上田ゼミ読書会<関心なき快>にむけて
「村上隆」、「都条例」、人体の不思議展の経緯をおさえずして、やはり「現代の芸術制度」の道徳的・社会的中和力は語れないと思うのだけれども、その辺にあえて触れないのには、なにか理由があってのことなのかな?@jinsnow
2011-04-27 17:17:38個人的にはそのような臨床的史実を徹底して排除するところに初めて美学的思索、あるいは美学的態度というものの可能性が求められる、というような主張もありだと考えているのだけど、ちょっと訊いてみたいと思って。@jinsnow
2011-04-27 17:18:19@KANAH0 1手が回っていない。2本当は制度ではなく、個別且つ感性の話でやりたかった。(そのためにアニメの話を作っていた)。でも、躊躇った。3正直、臨床的な問題になかなか反応できない、興味削がれる。4手が動かない。それは、俺には出来ないということに等しいと思う。5でも憧れる。
2011-04-29 20:39:24友人の論文をようやく読んだわけですが(つまり読む読む詐欺をしていたわけですごめんなさい)一言で纏めると、カントを用いたニーチェ礼賛ですね、とか本当に言ったらマジで怒られるのだろうな(もう言ってるけれども)。≫フルボッコにされないゼミなんて──アゲイン。でかえそ……
2011-04-29 18:47:00<(非-)個性>や<普遍的妥当性>が無効になったとまでは言わないけれども、少なくともそのプラットフォームはピュグマリオン的恍惚の次元ではないと考えます。
2011-04-29 19:18:21@KANAH0 そもそも、どう語るのか?「否定」を今やる、という戦略には乗り気ではない。(とも言い切れないけど) 拾いあげることは出来るかもしれないけど。 そんな感じで時間切れ。
2011-04-29 20:39:48@KANAH0 ニーチェって自分ではやられないんだけど、ニーチェ語るひとにやられるんじゃない?そんなことない?でも、それが重要でしょ。とも言える訳で。 ニヒリズムの底値を早く超えたい。くらいはあるかも。
2011-04-29 20:40:45それにしても不思議です。消費/浪費概念は『消費社会の神話と構造』の第二章に既に現れているというのに。ボードリヤールは「消費社会は疎外」とか言うタイプのゴリゴリフランス左翼。なのに消費社会を擁護するポストモダンのチャラチャラした思想家とか思われている。本当に不思議。
2011-04-28 09:55:20@lethal_notion 日本で最初にボードリヤールに目をつけたのはバブル前夜の西武百貨店ですからね…どちらかと言うと彼が転覆するためにものした消費社会の記号論的な分析を、バブル経済に浮かれて現状肯定的にリサイクルしたのが日本のポストモダンだったという気がします
2011-04-28 10:00:40@lethal_notion 当時としては斬新というか、早くも記号消費に倦み疲れた人々をターゲットにしていたのでしょうか…ボードリヤールの記号消費を支える「欲望」概念については、すでにご存知かもしれませんが、訳者の今村仁司先生が比較的まとまった議論をしていたように思います
2011-04-28 22:57:24@jinsnow この「そもそもどう語るのか」というのは、非常に難解な問題であると同時に、文学部でものを書くという段階においてはもう卒業して、その先を掘り下げる勉強をしてもいいのではないか、というちょっとさめた見解が今の私に言えることかな。そもそもの始まりを覆すにはまだ不勉強。
2011-05-01 01:06:15@jinsnow ただ「否定を今やる」の戦略というのが具体的にどういうものを想定しているのかはききたいです。(それから、タイムアウトは全ての論文や作品においてあてはまることだから、そこも度外視した上で話をすすめたら、より構築的な話ができるかもしれない、と私は思っているよ。)
2011-05-01 01:10:07@jinsnow 「(不)可能性」については、なかんずく手垢がつきすぎたことばになってしまうから今の私はそこに寄りかかるのは意識的に避けているんだよね。そのことばで何を可能としようが不可能としよっが、前者と後者の現実はなにも違わないかもしれないのなよね。可能なことは常に既に可能。
2011-05-01 01:17:23@jinsnow 要するに、全てが(不)可能性なのだ──生まれ落ちたことから死にゆくことまで全て。あまり一般化するのは極めて思考停止に違いのではないかな。可能性を作り出すまでもなくそこにあるね!という感じ。おちゃらけるのは可能性の話が消費されていることへの批判の意味合いも込めて…
2011-05-01 01:21:14@jinsnow この点に関しては、ニヒリズムの低値がなにかを再度しつこく訪ねなくては反応がしにくいので、ここはニヒリズムの超克を如何に考えるかを再度こちらから表明できる機会をつくりたいと思います。個人的にはひっそりバタイユ・ブランショブームなので思うところはたくさんあります。
2011-05-01 01:26:06@jinsnow しかし同時に、「ニーチェがやられる」云々のラスボス殺してゲーム全クリ!みたいなのがなにを示しているのかをもう少しききたいかな。論文を読んだかぎり、アガンベンの最初期の論文が一番の依拠のようだね。私も好きなので、改めて読み返す機会を与えてくれて感謝します。
2011-05-01 01:30:33以上が今のところ一端、リプライとして。しかし、さすがにこれは……論文である限り、散文詩ではないので、せめて主語がなにかを加えもう一言願いたいです。作家と研究者の精神はさほど変わらない、が私の持論です。RT @jinsnow: 遠くてよく見えない。代わりに見える。そこが問題。かな。
2011-05-01 01:34:45@KANAH0 「読書会」の趣旨、あるいはこう言ってよければ定義を、ぼくなりに今日、確認した。すなわち、本丸(カントやニーチェ)まで射程に入ってくるのはもちろんすばらしいけど、まずは〈彼〉自身の読解力(誤読)や筆力も.. http://togetter.com/li/129551
2011-05-01 23:30:29@KANAH0 色々丁寧に返信してくれてありがとう。聞きたい事もあるんだけど、どうしたらいいんでしょうね。有意義な読書会を目指すならかなほさん以外が話してくれると助かるとも思ってるんですが。@die_Stimme とか。
2011-05-01 22:41:08美学の本丸<カント-ニーチェ>はひとまず置いておいての議論をということなので、 @jinsnow からのリプライをまちつつ改めて訊いておきたいことをいくつか考えながら書き残しておきます。
2011-05-02 22:03:181.フィクション性について:フィクションとは、現象するAと主体が知覚するBという二重構造にて成り立っている。その二つの<パラレルワールド>に生じるズレにおいて主体は「美」を感得する。ケーゲル風に述べるならば、後者は<観賞者の精神(という)フィクション>というところだろうか。
2011-05-02 22:09:282.(「本丸」ではなくあくまで卒業論文執筆者のことばとしての)カント美学においての最高位は「観賞者」と名指される。一方のニーチェ美学における最高位は「創造者」である。このふたつの者において「美」の生成の仕方が異なり、そして本論では創造者による美が観賞者による美に優ると言われる。
2011-05-02 22:14:47「美において、想像と鑑賞が混同されているのではないか、もしくは、鑑賞側により過ぎて定義だけが先行してしまい実際に創造する立場から考察されていないのではないかということである。
2011-05-02 22:21:07