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前の話
本編
トノミフルーツパーラーは赤煉瓦でおおった五階建てビルの一階と二階にあって、店内から路面電車の駅が見える一面ガラス張りの外装が目を引く。 内装はアンティーク。輸入ものの彫刻が美しい椅子や卓、目にも綾な模様入りの掛布。品のよい、しかし動きやすそうなエプロンドレスの女給。
2018-10-01 22:55:33ベストに蝶タイのボーイ。どちらも顔採用だろう。ただ賃金は悪くないはずだ。行き届いたサービスをする。といって客は金持ちばかりという訳ではなく、若い男女や家族連れも姿を見せる。 運営元の富海商店は、贈答用の高級果物などを扱う青果店から出発した。
2018-10-01 22:58:34今ではケーキ店や軽食を出すレストラン、輸入雑貨なども扱う食品スーパーなどにも手を広げている。もちろんトノミフルーツパーラーは系列の中でも看板。 "霧の都"と、あまり人気のないあだ名を奉られれた地方都市では、ほどほどのステータスシンボルだ。
2018-10-01 23:00:43女子中高生が気軽に入れる場所ではない。 三好都築もやや緊張しつつ、メニューを見つめ、友達とのお茶が十回ぐらいはできそうな値段のジャンボフルーツパフェの名前に指をなぞらせた。 「これを二つ。あとアメリカンと…三好さんは何にする?」 真向いの男が尋ねる。
2018-10-01 23:04:47年のころは三十代前半だろうか。針金みたいに太い黒髪の向こうから、きつい目つきが覗く。ごつい顔というのではないのにちょっと強面だ。背広とシャツはなぜかちょっとへたっているが。手袋をはめているのが少し気になる。 名前は次藤健作。都築の亡くなった母の知り合い。
2018-10-01 23:07:28「私も同じで」 「アメリカン二つ」 ボーイは承知しましたと告げて下がる。いちいち復唱したりはしない。 次藤はまたさりげなく店内を眺め渡す。二度目だ。都築はつい年上の男の一挙手一投足に注目してしまう。店に入ってすぐ一階の席をとろうとして、迷ってやめたとか、そういう細かいところ。
2018-10-01 23:09:47パーラーの一階は喫煙、二階は禁煙。次藤は煙草を吸わないようで、空いている二階に上がると思ったのに一階が好ましいようだった。厨房に続く通路をそっと確かめていた。二階でもまず非常口を見ていた。 まわりにそうと気取らせないのにとても神経質な猫のよう。 やっぱり母に似ている。母の夕花に。
2018-10-01 23:13:03「三好さん。この日記のこと、届けてくれてありがとう」 低い声で次藤が話しかけてくる。本来のしゃべり方の強さを抑えて、和らげるのに慣れた男の喋り方。学校の先生風。 「別に。お母さんの遺言だから」 必要もなくつっけんどんになってしまう。
2018-10-01 23:16:42「君のお母さんが亡くなったのは知らなかった。落ち着いたら挨拶にうかがうつもりだった。お気の毒だ」 「急だったんで」 説明しづらい。次藤はよそものだろうか、それとも地元の人間なのだろうか。都築はグラスの氷を見つめた。 「次藤さんは、お母さんと…付き合ってたんですか」
2018-10-01 23:19:37ぼろっと尋ねてからはっと口をおさえる。ちらりと視線を上げると、相手は一瞬ぽかんとしてから、すぐ表情を引き締めた。 「いや。付き合ってない」 「…じゃあなんで」 いつもお正月にお年玉がわりに高い贈り物をよこすんだろう。
2018-10-01 23:21:33「俺は君のお父さん、三好肇さんと小学生の頃から知り合いだった」 「はあ」 そういう人間はいっぱいいる。ときどき家に来る吉岡のおじさんとか。 「高校生ぐらいまで三好の家によく遊びにいったから、君のお母さんともよく会ってた。ご両親とは…友達だったつもりだ」
2018-10-01 23:25:54それだけ。それだけであんな贈り物をするかな。 「君とも前に会ったことはある。葬儀の時だ。君のお父さんの」 「覚えてないです」 「まだ赤ん坊だった」 パフェが到着する。特大のガラスの器に季節の果実がてんこもり。どう考えても一人で食べきれる量じゃない。だが次藤は重々しくうなずく。
2018-10-01 23:27:53「いただきます」 「い、いただきます」 三十ぐらいの男がスプーンをとり、カットしたパイナップルやバナナをすばやく口に運んでいくのを、十代の少女はやや呆れて眺めた。 「甘いもの…好きなんですか」 「好きだ。君は?」 「…好きですけど」 「気が合うな」
2018-10-01 23:29:45ホイップクリームや洋酒で味をつけたケーキクラム(切り屑)などもまったくためらいなく食べる。フルーツとお菓子の塊がみるみる減っていくのはまるで魔法だ。 「虫歯とかなりませんか」 「歯はちゃんと磨いてる。糸楊枝も使って。俺も肇ちゃんも夕花さんにうるさく言われたから」
2018-10-01 23:32:02肇ちゃんて。パフェを食べているうちに子供の頃の気持ちになったのだろうか。 「次藤さん。なんで、いつもお正月に高いもの贈ってくれたんですか」 「ほかに何もできなかったから」 「何もって」 男の手が止まる。 「俺は肇ちゃんと友達のつもりだったけど、死んだときそばにいられなかった」
2018-10-01 23:34:42よそものなんだ。確信する。少女はなるたけ他人行儀な顔を作った。 「東京の大学に行ってたって」 「そうだ。こっちにいればよかった」 次藤がじっと都築を見つめる。 「肇ちゃんが死んだあと夕花さんは、俺にそばにいてほしくかったみたいだった」 「うちのお母さん、誰にでもそんな感じだし」
2018-10-01 23:40:50「…君のお母さんはなんで亡くなったのか、教えて欲しい」 男はまた抑えた口調で尋ねてくる。手袋をはめた指が日記の表紙をなぞっている。少女は言いよどんだ。 「病気です」 「どんな」 「…言えません」 「そうか。分かった」
2018-10-01 23:43:02むっつりと次藤は黙り込む。双眸が狭まり、視線だけでテーブルクロスから煙が出そうだった。 「お母さんが亡くなって、君は今、誰と暮らしてる?」 「ひとりです。お手伝いさんが来るけど」 「ああ…そうか」 またここではない、いまではないどこかに思いを馳せているようだった。
2018-10-01 23:46:11都築はなんとなくいらだってパフェをかっこんだ。せっかくのご馳走なのに味があまりしない。 「質問ばかり悪いが、もう一つ教えてくれ」 「なんですか?」 男の問いかけに、少女は挑むように聞き返す。 「鐘の音は、君も聞こえるのか」
2018-10-01 23:48:15三好の娘はぎくっとして、つい相手を直視する。するともう目がそらせない。 まるで蛇ににらまれた蛙。スプーンを持つ指の感覚がない。寒さにやられてしまったかのよう。なのに腹の下が熱い。
2018-10-01 23:50:58◆◆◆◆ 都築は母が好きだった。優しくて美しくて穏やかな母が。 けれど物心ついたころから、母がいなくなってしまう予感があって、ずっと怯えていた。 鐘の音が聞こえるたびに、不安は高まった。
2018-10-01 23:52:21もちろんずっと暗く沈んでいたわけではない。子供のことだ。たいてい上機嫌で、遊び回って、いたずらをして、温和ながら断固とした叱責を受けて落ち込んでも、またふざけて。 とりわけ、お正月に"次藤のおじさん"からお年玉がわりに玩具が届くと有頂天になってはしゃいだ。
2018-10-01 23:54:40