「幕末の三舟」の1人 山岡鉄舟の生涯をまとめてみた

幕末の幕臣、山岡鉄舟の生涯をまとめてみました。
4
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1888年(明治21年)7月19日 幕末から明治時代の幕臣・山岡鉄舟が亡くなりました。鉄舟は号で通称は鉄太郎。所謂「幕末の三舟」の1人です。 (他に勝海舟・高橋泥舟)江戸城の無血開城において重要な役割を果たした人物として知られ ています。#江戸城無血開城 #幕末 #佐幕派 pic.twitter.com/MjNVRIodYQ

2018-07-19 21:26:27
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1836年7月23日(天保7年6月10日)山岡鉄舟は江戸・本所に蔵奉行・木呂子村の知行主 小野朝右衛門高福の四男として誕生します。 母は常陸国鹿島(現:茨城県鹿嶋市)の神職・塚原家の血筋で、塚原卜伝は先祖にあたります。

2018-07-20 01:16:23
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

鉄舟は剣・禅・書の達人としても知られていますが、9歳から剣術・槍術を学び始めました。幼少時を飛騨高山で過ごし、弘法大師流入木道51世の岩佐一亭に書を学び15歳で52世を継承、一楽斎と号します。 また、父が招いた井上清虎からも北辰一刀流剣術を学んでいます。

2018-07-20 01:16:23
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1852年(嘉永5年)鉄舟は父の死に伴い、江戸へと戻ります。 1855年(安政2年)鉄舟は井上清虎の援助で講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山に忍心流槍術を学びます。やがて静山が急死すると、 静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて静山の妹・英子と結婚し、山岡家の婿養子となりました。 pic.twitter.com/bYmcd4pXJm

2018-07-20 01:16:23
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1856年(安政3年)剣道の腕が随一であった事から、講武所の世話役となり、翌1857年(安政4年)には清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成します。 1862年(文久2年)浪士組が結成され、鉄舟は親友の中條金之助と共に取締役に就任。 pic.twitter.com/WfZjvxnYLM

2018-07-20 01:16:25
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1863年(文久3年)清河ら浪士組は 14代将軍・徳川家茂の先供として上洛しますが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、鉄舟は浪士組を引き連れ江戸に戻ります。 余談ですが、この時京都に残って後に活躍するのが近藤勇・土方歳三・沖田総司などの新撰組です。 pic.twitter.com/2T3CHpM80Z

2018-07-20 01:16:27
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1863年5月30日(文久3年4月13日)清河八郎は幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布赤羽橋(現:麻布十番商店街そば)で暗殺されます。清河暗殺後、鉄舟は謹慎処分となりました。 1868年(慶応4年)鉄舟は新たに設立された精鋭隊の歩兵頭格になります。

2018-08-03 01:33:17
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、4月1日 鉄舟は官軍が駐留する駿府(現:静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会しました。 3月4日の江戸城重臣会議において徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り、謹慎していました。 pic.twitter.com/YPvFqkPWwP

2018-08-03 01:33:17
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

海舟はこのような状況を伝える為、征討大総督府参謀の西郷隆盛に書を送ろうとし、当初は高橋精三(泥舟)を使者にしようとしますが、高橋は慶喜警護から離れられなかった為、鉄舟に白羽の矢が立ちます。 勝は鉄舟は初対面でしたが、一見してその人柄を大いに評価し、進んで西郷への書状を認めると共に pic.twitter.com/TB1PWNxoHk

2018-08-03 01:33:18
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士・益満休之助を護衛につけ、送り出します。 鉄舟と益満は、かつて尊王攘夷派の浪士・清河八郎が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知の間柄でした。

2018-08-03 01:33:19
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

鉄舟と益満は駿府の大総督府へ急行し、下参謀・西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込んで西郷との面談を求めます。 既に江戸城進撃の予定は4月7日と決定していましたが、西郷は勝からの使者と聞いて鉄舟と会談し、鉄舟の真摯な態度に感じ入り交渉に応じます。 pic.twitter.com/y919lWOD4Y

2018-08-03 01:33:19
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

ここで初めて東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされます。 この時、江戸城総攻撃の回避条件として西郷から鉄舟へ提示されたのは以下の7箇条でした。

2018-08-03 01:33:21
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。 2、江戸城を明け渡すこと。 3、軍艦をすべて引き渡すこと。 4、武器をすべて引き渡すこと。 5、城内の家臣は向島に移って謹慎すること。 6、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰する。 7、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する。

2018-08-03 01:33:22
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

これは去る3月29日に大総督府軍議で既決していた「別秘事」に概ね沿った内容でした。鉄舟は上記7箇条のうち、第1条を除く6箇条の受け入れは示しますが、 第1条は絶対に受けられないと断固拒否し、西郷と問答が続きます。西郷はこれは朝命であると凄みますが

2018-08-03 01:33:22
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

やがて鉄舟が「もし島津侯(島津斉彬)が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずだ」と詰問します。 西郷は、江戸百万の民と主君の命を守る為、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされます。 pic.twitter.com/YLYDSr6lZD

2018-08-03 01:33:22
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

そして、その主張はもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証しました。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれます。 鉄舟はこの後、4月5日・6日に渡って行われた勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会っています。 pic.twitter.com/sTpaIORoCE

2018-08-03 01:33:23
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

明治維新後は徳川宗家16代当主・徳川家達に従い、駿府に下ります。駿府での鉄舟は静岡藩藩政補翼に就任。また、清水次郎長と意気投合し「壮士之墓」を揮毫して与えています。 幕臣の救済事業である牧之原台地開墾の責任者・中條金之助には、茶の生産を助言しています。 pic.twitter.com/HFz8BMVqk3

2018-08-10 00:18:31
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1871年(明治4年)廃藩置県に伴い、新政府に出仕。静岡県権大参事・茨城県参事・伊万里県権令を歴任しました。 1872年(明治5年)西郷隆盛のたっての依頼で鉄舟は宮中にも出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えます。 pic.twitter.com/A6wHjyGygY

2018-08-10 00:18:31
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

侍従時代は深酒をして相撲を取ろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、1873年(明治6年)皇居仮宮殿が炎上した際は淀橋の自宅から いち早く駆けつけたりするなど、剛直なエピソードが知られています。また、宮内大丞・宮内少輔を歴任。

2018-08-10 00:18:33
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1882年(明治15年)西郷との約束どおり致仕。(=官職を退いて引退する事)1887年(明治20年)5月には功績により子爵に叙されます。 1883年(明治16年)維新に殉じた人々の菩提を弔う為、鉄舟は東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立しました。 pic.twitter.com/Np258RIBKy

2018-08-10 00:18:33
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1885年(明治18年)一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開きました。 1888年(明治21年)7月19日9時15分 山岡鉄舟は皇居に向かって結跏趺坐(=座禅の姿の1つ)のまま絶命。享年53歳、死因は胃癌でした。 pic.twitter.com/44XcnhTAPT

2018-08-10 00:18:34
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

前もって明治天皇の内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は皇居前で10分ほど止まり、明治天皇は高殿から目送したそうです。全生庵での会葬者は5000人にも上りました。 鉄舟の死後、門人たちは鉄舟を慕うあまり後を追い、殉死しようとする者が相次ぎます。中には3年も墓前に留まった者も居ました。 pic.twitter.com/cNMcx67Ykq

2018-08-10 00:18:36
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

その人間性は、西郷隆盛に「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させるものでした。 勝海舟や幕末の志士の活躍が華やかに見える中で、江戸無血開城の真の立役者は山岡鉄舟なのではないでしょうか。

2018-08-10 00:18:37