…
2018-08-01 23:01:53新旧唐書や貞観政要には「犯顏正諫」のような「顔を犯して諫言する」という表現がやたら出てくるけど、単に李世民が沢山怒られてるからその分出てくるだけなのか、それとも犯顏ブームがあったのか微妙に気になる
2018-07-30 21:54:58とはいえ、やはり諫言は相当に危険な行為でもあったようで・・・
唐六典(門下省・諫議大夫)の五諫も諷諫が最初で直諫が最後。直諫に対する注には、「君の過失を直言するを謂う。必ず已むを得ずして然る後に之を為す者なり」とあるね
2018-08-02 03:50:37そうそうこれ書き忘れてて…>RT 『唐六典』で規定される五諫は諷諫、順諫、規諫(規則を述べて事柄を正す)、致諫(具体的な話をして意見を明らかにする)、直諫(君主の過失をやむを得ず直言する)の五つ。形式的な進諫が行われた唐代でも、直諫は臣僚にとって最終手段だったらしい。
2018-08-02 11:45:13@fudge_sp まぁ下級官僚が売名(処刑されても直諌した剛直の士という虚名が得られる)がてら極論ぶちあげて皇帝批判してそれに中級官僚が乗っかって皇帝がブチ切れたら側近の宰相が「処刑すると外聞悪いんで……」って諌める明末よりは……(出典黄仁宇
2018-08-02 12:26:00@Masinissa2016 @Historian_nomad ww 憲宗が白居易のクソガキ(怒)って怒って李絳が取りなした話ありましたね…笑
2018-08-02 14:34:33話題を聞きつけたもんけさんが参戦。
西アジアの政治史との比較が始まる。
中国三千年だか四千年だかの歴史一代を見ても、唐太宗とその朝臣側近達との関係ってなかなか無いように感じるけど、西アジアはそもそも「諫言」って慣習がないので、君主に意見する時は機嫌を損ねないよう婉曲的に考えを修正させるっていう面倒なやり方をするのよね…(^^;>西洋でも同じかもだけど
2018-08-01 06:30:11そこで物を言うのが軽妙洒脱な話法から来る「機知」の妙みたいなもので、君臣間の歓談の席でのコミュニケーション技術の類いで、大概は君主の余暇の時に発揮させられるもので、朝政時にはそういうのはなかなか見られない感じ。>君主になにか「面白い」と思わせたら勝ちで、怒らせたら基本アウト的な
2018-08-01 06:34:54@mongkeke_tarikh こういう話には非常に食いつく!中国の史書にもこの手の話は枚挙にいとまがない。呉の孫権と諸葛亮の兄、諸葛瑾の関係も誰かの小説に出てたと思う。婉曲に主君を諌めたという話。西アジアというのは、やはり騎馬民族のモンゴル系、トルコ系、ツングース系のことなのでしょうか?
2018-08-01 07:50:51@lCbTjiPpxU65Jb9 西アジアの宮廷の雰囲気というのは、古くは旧約聖書の創世記から各預言書書・諸書の逸話に表れている感じですが、イスラーム時代以降ですとアラビアンナイトのアッバース朝カリフ・ハールーン・アッ=ラシードとその宰相ヤフヤー・ブン・ハーリド等の「君主とその宰相」系の説話が代表的かも知れません
2018-08-01 11:51:37@lCbTjiPpxU65Jb9 ただ、アラビアンナイトは基本は民間説話とかおとぎ話の類いですので、実際にある程度の資料性のある王侯貴族の逸話とかですと、東洋文庫『ペルシア逸話集』の「カーブースの書」や「四つの講話」、ニザームル=ムルク『統治の書』等に載る君主関係の逸話がそれになるでしょうか。これらの資料は実際に
2018-08-01 11:57:12@lCbTjiPpxU65Jb9 実際に著者が宮廷生活で見聞きした逸話を書き残していますので、著者の実体験に基づくものや過去の宮廷人の逸話は、当時宮廷周辺で実際に語り伝えられていたものでありますので、それなりに資料性は高いと言えるかと思います。この三著の著者の来歴を言えば、例えば「カーブースの書」は、
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