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nikko81@もういくつ寝ると〜♪余市だよ〜♪ @nikko81_fsi
『武田信玄の城づくり』 甲陽軍鑑や高白斎記、諸文書から城に関する点を抜粋、また信玄公が築城、修築した城郭を地図にプロットした内容(城郭者研究セミナーからの追記?そして参考文献群。丸馬出に関する一級の資料だわこれ。最高。 pic.twitter.com/dWIGhlLmMv
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これ、勝頼公時代のも特集してほしいな。信玄期と勝頼期の比較、個人的にはすごく興味ある。基本的に軍鑑は信玄期の城取のあり方を記しているように思え、勝頼期にさらなる発達があるように思うんだ。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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勝頼公と城、というとある意味新府城ばっかりがテーマになりやすい感。しかし、長篠敗戦からの危機感の継続は城取が発達しうる環境だと思うんですよね………
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さて #武田信玄の城づくり の内容について。まず、有名な『人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、讎は敵なり』ま、信玄公お城造ってるじゃんね、という話なんだけど、この箇所の甲陽軍鑑をちゃんと見てみましょう、と。軍鑑に曰く…
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甲陽軍鑑品第三十九。『信玄公御一代の内、甲州四郡の内に城郭をかまへず、堀一重の御たてに御座候事』『甲州のうちに城郭をかまへ、用心する事もなく、屋敷がまへにて、罷在』本国甲州に城を構えなかったと軍鑑は言ってるんですね。それが信玄公は城を造らなかったというイメージに変わっているのな。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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『人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、讎は敵なり』も、或人の云ふ、信玄公御哥に・・・とあって、恐らく香坂弾正が誰かから聞いたのか、また「或人」とぼかしていることから、仮託して創作したのかもしれないな。ま、残してそうではある内容だとは思うけど。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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続いて、鍬立・普請・城割・破却。駒井高白斎の「高白斎記」のうち、城に関わる箇所を追う。鍬立とは地鎮祭的な呪術的性格のある儀式、普請は土木工事の開始。鍬立に関して江戸時代になってだけど、荻生徂徠『鈐録―十五城制経始―』にこの「鍬立」に類する地鎮祭の解説があるそうだ。
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曰く、本丸の四方に七人、五人、三人の人足を仕立てて、もっこに土を入れて鍬を入れるような風習と伝えている。これを「七五三」と略しても呼ぶようで、また『右の七五三の事は畢竟祝由の術なれば其の家風に随べし』ということで各家で若干なりとも作法の違いがあるらしい。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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高白斎記にも鍬立とある後に、「七九」「七五三」「七五九」などとあって、必ずしも七人・五人・三人ではないものの、陰陽道的に縁起のよい奇数の人足を以て行っていたようだ、とのこと。城に纏わる儀式の側面が垣間見えるのは興味深い。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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紹介されていた高白斎記では、かなりの数の鍬立普請が記載。甲府開府の永正16(1519)年から天文22(1553)年まで。晴信代になっては諏方上原城(天文13~14)、伊那高遠城(天文16)、佐久布引城(天文17)、佐久前山城(同)、筑摩村井城(同)、諏方高嶋城(天文18)、伊那福与城(同)(続)
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筑摩深志城(天文19)、躑躅ヶ崎屋形西曲輪、佐久岩尾城、岩村田城、筑摩平瀬城など(天文20)。この中で平瀬城は攻め落とした後、城割しその上で鍬立していること、二年後の天文22年には破却しているという城の経緯がよくわかる例。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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城割は近世城郭なら石垣の隅石を崩すといった風だが、どうもこの時代の土の城の場合門であったらしい。呪術的な意味で前の支配者の色を消す為、その象徴的な箇所を破壊するというものらしい。門あるいは必然的に虎口そのものがこの時代の城の「象徴」たりえるということか…
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逆に言えば丸馬出や三日月堀といった武田家にあって特徴的に採用されていたパーツが、攻勢に出やすい防衛のための効果的なパーツであるだけでなく、武田の城という象徴的な意味が当時からあり得たのではないか、とも感じられた。講演者の山下先生もそのような可能性を想定しておられた。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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江戸時代になって、関東で明らかに武田と無関係な城で丸馬出が造られている例があって、甲州流軍学との関係で「ブランド化」したパーツになっていったのだろうと考えていたが、そのブランド化武田氏時代にもあり得たと考えると、軍事的観点ではない丸馬出の側面を想像できて面白い。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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高白斎記であと気になったのは、砥石崩れの際の撤退を記した部分。『(前略)二日(大門)峠ヲ越テ諏方ヘ被納御馬、酉刻湯川エ御着陣、三日於三原万事ヲ聞キ召シ合セラレ、方々ヘ御状ツカワサル、六日丙寅三原ヲ御立、七日府中(甲府)ヘ被納御馬』この「湯川」とは、湯川砦(枡形城)のこと。
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砥石崩れの際の撤収で湯川に晴信公は立ち寄ってここで戦況を聞いて文書発給をしてたのでは、という推測。単郭に丸馬出という簡素なつくりながら、諏方支配の拠点である上原城・高嶋城とは違い、小県侵攻の晴信拠点という性格は確かに感じられる。もし丸馬出に象徴的な意味を見いだすとすると尚更。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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さて、文書類。個人的には徳一色城(田中城)に関する高山文書とそれに該当する甲陽軍鑑の記述(品第卅六)を併記して頂いていたのが有り難い。何れにも徳一色城はもとより堅固の地であり、普請には及ばないというもの。
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普請要らんと信玄自身が言ってるわけで、円形の堀が巡って内郭外郭合わせ6つも丸馬出がある江戸時代の田中城がおよそ武田時代の縄張りではなさそうだと思える点だが、甲陽軍鑑には「是は堅固の地なりとて馬場美濃守に被仰付、馬だしをとらせ」とあって、え、普請要らんのちゃうのと思ってたんですが。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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当時今川の城だった徳一色城を田中城と改名したわけですが、武田がとったでーという意味で丸馬出を据えて「見せる」という意味もあったか。山下先生は新府城の丸馬出にもそのような意図があった可能性に言及されていた。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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ちなみに地形的に田中城、どこが堅固やねんと思ってたんですがあの周り湿地帯で攻め寄せにくいところだったんですね。ちょうどその中で比高が高いところが狭まってある地点を城としている。それは確かに堅固。紹介されていた推定武田時代の田中城には細長い高比高の地形の両端に丸馬出。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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そういや藤枝の展示で田中城の古い図を見たときに、一つだけ片側が閉じている(比較的古そうな)丸馬出が最外郭にあったんだよなぁ。あの丸馬出の位置と湿地帯に囲まれた地形合致するのかしら。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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特に講演では言及なかったけど、やはり城に関する晴信・勘助の問答を記した甲陽軍鑑の記述はすごく興味のある箇所。品第廿五。時は天文22年6月24日。晴信、勘助に諸国の戦の批評を聞いて後、晴信自身の考えを述べる部分。こういう「何を考えていたか」が垣間見れるのは楽しい。
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晴信公曰く、中国の書物で知識を得るばかりでは境目の城の構え方のやり方をうまく定めることはできない、勘助になんとかできる?と問う。そこで勘助が言うには、関東では太田道灌流を専ら用いるとのことだが時も経過し、その流儀をしっかり理解する者もなく、堀を掘るべきでないところに掘り・・・ twitter.com/nikko81_fsi/st…
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つまり城郭パーツの目的や使い方がよくわからないまま使われているという指摘をしている。これ、城に行っていてたまになんでこんな縄張り?意味わからんというのがあり得るという傍証になる気がしている。なまじ城を知ってくるとどの城もよく軍事的に練られて縄張りしてるはずと思っちゃうんだけど。 twitter.com/nikko81_fsi/st…
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続いて、晴信公問うて曰く、攻めるに難しく籠もるに適した城はないものか、のあとに出てくるのが「馬だしと申物は城取の眼」という勘助の弁。これに納得した風の晴信は「敬礼し民部を召して是をきかせ給ふ。此民部、後は馬場美濃守と申候。」と馬場美濃守に継承させるようにしたという。
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