舞城王太郎『煙か土か食い物』についての呟き

cydonianbananaさんの呟き。
文学 批評
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cydonianbanana @cydonianbanana
今日の例会では舞城王太郎『煙か土か食い物』を取り上げた。そもそも文体レベルで辟易としたという向きが全体の五割。思ったより少なかった。
cydonianbanana @cydonianbanana
「だって真摯にミステリやってないでしょ」って言う意見がちらほら。まあそれはその通りで、舞城は一貫して「ミステリ」を要素として借りてきているだけだから、彼が書いているのはそもそもミステリじゃない。これは佐藤友哉とかにも言えることで、彼の「ミステリ」はガジェットの域を出ない。
cydonianbanana @cydonianbanana
最初から、やりたかったのは文学なんじゃないかと思っている。彼の文体は独特で、風景描写や客観的考察の一切が省かれている。これはたぶん、普段あまり堅い小説を読まない層や小説に主にストーリーを求める層を抱き込むための戦略なんじゃないかな。極力「かったるさ」はぶいて、まず引き込む。
cydonianbanana @cydonianbanana
その上で純文を書き始める。舞城のテーマは一貫していて、そのひとつは虚構について。『暗闇の中で子供』から引用→「こう考えるべきなのだろう。逆なのだと。作家こそが、物語の道具なのだと。作家を用いて、物語は真実を伝えるのだと。そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまでも物語なのだ」
cydonianbanana @cydonianbanana
1900年代初頭に築かれた遺産でもってきた「物語」が、そろそろやりつくされてにっちもさっちもいかなくなって、今度は物語の中で題材を扱うんじゃなくて、題材のために物語を消費するようになった。そのことを、舞城はそれまで小説に親しんでこなかった層に伝えようとしているのではないか。
cydonianbanana @cydonianbanana
そういう意味で、彼が「文学」に果たした意義は大きいと思う。もしかして彼は、自ら進んで客引きの役を引き受けてくれているんじゃなかろうか。
cydonianbanana @cydonianbanana
題材のために物語を消費するということの最たる例が『九十九十九』と『ディスコ探偵水曜日』。これほどわかり易い例もなかなかないのではないか
cydonianbanana @cydonianbanana
「メフィストは京極先生でピークだったね」とのお言葉を賜わった
cydonianbanana @cydonianbanana
黒板にベン図を書いて、1920年代は「物語」のなかに「主題」や「題材」が包含されている、1980年代以降は「主題」や「題材」の中に「物語1」、「物語2」、...、「物語n」が包含されているということを図示した。みんなに「あっそ。で?」、って顔された。快感だった。
cydonianbanana @cydonianbanana
舞城が小説の中でたくさんの物語をガジェットとして引用していることは自明だし、そのなかに村上春樹関連が多いというのも自明だと思う。でもそれだけで春樹チルドレンとするのはどうなんだろうって言うのは僕にもあった。でも彼の文章を読んでいると、こういうことなのかなとちょっと思った。それは、
cydonianbanana @cydonianbanana
舞城の文章には「俺」や「僕」や「あたし」がしつこく出てくる。これはたぶん、主語―述語の関係を骨格とする英語の影響がもろに出ているんだろう。通常美しい日本語とされるのは、うまく主語が省略されている文章であるわけだけれども、彼は平然とその真逆をやっている。
cydonianbanana @cydonianbanana
これは彼が日本語的な美しさではなく、英語的な語感によって文章を書いていることへの、一つの証左なんじゃないか。そして村上春樹もまた、海外小説から出発した作家である。二人は、英米文学というパイプでつながっている。

コメント

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