高平陵の変はなぜ起きたのか。
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@mrkeei 夏侯覇の場合、仲が悪い郭淮が征西将軍・都督擁涼諸軍事になり上司になったのが一番のきっかけですね。不仲の理由はおそらく、郭淮が夏侯覇の父親である夏侯淵が定軍山の戦いで戦死した時に何にも出来なかったからだろうとは思いますが。
2018-09-08 23:34:34@mrkeei 魏略だと夏侯玄は司馬懿が死んだ後「あの人はあんなこと(高平陵の変)があっても自分を以前から私を以前から付き合いのある家の後輩として遇してくれた。子元(司馬師)・子上(司馬昭)が私達に対して遠慮すると思うか」という身も蓋もないことを言っていますからね。
2018-09-08 23:58:10@mrkeei 逆に捉えると、司馬懿は夏侯玄を廃するつもりは全くなかったけど、その息子である司馬師は夏侯玄と共に何晏から同じ優れた人物と表されていましたが、気づいたら曹爽一派排除に向けて率先的に行動していましたので、夏侯玄は特に司馬師を正体が読めない奴と思っていたようです。
2018-09-09 00:00:34@yowai_historian 司馬懿が引きこもったのは247年。んで、境界争いが八年続いてその解決策が出てきたのが早くて246~247年とすると、司馬懿が本気で曹爽一派排除を考えたのは、孫礼の提案をパーにしたあげく、左遷させたことにあると考えると何で高平陵の変があそこまでスムーズにいったのかがわかりやすいです。
2018-09-09 00:12:04@yowai_historian 九品官人法の欠陥と改善点を司馬懿に堂々と向けて発言した夏侯玄や、知恵者の桓範みたいに優秀な人間はいるんですよね。 ですが、彼らの言うことを聞いているとは思えない上に、孫礼や盧毓といった名声ある忠臣達も左遷してます。
2018-09-09 00:23:32@yowai_historian なお司馬懿は高平陵の変にて盧毓を司隷校尉を兼任させて、曹爽が逆にクーデターを計画していたことを突き止めて処刑させ、その後に孫礼を司隷校尉として中央に呼び戻すというなかなかな人事を行っています。 単に曹氏VS司馬氏と呼ぶにはあまりにも全体像が見えない視点だと思いますね。
2018-09-09 00:26:27正直、司馬懿が本気で司馬一族の専横を計画していたなら、興勢の役の段階で失敗した曹爽一派をそのまま排除すればよかったのである。 悪い例だが、孫峻は諸葛格が敗戦後に、クーデターを起こして皆殺しにしているんだから。司馬懿には何度も言うけど、ジジイだから時間が無いのである。
2018-09-09 00:30:40@NzEJw6KMkw 孫礼だけではなく、盧毓という男も曹爽は左遷したが、最終的に報復人事で曹爽一派を盧毓は処刑した実行犯。だから、曹爽一派は名士、名族層に相当な喧嘩を売ったようなものだ。
2018-09-09 00:45:59高平陵の変を書いて、調べていく内に、だんだん自分の中で桓範も無能に見えてくる。 桓範も、畢軌と同じで良くて凡庸、悪く言えば無能というか、司馬師や司馬昭、陳泰や王昶、王基よりもずーっと劣る。
2018-09-23 22:49:42桓範の言う通りにしても、曹爽一派を助けようとする奴がまともな名士名族にいるのかよと言いたくなる。いて、夏侯玄と文欽ぐらいだが、こいつら軍事の才能は上に思いっきり×が付くし、高平陵の変が起きた時点で曹爽一派に逆転の目は無かった。曹爽一派は軍事に長けた奴がいないからね。 twitter.com/1xuVLqH3kQ/sta…
2018-09-23 23:00:17@NzEJw6KMkw 高平陵の変の時、曹爽達に「陛下と一緒に許昌に立てこもって戦え」ということを言っている。桓範は大司農という兵糧などを取り扱う九卿になっていて、その自分の権限で立てこもって戦えば良いといっているが、そもそも誰がこいつらを救いに行くのかという話になる。どうせ戦っても負けるだけだしな。
2018-09-23 23:20:21@NzEJw6KMkw まあ、恩を思い出して報いようとするのは美徳ではあるが、仮に曹爽が「やってやる!」と思っても、許昌から西南にはアンチ曹爽といってもいい、王凌が都督揚州諸軍事としているわけで、その通りにやってもどうせ死ぬしかない。つまり、桓範の言っていることは文字通りの「画餅」
2018-09-23 23:37:11@NzEJw6KMkw 桓範が言うように、曹芳を奉じて許昌に籠もったとしても、こいつらの味方になってくれるのは、夏侯玄と文欽だけ。そもそも、許昌がある豫州方面は司馬懿派で、都督荊豫諸軍事の王昶がいるし、王昶は後に「浮華を抑絶しましょう」とか言っているからアンチ曹爽派。つまり、誰もこいつらを助けない。
2018-09-23 23:41:08自分が桓範も無能なんじゃないかと思うのはこういうところ。仮にそうしても、司馬懿達は「よろしい、ならば戦争だ」と曹芳ごと抹消していた可能性が高い。 曹芳の出自が、曹彰の孫とすれば、侮蔑はしても敬いは絶対にしない。 そもそも許昌がある豫州は、司馬懿派の王昶の軍管区だぞ。 twitter.com/1xuVLqH3kQ/sta…
2018-09-24 00:05:59というかね、桓範が仮に王昶と戦ったとして、王昶が桓範らを破って曹爽一派を粛清する図が想像出来ても、こいつらが王昶をぶちのめすことは全然想像できない。王昶は陳泰と同等か、ヘタするとそれ以上の名将だからだ。
2018-09-24 00:11:05@mrkeei 仮にそうやって動いても、桓範が曹爽一派に付いた時点で、無事許昌までたどり着けるとは思えないんですよ。 高平陵の変は司馬師が父親の司馬懿を補佐する形で主導してましたが、司馬師と司馬懿は間違いなく、王昶をかなり早い段階で味方につけていた節があります。
2018-09-24 00:13:19@mrkeei 仮に、許昌に立てこもっても、それに呼応して呉や蜀が蠢動したとして、王凌や王昶が荊州と揚州を守りますから、味方無き籠城にしかならず、桓範の進言は、どうせ死ぬなら戦って死ねって言っているようなもんです。 本人はそのつもりマンマンでした。
2018-09-24 00:34:50@mrkeei 故に「富豪のままならいいや」とあっさり諦めた曹爽達に対して、桓範は「父君は立派な人だったのに、お前らは仔牛みたいだ!」と罵ったわけで。桓範は息子に諭されるまでは、司馬派に付こうとしていましたが、恩義故に曹爽一派の味方になったのに、その態度は無いだろうよと思うんです。
2018-09-24 00:36:54桓範の主張通りだと、そもそも許昌まで辿り付ける保証も無く、たどり着いたとしても味方になってくれる奴も無く、呉や蜀が蠢動しても、蜀は郭淮、荊州は王昶、揚州では王凌と防備を固め、そこに司馬懿が軍勢を率いてやってくれば、こいつらに待っているのは死ぬ以外に道が無い。 やっぱ画餅だなコレ。
2018-09-24 00:39:14桓範は曹爽一派ではまともな分類に入るけど、その桓範ですら、こんな策とも言えないような策を提案している時点で詰んでいるようなもんだ。 そりゃ、孫礼も左遷させられるよ。みんなクズばっかりじゃねえか。
2018-09-24 00:40:56まとも言ってもいい桓範すら、こんな「画餅」なことしか主張出来ない時点で曹爽一派は仮に司馬懿が先に死んでいても、諸葛恪をぶっ殺した孫峻みたいに、司馬師一派からまたクーデターを起こされたような気がしてならない。
2018-09-24 00:45:26桓範について補足
三国志雑談。桓範は後輩の呂昭が鎮北将軍になった時、配下の冀州牧になるかもという話かあった。 本人は呂昭なんぞの下になるくらいなら、九卿になって三公相手に這いつくばってる方がマシと言い放った。
2018-10-28 08:56:22それを聞いた妻は「旦那様は徐州刺史を斬ろうとした時、みんな旦那様の下にいるのは難しいと言ってました。今度は呂氏の下につくのが嫌だといってますが、今度は旦那様の上につくのも難しい話になりますね」と皮肉った。
2018-10-28 09:00:32これを聞いた桓範は反省するどころか、剣の柄で妊娠している女房の腹を思いっきり突いた。 女房は流産して死亡し、冀州牧の話も流れた。
2018-10-28 09:02:22