Carlos Rodrigues(@fever7777)による「戦後政治史」【第七章】新自由主義の萌芽(1980~87)鈴木善幸内閣から中曽根内閣まで

【参考】「戦後政治史」【第一章】http://togetter.com/li/108740 【参考】「戦後政治史」【第二章】http://togetter.com/li/109443 【参考】「戦後政治史」【第三章】http://togetter.com/li/113219 【参考】「戦後政治史」【第四章】http://togetter.com/li/113959 【参考】「戦後政治史」【第五章】http://togetter.com/li/123490 続きを読む
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fever7777 @fever7777

戦後政治史は1945年から始まり、いよいよ後半の1980年代に突入します。1980年代からは、世界的に「新自由主義」が台頭してきます。またこの頃からは、イデオロギーが徐々に力を失ってきたようにも思えます。なお、文中は敬称を一切省略しています。

2011-04-21 19:14:30
fever7777 @fever7777

【バックナンバー1】第一章→ http://togetter.com/li/108740 (1948年まで) 第二章→ http://togetter.com/li/109443 (日本の独立) 第三章→ http://bit.ly/f9m7B3 (55年体制と日米安保の闇)

2011-04-21 19:15:25
fever7777 @fever7777

【バックナンバー2】第四章→ http://bit.ly/fTLYfh (高度成長) 第四章補足→ http://togetter.com/li/114372 (子供の視点からの高度成長) 第五章→ http://togetter.com/li/123490 (三角大福・前期)

2011-04-21 19:15:56
fever7777 @fever7777

【第七章】新自由主義の萌芽(1980~87) 鈴木善幸内閣から中曽根内閣まで

2011-04-21 19:16:49
fever7777 @fever7777

1. 三角大福と呼ばれる自民党の実力者は、すべて総理大臣に就任した。しかし三角大福による権力闘争は、さらに続く。中曽根までの時代は別称「三角大(鈴)福中」時代と一括りにされることが多い。今回は三角大福の怨念が終了する1987年までを記す。

2011-04-21 19:17:11
fever7777 @fever7777

2. 余談ではあるが、本政治史でも参考文献とした戸川猪佐武の「小説吉田学校」は鈴木善幸の時代で終了する。戦後政治史を語る上でのバイブルであるので、ぜひご一読をお勧めする。戸川は元政治記者であり、あの渡邊恒雄をアゴで使うほどの大物記者であった。

2011-04-21 19:17:39
fever7777 @fever7777

3. 「小説吉田学校」文庫判→ http://amzn.to/erxT8e DVD→ http://amzn.to/eFLWbI 他にさいとうたかをによる劇画版もある。戸川の視点は、田中角栄贔屓と言える。

2011-04-21 19:18:14
fever7777 @fever7777

4. さて初の衆参ダブル選挙戦中、大平正芳は急死した。その結果、選挙戦は自民党の圧勝に終った。問題は後継者選びであった。最大派閥の田中派からは依然として、総裁候補を出し難い状況であった。中曽根は「風見鶏」と呼ばれ、田中角栄の信頼を得るほどではなかった。

2011-04-21 19:18:49
fever7777 @fever7777

5. 勿論大平に反旗を翻した福田赳夫や河本敏夫も、総裁選に出辛い。とすると総裁候補は大平派に絞られる。西村英一副総裁は選挙で落選、大平の最側近の伊藤正義は固辞、本命の宮澤喜一は田中角栄との確執があった。そこで浮上したのが、鈴木善幸である。

2011-04-21 19:20:57
fever7777 @fever7777

6. 1980年7月、鈴木善幸は総理大臣に就任した。自民党総裁就任の時の鈴木の弁。「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」きわめて異例の挨拶であった。

2011-04-21 19:21:24
fever7777 @fever7777

7. 鈴木善幸は元々社会党に在籍していたが、のち自民党に移籍して、池田勇人の宏池会に所属することになる。閣僚経験は比較的豊富であったが、外交や経済閣僚は未経験であり、もっぱら党の総務会長として党務に辣腕をふるった。鈴木は総務会長を10期も務めている。

2011-04-21 19:21:49
fever7777 @fever7777

8. 鈴木善幸は「本籍:田中派、現住所:大平派」と呼ばれており、政治的な思想で田中角栄の影響を大きく受けていた。東北新幹線を盛岡まで誘導したのも鈴木の力による所が大きい。米国からは「ゼンコー、フー」と揶揄されたが、少なくとも永田町では鈴木は実力者であった。

2011-04-21 19:22:14
fever7777 @fever7777

9. 鈴木善幸の真骨頂は人事、組閣に現れた。全派閥を主流派入りさせ、前代未聞の「和の政治」を実現させた。また行政改革路線を唱え、土光敏夫を第二次臨時行政調査会(臨調)に迎え、閑職の行政管理庁長官に実力者の中曽根康弘を宛てるなど、きわめて巧みな人事を行う。

2011-04-21 19:22:40
fever7777 @fever7777

10. 自民党内では評価の高かった鈴木内閣であるが、マスコミや米国からの評価は極めて低かった。マスコミは「直角内閣」「暗愚の宰相」と鈴木を叩く。さらに鈴木はハト派らしく「日米安保は軍事同盟ではない」と発言、米国や党内タカ派との関係を悪化させて行く。

2011-04-21 19:23:05
fever7777 @fever7777

11. 1982年には鈴木の総裁任期は切れる。しかし自民党内ではタカ派の中曽根を快く思わぬ勢力が多く、鈴木内閣の長期政権化が予想された。しかし、鈴木は総裁選への不出馬を表明、一説によると米国が親米政権を望んだためと言われている。

2011-04-21 19:24:04
fever7777 @fever7777

12. 1982年11月、ポスト鈴木として中曽根康弘が総理に就任する。中曽根は当初は田中角栄の信頼を得ていなかったが、「風見鶏」と呼ばれる変わり身の早さで、田中に急接近した。総裁派閥から出すべき幹事長に田中派の二階堂進を据え「田中曽根内閣」との酷評を受けた。

2011-04-21 19:24:34
fever7777 @fever7777

13. 1984年には最後の角福戦争と呼ばれた「二階堂擁立劇」があり、民社党や公明党なども巻き込んだが、結局は田中派の反対で中曽根が再選される。第二次中曽根内閣では新自由クラブと統一会派を組んだ。幹事長はまた田中派の金丸信となる。

2011-04-21 19:25:04
fever7777 @fever7777

14. この時代は米国のレーガン、英国のサッチャー、日本の中曽根の3人が、新保守主義(ネオ・コンサバティズム)もしくは新自由主義(ネオ・リベラリズム)を展開して行く。新自由主義は、強硬なマネタリズム、小さな政府、民営化路線、規制緩和路線などを政策とする。

2011-04-21 19:25:34
fever7777 @fever7777

15. 中曽根は鈴木内閣で弱まった日米関係を強化し、レーガンとロン・ヤス関係を構築して行った。中曽根の「不沈空母」発言などもあり、極めてタカ派・右派的傾向の強い政権の代表格となる。しかし佐藤、中曽根、小泉などのような米国の信任の厚い政権は、長期政権化する。

2011-04-21 19:26:04
fever7777 @fever7777

16. 中曽根は鈴木内閣の行政改革を担当したことで土光敏夫との関係を構築、日本航空完全民営化、電電公社民営化、国鉄民営化を推進した。また労働者派遣法を制定した。小泉内閣時代の施策の源流はすべて中曽根だ。中曽根は1954年、原発の建設を決めた張本人でもある。

2011-04-21 19:26:34
fever7777 @fever7777

17. 国鉄の民営化は、生まれ変わったJRグループをみても分かる通り、サービスの質的向上という好結果をもたらした。しかしながら、国鉄用地払い下げによるバブル経済の発生、それに伴う金権体質、国鉄組合員の大量解雇等の問題など新自由主義の「影の部分」も顕在化した。

2011-04-21 19:27:04
fever7777 @fever7777

18. さらに国鉄民営化は、病院通いの老人など交通弱者の足と生活を奪ったことも否定できない。鉄道は公益事業であり、必ずしも利益&採算性では割りきれない側面もある。しかし、マスメディアは概ね新自由主義の「影の部分」を正面切って報道することは少なかった。

2011-04-21 19:27:34
fever7777 @fever7777

19. 新自由主義は「持つもの」と「持たざるもの」との格差を拡げて行く。官僚やマスメディア、財界などは既得権益層であり、概ね中曽根政権に対して好意的なスタンスをとっていた。それに中流階層の多くも空前のバブル景気に踊っていた時期でもあり、批判勢力は多くはなかった。

2011-04-21 19:28:04
fever7777 @fever7777

20. しかし中曽根は、消費税の原形である売上税の導入を目指し、1987年4月の統一地方選に敗退する。この頃から米国は、貿易不均衡に対する対日要求をエスカレートさせてくる。中曽根は余力を残し同年11月の退陣を決意することとなった。

2011-04-21 19:28:34