- miurano_suke
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昔一部ノブヤボ界隈で人気を博した松本図書助について。 蘆名盛氏・盛興期に活躍した松本図書助は元亀元年の「松本氏輔証状」(「法用寺文書3」『福島県の古代・中世文書』113-3)から実名「氏輔」と判明し、
2018-02-15 22:05:11天正2年に安積郡において田村家との戦いで大敗して討死したのはこの氏輔とされるが、『伊達治家記録』には「松本図書氏興」とある。
2018-02-15 22:07:38長年、この「氏興」は「氏輔」の誤記だろうと思っていたのだけど『伊達氏重臣遠藤家文書 戦国編2』によって「松本図書助氏興」署名の文書の存在が明らかになり「松本氏興」は氏輔の誤記ではなく実在したことが明らかになった。
2018-02-15 22:08:48件の氏興署名の文書は年次不明なので氏輔と氏興は別人という可能性も排除出来ないが、遠藤家文書は概ね天正年間のものであり、氏興文書も同じ頃のものの可能性が高い…のではないか? とすると氏輔の活動時期からその親とも子とも考えにくく、やはり両者は同一人物なのではないかと思える。
2018-02-15 22:11:22仮に氏輔と氏興が同一人だとするといろいろ興味深い。まず元亀元年まで「氏輔」だったのは間違いないのでその後改名したことになるが、すると時の蘆名家当主、盛興からの偏諱と考えるのが自然だろう。
2018-02-15 22:12:09他の宿老たちを差し置いて盛興からの偏諱を受けたのだとすると、この松本図書助は盛興との関係がかなり深かった、「盛興政権」(当時は盛氏との二頭体制だったので、盛氏権力に対置して仮にこう呼ぶ)の中心的人物だったのではないかと推測できる。
2018-02-15 22:12:46天正2年の田村氏との争いに対し蘆名方の主将として松本図書助が出陣したのはまさに彼のそのような立場ゆえに、病臥していた盛興の名代としてだったのではないだろうか。
2018-02-15 22:13:31そしてまたもしもそうだとするならば、少なくとも天正2年までに盛氏は戦の前面から引いており、その方面は盛興が管掌するようになっていたこと、盛氏から盛興への権力移譲がかなり進んでいたことの証左にもなるんじゃなかろうか。 まあ立証には程遠い妄想に過ぎないけれど…。
2018-02-15 22:14:23@miurano_suke 直江景綱(政綱)と吉江景資(長資)が上杉輝虎から二度も偏諱を付与されたと思われるのですけど、松本図書助もそうであった可能性が高いということですよね。盛氏から頂戴した「氏」の字を廃するわけにはいかないので、盛興の「興」の字を下に付したという珍しい事例になりますね。
2018-02-16 12:34:42@miurano_suke 遠藤家文書ということは、「輔」と「興」の草書体が似ているかいないか、花押形が似ているかどうかが確認できたのでしょうから、両者が同一人物である可能性は高いように思われますね。もし、氏興が氏輔の子だとしても、独特で最上級の実名を与えられたことに変わりはないので、とても興味深いですね。
2018-02-16 17:35:05