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蓬莱泉いを @iwo_yorunouo
祖母から聞いた話。 母方の実家は客商売をしていた。駅前の大きい通りをずっとまっすぐ、1kmくらいのところで、ガラス張りの店舗を持っていた。商工会議所のつながりで何かと出かけてしまう祖父の代わりに、昼間の店を守っているのは祖母だった。飲食店などとは違い、そうそう客の出入りの多い
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店でもない。通りを行き交う人々を見て過ごす祖母は、毎週決まった曜日、決まった時間に店の前を駅方面へ通りすぎ、やはり同じ時間に反対方向へ帰っていく女性に気がついた。大都市のベッドタウンであったその町では、通勤、通学、もちろんそんな人間はいくらもいるのだが、なぜその女性が特に祖母の目
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にとまったのかといえば、姿かたちが際立っていたからだった。祖母と同世代と思われるその女性は、顔はもちろん、姿勢も美しく、必ず決まった時間に、みっともなく慌てるなどということもなく、凛として、という言葉がこれほど似合う女性を初めて見た、と思うほど、まっすぐ歩いていた。
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服装も、いつもきちんと糊のきいたものを着ていて、仕立てもよく、高級なものだと思われた。化粧も、髪も、乱れていることがない。にこにこしている、というわけではないが、あるかなきかの微笑みを唇に佩いて、静かに歩いていく様は、掛け軸から抜け出してきた観音様のようにも思われた。祖母は、
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その女性を心ひそかに「マダム」と呼んで、店の前を通りかかるのを眺めるのを楽しみにしていた。 真夏の、ある日のことだった。得意客からの長い電話を受けて、要領を得ない話をまとめて祖父宛に書き記し、ふと顔を上げると、目の前に「マダム」が立っていた。
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「まあこれは、失礼いたしました。いらっしゃいませ。何か御用でしたでしょうか」 「ごきげんよう。〇〇はありますか」 急に壊れてしまったのだという。 「まあそれは、難儀だったことでしょう。もちろんございます。少々お時間がかかりますから、そちらにお座りになって」 見れば、「マダム」は
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その穏やかな顔に滝のように汗をかいて、ぴしりとアイロンのかかった美しい刺繍の白いハンケチでそっと押さえている。普段は常連客にだってそんなことはしないのだが、祖母は住居へ取って返すと戸棚に出ている中では一番上等のコップに麦茶をなみなみと注いで、「マダム」に出した。
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「お気遣い痛み入ります」 古ぼけたやかんで煮だした麦茶を召し上がる「マダム」は、洋酒を嗜む女優の様だった、という。 なにしろ古い商店街の、雑然とした店舗のこと、「マダム」ののぞみのものを出すには時間がかかった。愛想笑いを貼り付けた祖母の額を、頬を、汗の雫がぽたぽた落ちた。
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「お客様、もちろん〇〇はございますけれど、ご家族の方、どなたか迎えに来ていただくわけにはいきませんですか」 新しいものを出したとしても、この暑さである。少し時間もかかりそうだし、あとでご自宅へ配達に上がるのが一番良いという気がした。
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ふと、「マダム」が窓の外を見た。真っ白な、陽光が目を焼くような午後だった。それから再び祖母を見た。 「わたくし、家族はおりませんの」 暑いだけではない汗をたんと掻いて祖母が謝罪をすると、「マダム」は手と首を振って、謝る必要はないという意味のことを何度も言って、祖母をなだめた。
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その時、「マダム」の胸に何が去来したのかそれはわからない。けれども、同世代の女性であることに心がふと緩んだのか、なんなのか、麦茶のコップをテーブルに置くと、静かな様子で語りだした。
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──わたくしの実家も、商売をしておりました。こどもの時分にはなかなかに羽振りがよく、両親も良い服を着て、米国の車を使っておりましたよ。そのような様子でしたから、目をつけられたのでしょうか、悪い金貸しからお金を借りて、わたくしが成人する頃にはもう、借金でどうにもならない様子でした。
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金貸しは、極道の末の者でした。ある日実家に、映画でしか見たことのないような親分さんがやって来て、自分と結婚するのなら、借金はすべてなかったことにする、そうでなければこの場で全額払え、と言いました。他にどうする当てもなく、わたくしは親に売られました。
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箱入りだったものですから、流される以外になんの手立ても思いつかず、見たこともないほど大きなお屋敷で、きれいな着物を着せられて、姐さん、姐さんと呼ばれていました。夫となった親分さんはもちろん、皆よくして下すったのですけれど、ついに親しみも感じることはありませんでした。申し訳のない
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ことです。結婚して五年ほどでしたでしょうか、そのあいだ、里に帰ることは一度もなく、両親の消息も聞いたことはありません。夫はその頃とくに忙しそうで、屋敷の奥座敷にいるわたくしにでさえ、何だか恐ろしいことが起こるのではないか、と感じさせる日々でした。突然、わたくしに付いていた者に
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屋敷のはずれの部屋の押し入れに、押し込むように閉じ込められました。いいかい姐さん、出てきちゃあいけない、絶対に出てきちゃあいけない、座布団をよくかぶって、と言ったその声を聞いたのはそれが最後です。その直後から、激しい怒鳴り合いの声と、足音と、何かを振り回す音と、そんなものが
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響き渡りました。「出入り」でした。わたくしは本当に、ただただ、真っ暗な押し入れの中で、震えながら、泣きながら、口に座布団を咥えて、頭にも座布団をかぶって、じっとしていました。他にできることはありませんでした。何度も、わたくしのいる部屋に誰かが入ってきた足音がして、
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これでもうわたくしも殺される、今度こそ殺される、と何度も思いましたけれど、ついに一度も押し入れのふすまは開かれませんでした。どのくらい時間がたったでしょうか。おそらく半日以上はたっていたのでしょうけれど、そのあいだ一度も、お水が飲みたいとか、御手洗に行きたいだとか、
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思うこともありませんでした。ふすまを開けたのは夫でした。外は夜になっていて、大丈夫かと手を伸ばした夫をわたくしは泣きながら拒んだのです。もう耐えられない、離縁してくれ、できないなら殺してくれ、と泣きじゃくるわたくしに、夫は周囲の惨状を見回して、頷きました。
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それから夫が語ったところによりますと、もともと両親の借金が、夫に仕組まれたものだったそうです。日舞の発表会でわたくしを見て、そうしたのだとか。泣き止まないわたくしを見て怒ることもせず、大金と一軒家とをわたくしに持たせて、すぐに離婚してくれたのです。
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別れ際、両親の現在の住居も教えていただきましたけれど、売られた、という思いと、わたくしのせいで破産したのだ、という思いとがあって、訪ねていくことはできませんでした。幸い、日舞のほかにもお華やお茶や、お琴などにも覚えがありましたから、そういうものをひとさまに教えるなどして
蓬莱泉いを @iwo_yorunouo
生活することができました。両親とはその後も縁はなく、もとの夫を想っていたわけではないのですけれど、他の方と縁付く気持ちもとても持てずに、この歳までひとりで来てしまったのです。
蓬莱泉いを @iwo_yorunouo
「マダム」の話が終わる頃、祖母も〇〇を見つけ出すことができた。会計に取り出されたのは美しい蜥蜴革の長財布である。 「まあ、なんとも……映画のようなことで」 無礼かと思ったが、祖母にはそれ以外に言葉が出なかった。 「本当に。わたくしも、こうして語ると、映画の話をしているような気持が
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いたします」 「マダム」は再び真っ白い陽光の下へ出て行った。 祖母の不躾な言葉にも気を悪くしなかったのか、それ以来、店の前を通るときにはガラス越しに会釈をしてくれたのだと祖母は語った。
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「本当に、美しい人には、わしゃたちの思いつきもせんような苦労があるよ。◇◇(母のことだ)もお前も、そこそこの顔で本当によかった。幸せになれる。ここ数年は姿を見ていないけれど、どうしているかねえ」
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コメント

珈琲牛乳 @coffreexx 9月5日
冷静に考れば「はんせい」に決まってるんだけど、はんなまって何が?ってわりとしばらく考えてしまった
kusano @t_kusano 9月5日
すごい話だなー。美人すぎるのも不幸なんだねえ。
りんこ・エレオスキー @linco_motte 9月5日
長いけど箇条書きにすると趣がなくなるから(借金のカタにヤクザに売られたけど出入りで怖い思いして泣きながら離縁してと申し出た、その後は親の元にも帰らずずっとひとり)、これはこれでいいと思うよ。まどろっこしい文体もTwitter向きではないかもしれないけど綺麗だ。
まきず @sayonarain 9月5日
いいものを読ませていただいた。
trycatch777 @trycatch777 9月5日
ちょっとどこかの世界へ短い旅に出た感じになる、味のある文章でした。
a @icebox_xxx 9月5日
この話そのものもとても趣のあるものだけど、ツイ主さんが紡ぐ文章がとても綺麗で心がじんとした
席上 @Nonsomnia 9月5日
ほんとかよ?と思っちゃう心はあるんだけど、信じても信じなくても害がないならそういうこともあるんだなあ、と信じた方がきっと毎日は楽しいのだろう
金木犀 @Itzamna_100 9月5日
読みやすくてとっても素敵なお話でした。本当にあった事なのかは分からないけど、事実は小説よりも奇なりって言葉があるとおり、世の中には結構嘘だとしか思えない数奇な人生を送る人がいるからあながちこのマダムの話も嘘は言えないと思わせるお話だったな
moxid @moxidoxide 9月5日
ゴミ屋敷の王女って曲いいよね…
はとえびの死骸 @MsShrimpwww 9月5日
文体も内容何もかもが美しい……個人的にはこの話を嘘松認定するような無粋な人とはお近づきになりたくないなあ(向こうからも願い下げだろうけど)
ゴイスー @goisup 9月5日
湊かなえみたいだな。登場人物が訥々と語るのって引き込まれるよね
ask @whirlpool 9月5日
ふと「『黄昏流星群』みてえだな…」と余韻をぶち壊すワードが頭に浮かんでしまった。いろいろぶち壊しだ。
フラッシュピストンアナルファックちんぽこハメ太郎 @yamasan73 9月5日
マダムは穏やかな人生を過ごされたのかなあ。大変なことがあった分だけ幸せがあるといいねえ。
かな @2CAz7LFFLLb2P7p 9月5日
嘘松云々の前に文章と白昼夢のような世界が美しくて満足感の方が高い
xxx @nonameuserxxxx 9月5日
文章の奥に情景が浮かんできたよ 素敵なお話ありがとう
転倒小心 @tentousho 9月5日
これは物語なのでウソでもホントでもいいと思いましたよ。 それでいいと思う言葉の操りようで、ネットでそう見かけぬ語り口でそれだけで十分だと思ったのです。
らくだケイム @rakudacame 9月5日
美しい文章だなぁ。 ただ本当にこんな人がいたと思うと可哀想すぎるなぁ…
yoshiko @yosii_0609 9月6日
表現が美しいうえにまったく躓かずにスッと情景が思い浮かぶ。この文章力すごいなあ。
よーぐる @Seto_yasu1987 9月6日
文章が心に染み入った
湯屋 @adatiyama 9月6日
なんという短編小説感
さかべあらと(うさぜんざい) @sakabe_arato 9月6日
最初これをTwitterで見かけた時、延々リプで語ってて長っ!って思ったんだけど、読み始めたら文章力と物語の魅力にグイグイ引き込まれて自然と続きを追っていた。この方の描く文章をもっと読みたいと感じさせられるほどに
三家本礼『血まみれスケバンチェーンソーreflesh』1巻発売中 @reimikamoto 9月6日
パステル風の絵柄で情景を想像しながら読んでいたが、ヤクザのくだりで画風が川崎のぼる先生になった。
伍長 @gotyou_H 9月6日
娶りたかったんならお日様に顔向けできるやり方でやればよかったのに、一つの家族をぶっ壊してまで手に入れた結果、家は壊滅した日に妻にも逃げられるとか、やっぱ報いを受けるべき奴は受けてもらわんと希望がないよな。 もっとも、それでも大金を一軒家をくれてやれたほどだから、組がつぶれたわけじゃないだろうけど・・・
ВИК @qb_vick 9月6日
とりあえず言えるのは、いつの時代も極道はクソってこと。
endersgame @endersgame3 9月6日
これは多分お祖母様の得意のエピソードで、何度も話したからこれだけ覚えているのだろうし、何度も話すうちにポイントが整理されたり、細かな情景が追加されていったりしたのだろうな。
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