@terada_masaya @iwa_jose @o_boze ああ、S先生は髭伸ばしてるみたいですよね。髭部か‥4人集めて文化祭に出るかな。
2011-04-25 08:14:54@o_boze @iwa_jose 「やはり震災以降は、口ひげが在ることとあごひげが在ることとの差異がどうでもよくなりましたね」
2011-04-25 09:54:04@haginomachi @o_boze 「毎日朝起きて髭をそる、そういう日常というものが喪失してしまった。そういう所から考えていかざるを得ない。これは否定できないと思うんですよ」
2011-04-25 09:59:42@iwa_jose @haginomachi 「もちろん、震災以前においては髭には顎と口という相対的差異のみならず、そるかそらないか、あるかないかという決定的な身分の違いがあった」
2011-04-25 10:06:50@iwa_jose @haginomachi 「だが、ポスト震災という状況において、髭の存在論的な身分自体が不確かになってしまった。髭があるかないかではなく、髭とは何かという問い自体が無効になってしまった。そんな気がするのです」
2011-04-25 10:08:34@haginomachi @o_boze 「震災以前において髭は、剃られること、その不在において、いわば否定神学的に象徴的意味を与えられていた。一方でポスト震災の現実において髭はただのびているだけであり、「剃られていない」という否定性を最早背負っていない。これをどう考えるか」
2011-04-25 12:54:21@iwa_jose @o_boze 「いずれにせよ、髭の存在様態が変わってしまった以上、これまでの髭文学や髭美術は大きな変化を被るでしょう。髭の表象に関わる問題ですから」
2011-04-25 15:22:41@haginomachi @iwa_jose @o_boze うむ・・・髭男爵はどうなるんですか?小学生を装っての質問。
2011-04-25 16:11:12@JasonPark_jp @iwa_jose @o_boze 「髭男爵は従来型の髭ですし、やはりアイデンティティ・クライシスを引き起こすのではないでしょうか」
2011-04-25 17:05:51@haginomachi なるほど。でも、アイデンティティ・クライシスに陥った髭男爵って「やせた山田ルイ53世」か「受けるひぐち君」のように、どっかシュールな気がしますw もしそうなったら今回震災がもたらした一つの悲喜劇として数えられるかもしれませんね。
2011-04-25 17:23:35@haginomachi @JasonPark_jp @o_boze 「いや、むしろ今こそ、髭男爵の潜在力が駆動する時なのかもしれない。なるほど髭の存在論的身分は不確定性の中に投げ出されてしまった。しかしそれこそが“ルネッサンス”を可能にするのかもしれない」
2011-04-25 18:15:51@iwa_jose @haginomachi 「つまり、剃る、あるいは不在といった否定性に媒介されることで存在者たりえた髭が、そうした否定性から解放されることによって、逆説的に、以前の髭とは異なる髭、いわば純粋-髭へと転化する」
2011-04-25 21:22:06@haginomachi @iwa_jose「存在についての問題がある一方で、髭表象の問題も再考が必要でしょう。髭イメージの変容。これは真剣に問うに足る課題です。たとえば、髭ダンス。」
2011-04-25 21:23:42@haginomachi @iwa_jose 「髭をつけたもの同士が、同期してダンスを踊り、作業に興じるという「髭を媒介とした連帯」がそこにはあります。しかしながら、それは髭という付加物こそがスティグマとして刻印されていたが故の連帯であり、ある意味では共犯的な関係性でさえある」
2011-04-25 21:26:27@haginomachi @iwa_jose 「しかしポスト震災期において、いわば髭は全面化してしまいました。髭の偏在。そのような状況下において「髭をもつ/蓄える」ということはもはや連帯の証とはならない。ある種の特権性が失われた世界において、髭ダンスはそれでも可能なのでしょうか」
2011-04-25 21:29:53@iwa_jose @haginomachi @JasonPark_jp 「これは髭男爵の場合も同根の問題を抱えているといえます。そして、真の「ルネッサンス」(髭再生/髭復興)は彼らの今後に委ねられているともいえるでしょうね」
2011-04-25 21:31:29@iwa_jose @haginomachi @JasonPark_jp 「そして、この待望されるべき「ルネッサンス」(髭再生/髭復興)が、先ほど述べた「純粋-髭」というポスト震災期における髭の様態を抑圧する反動的なものであってはならないことはいうまでもありません」
2011-04-25 21:37:42@o_boze @haginomachi 「なるほど。髭を髭たらしめていた象徴的秩序が失効するということは、髭の〈意味〉(あるいは〈意味〉としての髭)をめぐる問いからの解放と言えるかもしれません。そのような場所でこそ、〈髭それ自体〉への開かれがある、そう言えるかもしれない」
2011-04-25 21:43:37@o_boze @haginomachi 「しかし、そのような〈髭それ自体=純粋-髭〉を、もはや髭と呼べるのか。毛髪あるいは毛一般と区別することができるのか。このように考えた時、髭についての(今や無効化した)問いと、禿についての(敗北を約束された)問いは、音の響き以上に近接する」
2011-04-25 21:48:54(続)そうした意味で、髭を生やしているとはある種の特権に違いない。だが、しかし女に嫌われてからこそ男は自分の髭を意識し始め、女こそ髭の不在する場所であることに気づき、やがてそのような気づきは憐憫と憧れとが混ざった説明不可能な情調にまで上昇していく。飛躍していえば、髭は愛である。」
2011-04-25 22:23:27