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水野 亮(3) @drawinghell
さて、ツイート数が4000を超えたのを記念して(←嘘)いよいよ鈴木春信の浮世絵及び「写実」についての考察に入ることにするか。正直言ってゼンゼンまだ準備は不十分なのだが、準備が整うのを待っていたらいつまで経っても始められないし、またこればかりに専念していられるような状況でもない。
水野 亮(3) @drawinghell
しかし結構これは面白い話なので、できればちゃんと準備した上でしっかり考えてみたいのである。故にここでは「こんなことを考えてみたいんだけど…」という概観を示す程度に留めようと思う。それでもかなり長くなるのと思うので、行きつ戻りつ中断しつつ…といった感じで進めていきたい。
水野 亮(3) @drawinghell
まずは「写実」についての自分の考えをまとめる。「写実」の語の変遷については全然ちゃんと調べていないが、近世においては似た意味で「写真」や「写生」の語の使用が散見される。そのうち「写生」は正岡子規の提唱によって明治以降、特に近代短歌・俳句の分野において重要な概念となってゆく。
水野 亮(3) @drawinghell
子規は「写生」の語を美術の分野より転用したのだが、当の美術における「写生」は現在では「スケッチ」や「デッサン」の訳語としての使用が専らだろう。写生=スケッチは画家のみならず彫刻家や工芸家なども基礎的な訓練とする。しかし、そもそもそれは何を目的として行われるものなのか?
水野 亮(3) @drawinghell
まず言えることは、美術家の訓練としての写生は決して対象の形を「そっくりに写す」ための練習ではないということだ。視覚情報としての表面的な形を「そっくりに写す」ことが目的ならば、画家以外の美術家が写生を訓練する理由もなくなる。それではニッチな特殊技能に過ぎない。
水野 亮(3) @drawinghell
自分の理解では、美術家の訓練としての写生は「物の本質」を掴むことをこそ目的にして行われるものなのである。では「物の本質」とはなにか。それは言ってみれば自然界に存在する物の形や動きを規定する本質的な原理のようなものだ。時に我々をそれを「美」という言葉で呼んだりする。
水野 亮(3) @drawinghell
最近自分は物の動きに興味があるのだが、実際世界は「面白い動き」に満ちている。鳥が飛ぶのも、水が流れるのも、木の葉が揺れるのも、みんな面白い。とくに鳥の飛ぶ様は面白く、やはりあれは重力が関係しているからだと思う。重力と摩擦の働きこそが我々が感じる「動きの面白さ」の根底には在る。
水野 亮(3) @drawinghell
しかしそのような目で世界を見回すとき、景色の中でなにか人間の動作だけが目立ってぎこちなく「美しくない」ものに見えたりすることがある。それは我々の野生が衰え、自然界の物理法則に適った効率的な動きをしなくても生きていけるようになったためではないだろうか。
水野 亮(3) @drawinghell
例えば幅の狭い塀の上を猫が歩くとき、その動作における重心の動きを数値で表せば、きっときれいな数式にまで還元することができるだろう。それに対して我々が猫と同じようにスムーズに塀の上を歩けないのは重心が乱れているからに他ならない。つまり自然の物理法則に最適化されていないのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
先のオリンピックを一種目も見なかった(←TV持ってない)自分が言うのもなんだが、おそらくアスリートの動きはそうしたぎこちない人間の動きを排して、より野生に近い、つまり「自然界の物理法則に適った動き」こそを目指しているのだろう。だからこそ彼らの動きは「美しい」のである。
水野 亮(3) @drawinghell
以上は動きについての話だが、まったく同じことが「かたち」についても言える。我々が物の外観から感じ取る「〇〇らしさ(ex.鳥らしさ、猫らしさ、木らしさ、人間らしさ)」を突き詰めていけば、究極的には数式にまで還元できるようなパターン=自然界の法則が見い出せることだろう。
水野 亮(3) @drawinghell
そのような自然界の法則に適った物の本質を掴むことこそが、美術家が写生の訓練をする第一義なのである。そしてその物の本質を的確に捉えた表現を「写実」という言葉で表すことがある。美術の専門家が「この造型の基礎には写実がある」などと言うときの「写実」はたいていこの意味だ。
水野 亮(3) @drawinghell
例えば安田靫彦は物の本質を捉えた写実を「高度な写実」と呼び、見た目をそっくりに描くという意味の「卑近な写実」と区別している。彼は後者のことを「所謂生臭い低級の写実」とまで呼んで唾棄しているが、その二つを混同して「写実」を論じる例は当時(そして今も)まま見受けられる。
水野 亮(3) @drawinghell
言うまでもなく「物の本質を捉える」ことと「見た目をそっくりに描く」ことは全くの別物である。後者が表面的な情報の再現に腐心するのに対し、前者はむしろ抽象化をこそ指向する。そして物の本質を捉えるというの意味での「写実」ならば、古代の洞窟壁画にまで遡って見出すことができるのだ。
水野 亮(3) @drawinghell
さて、それに対して近代になってからようやく現れる「写実」がある。19世紀ヨーロッパにおいて生まれた「写実主義(realism)」における写実の概念がそれだ。便宜的にここでは物の本質を捉えるという意味での写実を[写実]、近代realismの写実を<写実>と表記することにする。
水野 亮(3) @drawinghell
では[写実]と<写実>はどう異なるのか? 簡単に言ってしまえば背景となる思想が違うのである。[写実]の背景にある思想は、既に述べてきた通り物理法則に適った「物の本質」が自然界には存在し、それを「美」の本質と見做し的確に捉えることをこそ最善とするものである。
水野 亮(3) @drawinghell
それに対して<写実>は[写実]における「物の本質」のような対象に潜む捉えるべき価値を前提とせず、まずその観察をする自身の「見方」をこそ問題とする。それは中世以前の宗教的な価値観に基づいた世界認識から近代の科学に基づいた世界の把握への移行とも深く関係するだろう。
水野 亮(3) @drawinghell
つまり近代の<写実>とは何よりも先入観として持つ旧来的な「世界の見方」を排し、科学的な目でフラットに世界を観察する方法なのである。「美」のような既定の価値観を前提とするのではなく、むしろ先入観を排して「この世界」の成り立ちを怜悧に探る視線をその特長とする。
水野 亮(3) @drawinghell
例えば机の上にリンゴが乗っているとする。リンゴと机の接地面やリンゴの丸みを表す形などに注意して正しくリンゴが机の上に置いてあるように描こうとするのが[写実]である。「リンゴらしさ」や「リンゴが机の上に乗っている“らしさ”」にこそ自然界の物理法則(=美)が隠されているからだ。
水野 亮(3) @drawinghell
それに対して<写実>の表現ではまず「机」、「リンゴ」、「乗っている」といった先入観を排するところから始める。その名前を排した目前の光景を科学的な目で観察する。そしてその観察によりその光景=世界を成立させている法則([写実]が捉えようとする物理法則以上のもの)を探ろうとする。
水野 亮(3) @drawinghell
近代絵画における写実主義の始祖はクールベとされる。しかしその実験と思想が深化したのはむしろそれに続く印象派からだろう。そしてセザンヌに到って絵画における<写実>は「主観/客観」の壁を乗り越えて実存的な世界認識の再現という領域にまで踏み込んだのだと自分は考えている。
水野 亮(3) @drawinghell
自分が<写実>の画家として思い浮かべる代表的な画家はセザンヌ、モランディ、熊谷守一である。つまり<写実>の表現は「見た目をそっくりに描くこと」や「描写が細かく説明的であること」を必ずしも必要としない。[写実]と同様に、<写実>も抽象化のベクトルを持つのである。
水野 亮(3) @drawinghell
自分は以前<写実>について守一を題材に考えてみたことがあるが全く敵わなかった。[写実]についてもそれを語るべき適任には程遠い(写生の訓練も碌にしてないし…)。いずれも取り組みがいのある魅力的なテーマではあるが、しかしこれから考えようとしている「写実」は、実はそのどちらでもない。
水野 亮(3) @drawinghell
ここで考えてみたいのはむしろここまで否定的に語ってきた「見た目が似ている」こと自体を評価するような「写実」の価値観についてなのである。つまり「対象(現実)と似ている」=「リアル」であることにこそ価値を見出す価値観=思想だ。便宜的にここではそれを{写実}と表記する。
水野 亮(3) @drawinghell
//ちなみにいわゆる狭義の(つまりジャンル絵画としての)写実画=通称「ホキ画」はあまりこの話には関係がない(というか関心がない)。もしかしたらその流行はこれから語る{写実}の価値観ともなんらかの関係があるのかもしれないが、正直よくわからない(というかホントに関心がない…)。
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