「わたしたち」「あいつら」考

「私たち」と「あいつら」に分断する思考は、人間の根深い思考。これを考えてみた。
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shinshinohara @ShinShinohara

「私たち」と「あいつら」考。 「あいつら」と敵視する相手がいると、「私たち」の結束が固くなる。その代わり「あいつら」との抗争で力を削ぎ合うことになりかねない。「あいつら」憎しで冷静な判断力を失い、殲滅させるためなら相当のエネルギーを失うことも厭わない。しかしやがて疲弊する。

2018-09-28 18:06:07
shinshinohara @ShinShinohara

「あいつら」を利用して、利権を得る人間が出る。「あいつら」との抗争で「私たち」の利益が大きく損なわれようとも、自分一人の利益が確保できるなら、「私たち」の損害がどれだけ大きくなろうとも構わない。「私たち」を利用し、寄生しているだけの存在。

2018-09-28 18:08:51
shinshinohara @ShinShinohara

「私たち」の中では、しばしば無批判。「あいつら」と比べたら、「私たち」の中の多少の差異は不問に付す。「あいつら」と同じだとは決して認めない。「あいつら」とは、小さな違いも大きくとらえて、違いを強調する。他方、「私たち」の中では、違いはあっても同じとする。違いを無視する。

2018-09-28 18:11:55
shinshinohara @ShinShinohara

「あいつら」に勝つためなら、「私たち」は結束を固め、少々の差異は置いといて、協力し合う体制をとりやすい。「私たち」の中に問題児を見つけても、「あいつら」との抗争に勝ってから、ということで、見ないふりをする。この構造を利用し、「あいつら」への敵視を煽る煽動家が出やすい。

2018-09-28 18:15:11
shinshinohara @ShinShinohara

「私たち」として結束するには、2つの方法がある。一つは、敵視する「あいつら」を措定すること。もう一つは、「使命」を帯びること。「私たちには特別な使命がある」という使命感は、「私たち」を結束させる一つの紐帯。この場合、敵を措定する必要はなく、博愛も可能となる。

2018-09-28 18:19:18
shinshinohara @ShinShinohara

ただし、「使命」のデザインを誤ると、容易に異端視し、「あいつら」認定するための評価軸として「使命」が使われる。「国賊」「異端者」はその一例。「使命」は、まだ「私たち」ではない人たちも将来的に包摂しうるものにデザインしなければ、「あいつら」発生装置になりうる。

2018-09-28 18:22:28
shinshinohara @ShinShinohara

異なる意見を面白がるように設計しないと、「あいつら」製造型「私たち」になる。「私たち」増殖型「私たち」になるには、異なることを面白がるように使命がデザインされている必要がある。

2018-09-28 18:24:43
shinshinohara @ShinShinohara

また、「私たち」は無批判になりやすいので、「集団堕落」が発生しやすい。停滞と怠惰が発生しないようにするには、「楽しさ」が必要。それには、やはり「違いを面白がる」が適切か。違いを積極的に評価し、料理する。それにより、同一視という「思考の怠惰」発生装置が起動するのを防げるかも。

2018-09-28 18:27:54
shinshinohara @ShinShinohara

違いを面白がる「私たち」は、「同じはずがない」という、旧来型「私たち」とは、様相が異なるものになる。「同じはずがない」と考えることで、「私たち」の中に一種の遠心力が働く。「私たち」が凝結しない。「緩やかな私たち」として、軽い緊張感を伴った「私たち」となる。

2018-09-28 18:47:49
shinshinohara @ShinShinohara

となると、「使命」は、「違いを面白がり、違いを料理することを楽しむ」ものである必要があるか。今後も考えていきたい。

2018-09-28 18:30:35