明治維新の三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみた

幕末の志士から明治維新を担った木戸孝允(桂小五郎)の生涯をまとめてみました。
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◇もえ◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1877年(明治10年)5月26日 明治維新の維新三傑の1人 木戸孝允が亡くなりました。享年45歳。 桂小五郎とも呼ばれ、長州藩士として討幕に努め薩長同盟を推進し明治維新に貢献。明治新政府では総裁局顧問専任や参議を務め、版籍奉還や廃藩置県を実現しました。 #木戸孝允 #幕末 #明治維新 pic.twitter.com/FGtEdHJeao

2018-05-26 23:55:35
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1833年8月11日(天保4年6月26日)木戸孝允は長門国萩城下呉服町(現:山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれました。 和田家は毛利元就の七男・天野元政の血を引くといわれます。長男でしたが、病弱で長生きしないと思われていた為、 pic.twitter.com/zj2PUR43K5

2018-05-27 02:01:19
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1840年(天保11年)7歳で向かいの桂家(家禄150石)の末期養子となり(養父:桂九郎兵衛孝古)長州藩の大組士という武士の身分と禄を得ます。 しかし、翌年に桂家の養母が亡くなった為、生家の和田家に戻って実父母たちと共に暮らしました。

2018-05-27 02:01:21
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少年時代は病弱でありながら悪戯好きの悪童でもあり、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していました。 ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけたところを業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまいます。しかし想定の範囲内だったのか、 pic.twitter.com/IBsRCUavyy

2018-05-27 02:01:21
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岸に上がり額から血を流しながらも、ニコニコ笑っていたというエピソードがあります。この時の額の三日月形の傷跡は後年、古傷として残っていたそうです。 10代に入ってからは、藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)長州藩の若き俊英として注目され始めます。 pic.twitter.com/MuKrmaKeSm

2018-05-27 02:01:23
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1846年(弘化3年)長州藩の剣術師範家のひとつの内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門。1848年(嘉永元年)元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎と名乗ります。 実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」ことを言い含められ、

2018-06-05 21:44:27
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それ以降は剣術修行に人一倍精を出して腕を上げ、実力を認められるようになります。1852年(嘉永5年)剣術修行を名目とする江戸留学を決意。 藩に許可され、藩に招かれていた神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸への帰途に5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生に随行し、私費で江戸に上ります。

2018-06-05 21:44:27
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江戸では三大道場の1つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受けます。やがて免許皆伝を得て入門1年で塾頭となります。 大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝わっており、小五郎と同時期に免許皆伝を得た pic.twitter.com/DsaZFJ19Pf

2018-06-05 21:44:27
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大村藩の渡辺昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物)と共に【練兵館の双璧】と称えられました。 その後も小五郎は幕府講武所の総裁・男谷信友(直心影流)の直弟子を破るなど、藩命で帰国するまでの5年間、練兵館の塾頭を務めあげその間に剣豪の名を天下に轟かせています。 pic.twitter.com/LLQjorLkVa

2018-06-05 21:44:29
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練兵館塾頭を務める傍ら、1854年(嘉永7年)ペリーの再度の来航に大いに刺激され、すぐさま師匠の斎藤弥九郎を介して伊豆・相模・甲斐など 幕府領5ヶ国の代官・江川英龍に実地見学を申し入れ(江戸時代に移動の自由はない)、その付き人として実際にペリー艦隊を見聞します。 pic.twitter.com/WjyJpfntZm

2018-06-07 22:45:09
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師匠だった吉田松陰の「下田踏海」に際しては自ら積極的に協力を申し出ますが、弟子思いの松陰から堅く制止され、結果的に幕府からの処罰を免れます。 しかし、長州藩士・来原良蔵と共に藩政府に海外への留学願を共同提出し、松陰の下田踏海への対応に弱っていた藩政府をさらに驚愕させます。 pic.twitter.com/2HLga3H12m

2018-06-07 22:45:11
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倒幕方針を持つ以前の長州藩政府が幕府の鎖国の禁制を犯す海外留学を秘密裏にですら認める可能性は乏しく、小五郎はそれまで通り練兵館塾頭を務めながら、 西洋兵学・小銃術・砲台築造術を学んだり、英語や造船術を学ぶなど、常に時代の最先端を吸収していく事を心掛けました。 pic.twitter.com/sR8R9IctCi

2018-06-07 22:45:12
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1862年(文久2年)藩政府中枢で頭角を現し始めていた小五郎は、周布政之助・久坂玄瑞たちと共に松陰の航海雄略論を採用し、 長州藩大目付・長井雅楽が唱える幕府にのみ都合のよい航海遠略策を退けます。これにより、長州藩要路の藩論は開国攘夷に決定付けられました。 pic.twitter.com/jCm1qVQNNw

2018-06-07 22:45:14
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同時に異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線も論外として退けられました。欧米への留学視察や欧米文化の吸収、その上での攘夷の 実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着します。1862年(文久2年)6月5日 長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆しました。 pic.twitter.com/mO3HgoH0ii

2018-06-07 22:45:14
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この長州五傑と呼ばれた秘密留学生5名~井上馨(聞多)伊藤博文(俊輔)山尾庸三、井上勝、遠藤謹助~の留学が藩の公費で可能になったのは、 長州藩士・周布政之助が留学希望の小五郎を藩中枢に引き上げ、オランダ語や英語に通じている村田蔵六(=大村益次郎)を小五郎が藩中枢に引き上げ、 pic.twitter.com/pEJaGxgAWQ

2018-06-07 22:45:16
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開明派で藩中枢が形成されていた事によるものです。同年6月9日 朝廷からの攘夷要求を受けた幕府による攘夷決行の宣言通り、久坂玄瑞率いる長州軍が 下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し攘夷戦争を始めます。この戦争は約2年間続きますが、当然の事ながら破約攘夷には繋がらず、 pic.twitter.com/NLVzrRFFcv

2018-06-07 22:45:17
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攘夷決行を命令した幕府が英米仏蘭4カ国に賠償金を支払う事で決着します。 その後、藩命により江戸から京都に上った小五郎は京都で久坂玄瑞・真木和泉たちと共に破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還と新国家建設を目指します。

2018-06-07 22:45:19
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「八月十八日の政変」の不当性が認められない上に「池田屋事件」まで起こされた長州藩は小五郎や周布政之助・高杉晋作たちの反対にもかかわらず、先発隊約300名が率兵上洛し、 久坂玄瑞軍が山崎天王山に、来島又兵衛軍が嵯峨天龍寺に、福原元僴軍が伏見に陣取り、 pic.twitter.com/U7WX9GgORV

2018-06-15 21:41:33
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朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤(無実の罪だと明らかにする事)を迫ります。朝廷もそれに応じて京都守護職を会津藩から長州藩に変えようとするまで進みかけますが、 一橋慶喜から「もしそうしたいのであれば、幕府側は一切朝廷から手を引かせて頂く。お好きなようになされるがよい」と pic.twitter.com/44RKhePLAi

2018-06-15 21:41:35
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恫喝され、幕府・会津藩と完全な敵対関係になるまでは考えていない孝明天皇と公卿たちは躊躇してしまいます。そこで劣勢を回復した中川宮朝彦親王などの 佐幕派公卿たちは逆に朝廷と長州派公卿を介した長州との交渉を打ち切らせ、長州軍を挑発。 pic.twitter.com/VTC2SieuGm

2018-06-15 21:41:36
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一気に蹴散らしたい幕府側(一橋慶喜・会津・薩摩守旧派)の意向をそのまま受けて、長州軍の退去を期限付きで最後通告して来ました。 長州方は武門の名誉に賭けて、結果を残さず兵を退く事はできないと天皇直訴と集団諫死する事で朝廷を動かそうと考えます。長州先発隊はまだ瀬戸内海上に居た

2018-06-15 21:41:36
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世子・毛利定広率いる長州軍本隊2千名に引き上げを要請した上で、先遣隊は兵を動かし蛤御門近辺で会津藩兵と武力衝突する事となりました。世にいう「禁門の変(蛤御門の変とも)」です。 来島又兵衛率いる嵯峨天龍寺の長州軍は会津軍を破り、禁裏に後一歩と迫りますが薩摩軍に横腹を付かれます。 pic.twitter.com/hfYWTgSH6U

2018-06-15 21:41:37
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来島が倒れた後は総崩れとなり、散り散りに敗走。福原元僴率いる伏見の長州軍は御所に辿り着けず、早々と大阪方面へ退避しました。 久坂玄瑞率いる天王山の長州軍は淀川の泥土に足をとられた為、出遅れてしまい、御所に辿り着いた時には戦闘がほぼ終わっていました。 pic.twitter.com/YhRl0lI2cE

2018-06-15 21:41:39
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久坂は鷹司邸を根城にして天皇に直訴しようとしますが叶わず、久坂たちは大将として自刃し、残りを天王山方面へ退避させました。 この時小五郎は、因州藩(現:鳥取藩)を説得し、長州陣営に引き込もうと目論み、因州藩が警護していた猿が辻の有栖川宮邸に赴いて、 pic.twitter.com/lnnQL0LCV3

2018-06-15 21:41:40
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同藩の尊攘派有力者・河田景与と談判します。しかし河田は時期尚早として応じず、説得を断念した小五郎は一人で孝明天皇が御所から避難する際に直訴に及ぼうと考えます。 しかしこれも叶わず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、幾松や対馬藩士・大島友之允の助けを借りながら、 pic.twitter.com/3rBtguVdmK

2018-06-15 21:41:43
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