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高平陵の変はなぜ起きたのか。

曹爽一派を排除した司馬懿のクーデターですが、なぜそこに至ったのかの経緯についてまとめてみました。
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ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

曹爽の蜀攻め、興勢の役は西暦244年。曹爽一派粛清の高平陵の変が249年。馬懿は五年間も曹爽に好き勝手させていたわけだが、司馬懿が死んだのは高平陵の変からたった二年後の251年。ヘタすると、曹爽一派は二年間我慢すれば司馬懿一派を排除出来た可能性もある。

2018-09-08 20:44:56
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

正直、244年の興勢の役の時点で司馬懿は65歳の爺様。曹爽は生年月日が分からないが、曹真の息子だから司馬師や司馬昭と同年代と考えるならば、老けてて40代。若くて30代だったので、時間という部分で余裕があったのは間違いなく曹爽だった。

2018-09-08 20:50:03
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

高平陵の変は、司馬一族の専横の始まりでもあるが、司馬懿の心境がどういうつもりであったかは分からない。だが、結果として曹爽一派を皆殺しにしているので、奸臣排除と見るべきか、あるいは司馬一族の為かと考えると正直自分は前者だと思うのだ。でなきゃ五年も猶予は与えない。

2018-09-08 20:51:52
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

なお、諸葛格は孫峻のクーデターで一族皆殺しにされたが、そのきっかけは合肥新城での戦いに敗北したから。しかも失敗した同じ年に粛清されている。司馬懿が本気で曹爽一派を排除するつもりならば、興勢の役で全責任を曹爽一派に押しつけてしまえば良かったのである。何しろ司馬懿は爺様なんだぜ。

2018-09-08 20:55:12
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

司馬懿は優柔不断ではない。孟達が裏切ったと知ったら電撃的な進軍で孟達が対処できない速度でコレを討伐し、公孫淵も速攻でたたきつぶしている。守勢に回っていたのは諸葛亮の北伐の時。 やると決めたら即決即断が司馬懿。それが五年も猶予を与えたのは本人も悩んでいたのではないか。

2018-09-08 20:58:19
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

曹爽は戦ヘタな上に政治面でも問題を起こしていて、司馬懿が孫礼に八年も続いた清河と平原の境界を巡っての争いについて解決法を聞いた時、孫礼は「烈祖(曹叡)様の時に作った地図がありますからそれを使って確認してみましょう」と提案し、司馬懿は是非やってくれとお願いし、孫礼は見事に解決した。

2018-09-08 21:05:06
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

だが、曹爽は清河の主張を信じて孫礼の解決策をパーにした上に五年間の禁錮に処したそうな。尤も、孫礼は一年ほど禁錮を解かれたが、この後さらに并州刺史として并州に左遷させられたという。

2018-09-08 21:07:08
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

并州に左遷させられた孫礼に司馬懿が慰めに行ったが、不機嫌な理由を聞くと孫礼は「自分の地位などよりも、今、社稷は危機にひんしており、天下は不安におびえております」と魏国が明らかに傾き始めたことに憤りを感じていた。んで、司馬懿は「忍ぶべきだよ」とコメントしている。

2018-09-08 21:11:25
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

孫礼は曹爽の側近を務めていたが、果断な性格と硬骨漢だったから曹爽とその取り巻きには嫌われていて、最終的にせっかくの解決策もパーにされ面子を潰された。こういう人物にすらそっぽを向かれた曹爽が、果たして魏でどういう目で見られていたのかはもう少し考えるべきだと思う。

2018-09-08 21:13:38
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

こうやって見ると、曹爽は戦もヘタクソ。政治もせっかく孫礼が解決策を出した八年にも渡る清河郡と平原郡の境界争いも地図と調査を行うことで短時間で解決出来るのをいい加減な清河郡の言い分を聞き入れてパーにするという政治もダメというアホぶりを見せている。 ホントにこいつ、曹真の息子か?

2018-09-08 21:20:23
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

問題なのは、清河郡と平原郡の八年にも渡る境界争いがいつの段階で起きたのかということ。おそらく興勢の役の後だと思う。司馬懿が曹爽一派を排除しようと考えたのは、自分の面子も汚した上に、孫礼がせっかく解決策を出した政治問題をパーにしたことで、政治面もダメと落第点をはじき出したと思う。

2018-09-08 21:23:07
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

戦はダメ。政治もいい解決策を聞き入れるだけの度量も無い。司馬懿が興勢の役から五年かけて高平陵の変で曹爽一派を排除したのは、この政治面もダメだし絶対こいつら魏を食いつぶすと思ったからじゃなかろうか。 んで司馬師は「やっぱり魏は司馬一族がまとめないといけない」と思ったと思う。

2018-09-08 21:25:32
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

孫礼のエピソードを見ると、曹爽はさらっと孫礼の意見を正しいとした司馬懿の面子すら踏みにじっているので、高平陵の変は司馬懿ではなく司馬師主導だと自分は考えていたが、やっぱり司馬懿も曹爽一派を粛清するつもりマンマンだったと思っている。戦もヘタ、政治もダメ。そりゃ粛清するわ。

2018-09-08 22:03:24
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

司馬懿の曹爽一派排除はおそらく、司馬一族というよりも、魏の重臣達、蒋済や孫礼、そして陳羣の息子である陳泰も絡んでいるので、曹爽一派VS司馬一族というよりも、曹爽一派VS魏王朝の清流派ともいうべき重臣とその子弟達の争いだったと思うのだ。

2018-09-08 22:07:38
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

孫礼のエピソードと、興勢の役という敗戦。政治も戦もダメでそのくせ権力欲と物欲禁欲だけは人一倍あるとか、曹爽一派が単純にクズばっかりじゃねえかと思う。が、司馬懿に向かって九品官人法の欠陥を批判した夏侯玄は粛清されていないんだよな。

2018-09-08 22:09:36
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

@nekosisyaku まず司馬師はこの時中護軍で四品官。司馬昭は新城郷侯でした。んで、司馬師は曹爽の側近中の側近である何晏から「司馬子元だけが、天下の務めを果たすことができる」というコメントを残しています。この二人、まだそこまで偉くなかったんですよね。

2018-09-08 22:24:17
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

@nekosisyaku んで、司馬懿の弟である司馬孚は尚書令でしたが、曹爽一派が専横していたので、司馬懿が死んだらそのまま曹爽一派に取り込まれていたか、あるいは逆に潰されていたかもしれません。そうなる前に司馬師は父親や伯父と曹爽一派排除を計画したと思います。

2018-09-08 22:26:15
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

司馬懿は曹爽一派粛清後、孫礼を呼び戻して、司隷校尉という都を含めた中央の統括官に任命しているので、司馬懿自身は専横よりも曹爽一派が食い荒らした魏を立て直す気だったと思う。でなきゃこんな剛直な男を呼び戻さないだろう。

2018-09-08 22:36:09
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

曹爽のダメさを批判する上で重要なのは司馬懿と共に副官として付けられた孫礼との関係値を見るとわかりやすい。そりゃ粛清するわ。

2018-09-08 22:36:50
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

司馬一族の専横は高平陵の変がきっかけではあるんだが、ちゃんと段を踏んでいて、この後に司馬師が曹芳廃立、夏侯玄らを粛清し、毌丘倹と文欽の乱を平定。 んで司馬師が死んだ後は司馬昭が諸葛誕を排除し、曹髦を殺して蜀平定という形になっている

2018-09-08 23:06:02
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

司馬一族というか、父と兄弟である司馬懿はあくまで魏の臣下として振る舞い、司馬師は魏王朝は奉っても実権は司馬一族が牛耳り司馬一族あっての魏と考え、司馬昭に至ってはうっかり皇帝を殺したから毒食らわば皿までで「俺が天下だ」と魏を滅ぼす気満々だった。 twitter.com/1xuVLqH3kQ/sta…

2018-09-08 23:08:00
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

平陵の変が起きたのは西暦249年。興勢の役が244年で、平原と清河の境界争いがいつ勃発し、孫礼を左遷させたのかが司馬懿が曹爽一派排除を決意した本当の時とすると、この境界争いが八年続いて、曹叡が「烈祖」と尊称で呼ばれていて亡くなっていることを考えると、おそらく曹叡死後だと思う。

2018-09-08 23:18:32
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

曹叡が亡くなったのが西暦239年。そこから逆算しておそらく孫礼が八年にも渡る境界争いに解決策を出したのがおそらく247~248年とすると、司馬懿が引きこもったのが247年なので、この辺りで孫礼が左遷させられたとすれば、おそらくこれがきっかけなんじゃないか? twitter.com/1xuVLqH3kQ/sta…

2018-09-08 23:22:13
ヤン・ヒューリック @1xuVLqH3kQ

@mrkeei 夏侯玄は才能を惜しんだ司馬懿から中央に召し出されて大鴻臚となり、数年後には太常になってます。司馬懿は夏侯玄を重用してましたが、関係が悪化するのは司馬懿が死んでからですから、おそらく夏侯玄は司馬懿がいるならば大丈夫と思ったんじゃないかと思います。

2018-09-08 23:32:09