天正後期、蘆名家の宿老構成と「家臣の謀反」について

3
三浦介 @miurano_suke

『白河市史 5』972「金上盛備等四名連署書状」(天正14年7月12日)の署名者は金上盛備、富田氏実、平田実範、針生盛信の四名。

2018-04-02 12:38:38
三浦介 @miurano_suke

これに対し天正15年3月5日の「蘆名氏宿老連署起請文」(『白河市史5』984)の署名者は針生盛信、平田氏範、富田隆実、金上盛備の4名。

2018-04-02 12:40:58
三浦介 @miurano_suke

平田家と富田家の署名者が変わっている。これは天正14年7月12日以降、天正15年3月5日までの間にこの2家で家督の交代があったという可能性があるかな。

2018-04-02 12:42:56
三浦介 @miurano_suke

あ、でも平田氏範はもっと前から外交活動が確認できるから、氏範の家督相続はもっと早いか。それなのに天正14年の署名が実範ということは、氏範が一時的に失脚していたことと関連するのかも…。 twitter.com/miurano_suke/s…

2018-04-02 17:47:16
la_cometa_rossa @nagao_uesugi

@miurano_suke こんばんは。平田氏範が返り咲いたのは、佐竹・白川氏から蘆名義広を迎えたことに関係があるのでしょうかね。

2018-04-02 19:45:20
三浦介 @miurano_suke

@nagao_uesugi その可能性もあるとは思いますが、平田氏範の失脚は亀若丸存命時で、復帰の時期が不明なので、何とも言えないところですね//_o\

2018-04-03 09:35:39
la_cometa_rossa @nagao_uesugi

@miurano_suke なるほど、そういったところですか。ちょっと気になったのですが、『上越市史 上杉氏文書集』3170号の天正15年正月24日付小田切但馬守宛針生盛信・金上盛満・富田氏実・平田実範連署状写には「佐竹殿御次男白河殿ニ被成候由」とありますが、年次は合っているのでしょうかね。

2018-04-03 20:01:57
三浦介 @miurano_suke

@nagao_uesugi 遅くなってすみません。僕は天正15年でよいと思っております。

2018-04-04 00:03:54
la_cometa_rossa @nagao_uesugi

@miurano_suke いえ、前にも言いましたが、お忙しいの分かっておりますし、こちらの方こそいつも遅いので、かえって気が楽です。そうなりますと、平田氏範の返り咲きの時期がかなり限定できますから、仰っていた通りの時期に氏範は返り咲いたことになりますね。ありがとうございましたー

2018-04-04 13:12:32
三浦介 @miurano_suke

@nagao_uesugi ですね。天正15年付けの連署状のこと、教えてくださってありがとうございました<(_ _)>

2018-04-04 22:09:58
三浦介 @miurano_suke

蘆名家家臣だった松本、富田、平田、佐瀬の四家は俗に「蘆名四天宿老」なんて言われるけど、この四家が並んで家中の頂点に居たのはだいたい永禄〜天正一桁くらいまでのように感じる。ざっと20年前後で、古くからの体制ではなかったように見えるな。

2018-04-08 13:25:00
柳@ういろ for 総合アカ✌️ @yanagi1981

@miurano_suke そんな短い期間で、当時から四天王って本当に言われていたんでしょうか? 松本なんかしょっちゅう謀反も起こしてますし。

2018-04-08 13:40:09
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 僕が知る限り、そもそも「四天宿老」という呼称自体、後世の編纂物でしか見たことないので、恐らく同時代に「四天宿老」とか「四天王」とか呼ばれたことはないと思います。

2018-04-08 13:42:07
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 それと、松本氏に限らず、富田、平田、佐瀬の各氏も「〇〇氏」で一括りに捉えない方がいいのでは、とも思ってます。謀反ばかりの印象の松本氏ですが、宗家と思われる系統の謀反は少なくとも蘆名盛舜の代以降は確認できませんし、庶流の散発的なのばかりで一族としての横の繋がりは弱かったやに思えます

2018-04-08 13:52:31
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 だからこそ度々「松本」名字の者の謀反があっても、図書助系は宿老となれたのだと思うのです。 なぜ松本氏の謀反が目立つかと言えば、とにかく広く松本氏が存在したからで、それは長い世代をかけて分流が広がったということで、それだけ血縁意識も薄くなっていたのではと。

2018-04-08 13:55:43
柳@ういろ for 総合アカ✌️ @yanagi1981

@miurano_suke 他の四天宿老もこんなに枝分かれしたのでしょうか?

2018-04-08 13:57:10
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 佐瀬氏についてはまだよくわからないのですが、富田氏と平田氏はかなり多くの系統に分かれていたと思われます。

2018-04-08 13:58:19
柳@ういろ for 総合アカ✌️ @yanagi1981

@miurano_suke 富田も謀反多かった印象あるのもそんな感じでしょうか?

2018-04-08 13:59:36
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 あくまで個人的な意見ですが、まあ同じだと思います。松本氏との違いは、富田氏は宗家、あるいは主流の謀反はなかったように思われるのと、そもそも謀反の数も言われるほど多くないということでしょうかね。

2018-04-08 14:03:23
柳@ういろ for 総合アカ✌️ @yanagi1981

@miurano_suke 多くはないのでしょうけど、どこかでやっていたなという印象がありまして。

2018-04-08 14:06:35
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 度々謀反してたのは間違いないです。何しろ蘆名家入部以前からの在地領主ですし、会津のみならず安積郡まで広く盤踞していた一族ですからね。記録に残ってないだけで、数え上げたら松本氏よりも多く蘆名家と抗争していたのかもしれません。

2018-04-08 14:22:52
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 でも16世紀以降に限れば松本一族程ではないとは言えると思います。

2018-04-08 14:23:50
柳@ういろ for 総合アカ✌️ @yanagi1981

@miurano_suke ホント、猪苗代も含めて、一族重臣の謀反が多いですね。それだから摺上原の戦いでも裏切りに遭うんでしょうね。

2018-04-08 14:27:59
三浦介 @miurano_suke

@yanagi1981 個人的にはそこらへんは違うんじゃないかなあと思ってます。恐らく世間では林哲氏の『会津芦名一族』と『会津芦名四代』の影響が強いのだと思われますが、古記録に多く残される「謀反」は実際にはどこの大名家にもあった在地勢力との争いに過ぎず、実質は「家中の家臣の謀反」ではなかったのでは?

2018-04-08 14:36:51