9月15日は関ヶ原の戦いの日 その実際について

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すんすけ @tyuusyo

今日は1600年9月15日、関ヶ原の戦いの最終決戦があった日ですが、実はこの「関ヶ原の戦い」というやつ、最近の研究でこれまでの通説はほぼ覆ってしまった戦いなのです。よく知られたエピソードの大半は創作のようです。

2018-09-15 09:25:54
すんすけ @tyuusyo

創作の疑いがあるエピソード 「小山評定」 「三成が家康の屋敷に逃げ込む」 「井伊直政の先陣突っ切り」 「小早川秀秋の迷い」 「小早川を寝返らせるための問い鉄砲」 「西軍の善戦」 「関ヶ原布陣図」

2018-09-15 09:34:29
すんすけ @tyuusyo

そもそもの原因は江戸時代の『関原軍記大成』のような軍記物と、それを元にした明治政府の『参謀本部編・日本戦史』とそれにくっついた布陣図です。『参謀本部編・日本戦史』に出てくる兵士数も怪しい。布陣図は明治時代の想定図で史実との関連性はかなり怪しい。

2018-09-15 09:37:04
すんすけ @tyuusyo

『参謀本部編・日本戦史』をそのまま徳富蘇峰や司馬遼太郎がコピペした為に、なんとなく通説になったんですが、最近になって白峰旬・別府大学文学部史学科教授などが調査した処、ほとんどが当時の古文書と違い、嘘の可能性が高いことが分かりつつあります。

2018-09-15 09:39:34
すんすけ @tyuusyo

いわゆる「関ヶ原布陣図」は、明治時代に神谷道一という人が地元の言い伝えを元に作ったものを参謀本部が手直ししたもので、戦国時代の合戦の常識からかけ離れたものです。 pic.twitter.com/tTYnDJv3Jh

2018-09-15 09:46:33
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すんすけ @tyuusyo

この図にはゴチャゴチャいろんな大名がいますが、実際はもっとスッキリしたもので、東軍は福島・黒田(細川or田中説あり)・徳川・池田の4組くらいに編成され、雄藩を大将にして小大名はその下に入るという事業部制みたいな形でした。西軍も宇喜多・大谷・石田・島津・毛利くらいのようです

2018-09-15 09:50:54
すんすけ @tyuusyo

軍勢の人数も通説は間違っており、当時の武将たちがやり取りしていた古文書を分析すると西軍は東軍より少なかったようです。 「東軍の大軍がいきなりあらわれて西軍はアッという間に潰されてしまった」という島津家の記録もあります

2018-09-15 10:04:04
すんすけ @tyuusyo

白峰先生が分析している島津家の史料と、家康の家臣だった板坂卜斎の日記とを突き合わせると、「辰巳の刻」(午前8時)に合戦が始まり、小早川・徳川両隊の突撃をモロに受けた大谷吉継隊は善戦したものの持ちこたえられず壊滅してしまいました。午前10時、東軍は石田本隊に攻撃を開始。

2018-09-15 10:09:59
すんすけ @tyuusyo

午前10時ころ、石田・宇喜多隊は簡単に潰れてしまいました。 島津家の記録には「石田は一時(少しの間)も持ちこたえられず」「ハラハラ(安々)と敗北」とあるそうで、徳川家の板坂も「クワッと崩れた」「敵は我らの矛先に耐えられず無数の人数が逃げ出した」とあり、要するにあっけなかったようです

2018-09-15 10:18:00
すんすけ @tyuusyo

徳川方の記録(卜斎記・関原始末記)で西軍で善戦したのは大谷吉継隊の武士たちと、島津兵だけですし、島津家の記録でも石田三成はあっけなく敗走しています。 後世の小説やドラマなどで描かれるような西軍奮戦はかなり怪しいのです。

2018-09-15 10:27:50
すんすけ @tyuusyo

一応一連のツイートの参考文献を書いておきます。 白峰旬『関ヶ原合戦の真実』(歴史群像・2017年10月号所収) 板坂卜斎『慶長年中卜斎記』(史籍集覧本) 酒井忠勝『関原始末記』(史籍集覧本)

2018-09-15 10:31:23
まとめ 「メッケルの関ヶ原西軍勝利判定」伝説は何故生まれたのか?―戦前刊行のメッケル文献に「関ヶ原」の記述があり、その影響で.. 海音寺潮五郎、司馬遼太郎が創作したとされる「ドイツの戦術家の西軍勝利判定」だが、 A「来日したメッケル教官が、参謀演習旅行を企画し、現地で戦い方を論じた」 B「メッケル教官が出した兵站の問題について、「関ヶ原の戦いではどうだったか…」と日本の陸軍学生が悩んだ」 戦前から存在したAとBの故事(別々の話)が、戦後になると「合成」されてしまい、あたかも「事実」であるかのように、ひとり歩きしたと思われる。 21379 pv 226 5 users 9