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上田ゼミ読書会<関心なき快>にむけて

読書会に関連するツイートのまとめ (オフライン読書会参加者はそれぞれ目についたもの、議論したいものなど自由に追加してください。自由にとは「積極的に」の意味です。) 通り過ぎた方々も、なにか目についたものがあればどうぞご助言、ご教授ください。
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s*** @KANAH0

「村上隆」、「都条例」、人体の不思議展の経緯をおさえずして、やはり「現代の芸術制度」の道徳的・社会的中和力は語れないと思うのだけれども、その辺にあえて触れないのには、なにか理由があってのことなのかな?@jinsnow

2011-04-27 17:17:38
s*** @KANAH0

個人的にはそのような臨床的史実を徹底して排除するところに初めて美学的思索、あるいは美学的態度というものの可能性が求められる、というような主張もありだと考えているのだけど、ちょっと訊いてみたいと思って。@jinsnow

2011-04-27 17:18:19
内海仁一 @jinsnow

@KANAH0 1手が回っていない。2本当は制度ではなく、個別且つ感性の話でやりたかった。(そのためにアニメの話を作っていた)。でも、躊躇った。3正直、臨床的な問題になかなか反応できない、興味削がれる。4手が動かない。それは、俺には出来ないということに等しいと思う。5でも憧れる。

2011-04-29 20:39:24
s*** @KANAH0

友人の論文をようやく読んだわけですが(つまり読む読む詐欺をしていたわけですごめんなさい)一言で纏めると、カントを用いたニーチェ礼賛ですね、とか本当に言ったらマジで怒られるのだろうな(もう言ってるけれども)。≫フルボッコにされないゼミなんて──アゲイン。でかえそ……

2011-04-29 18:47:00
s*** @KANAH0

<(非-)個性>や<普遍的妥当性>が無効になったとまでは言わないけれども、少なくともそのプラットフォームはピュグマリオン的恍惚の次元ではないと考えます。

2011-04-29 19:18:21
内海仁一 @jinsnow

@KANAH0 そもそも、どう語るのか?「否定」を今やる、という戦略には乗り気ではない。(とも言い切れないけど) 拾いあげることは出来るかもしれないけど。 そんな感じで時間切れ。

2011-04-29 20:39:48
内海仁一 @jinsnow

@KANAH0 ニーチェって自分ではやられないんだけど、ニーチェ語るひとにやられるんじゃない?そんなことない?でも、それが重要でしょ。とも言える訳で。 ニヒリズムの底値を早く超えたい。くらいはあるかも。

2011-04-29 20:40:45
内海仁一 @jinsnow

@KANAH0 遠くてよく見えない。代わりに見える。そこが問題。かな。

2011-04-29 21:34:57
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion

それにしても不思議です。消費/浪費概念は『消費社会の神話と構造』の第二章に既に現れているというのに。ボードリヤールは「消費社会は疎外」とか言うタイプのゴリゴリフランス左翼。なのに消費社会を擁護するポストモダンのチャラチャラした思想家とか思われている。本当に不思議。

2011-04-28 09:55:20
てらまっと @teramat

@lethal_notion 日本で最初にボードリヤールに目をつけたのはバブル前夜の西武百貨店ですからね…どちらかと言うと彼が転覆するためにものした消費社会の記号論的な分析を、バブル経済に浮かれて現状肯定的にリサイクルしたのが日本のポストモダンだったという気がします

2011-04-28 10:00:40
てらまっと @teramat

@lethal_notion 当時としては斬新というか、早くも記号消費に倦み疲れた人々をターゲットにしていたのでしょうか…ボードリヤールの記号消費を支える「欲望」概念については、すでにご存知かもしれませんが、訳者の今村仁司先生が比較的まとまった議論をしていたように思います

2011-04-28 22:57:24
s*** @KANAH0

@jinsnow この「そもそもどう語るのか」というのは、非常に難解な問題であると同時に、文学部でものを書くという段階においてはもう卒業して、その先を掘り下げる勉強をしてもいいのではないか、というちょっとさめた見解が今の私に言えることかな。そもそもの始まりを覆すにはまだ不勉強。

2011-05-01 01:06:15
s*** @KANAH0

@jinsnow ただ「否定を今やる」の戦略というのが具体的にどういうものを想定しているのかはききたいです。(それから、タイムアウトは全ての論文や作品においてあてはまることだから、そこも度外視した上で話をすすめたら、より構築的な話ができるかもしれない、と私は思っているよ。)

2011-05-01 01:10:07
s*** @KANAH0

@jinsnow 「(不)可能性」については、なかんずく手垢がつきすぎたことばになってしまうから今の私はそこに寄りかかるのは意識的に避けているんだよね。そのことばで何を可能としようが不可能としよっが、前者と後者の現実はなにも違わないかもしれないのなよね。可能なことは常に既に可能。

2011-05-01 01:17:23
s*** @KANAH0

@jinsnow 要するに、全てが(不)可能性なのだ──生まれ落ちたことから死にゆくことまで全て。あまり一般化するのは極めて思考停止に違いのではないかな。可能性を作り出すまでもなくそこにあるね!という感じ。おちゃらけるのは可能性の話が消費されていることへの批判の意味合いも込めて…

2011-05-01 01:21:14
s*** @KANAH0

@jinsnow この点に関しては、ニヒリズムの低値がなにかを再度しつこく訪ねなくては反応がしにくいので、ここはニヒリズムの超克を如何に考えるかを再度こちらから表明できる機会をつくりたいと思います。個人的にはひっそりバタイユ・ブランショブームなので思うところはたくさんあります。

2011-05-01 01:26:06
s*** @KANAH0

@jinsnow しかし同時に、「ニーチェがやられる」云々のラスボス殺してゲーム全クリ!みたいなのがなにを示しているのかをもう少しききたいかな。論文を読んだかぎり、アガンベンの最初期の論文が一番の依拠のようだね。私も好きなので、改めて読み返す機会を与えてくれて感謝します。

2011-05-01 01:30:33
s*** @KANAH0

以上が今のところ一端、リプライとして。しかし、さすがにこれは……論文である限り、散文詩ではないので、せめて主語がなにかを加えもう一言願いたいです。作家と研究者の精神はさほど変わらない、が私の持論です。RT @jinsnow: 遠くてよく見えない。代わりに見える。そこが問題。かな。

2011-05-01 01:34:45
モダニストのつぶやき @moderniswitter

@KANAH0 「読書会」の趣旨、あるいはこう言ってよければ定義を、ぼくなりに今日、確認した。すなわち、本丸(カントやニーチェ)まで射程に入ってくるのはもちろんすばらしいけど、まずは〈彼〉自身の読解力(誤読)や筆力も.. http://togetter.com/li/129551

2011-05-01 23:30:29
内海仁一 @jinsnow

@KANAH0 色々丁寧に返信してくれてありがとう。聞きたい事もあるんだけど、どうしたらいいんでしょうね。有意義な読書会を目指すならかなほさん以外が話してくれると助かるとも思ってるんですが。@die_Stimme とか。

2011-05-01 22:41:08
@kanapho

美学の本丸<カント-ニーチェ>はひとまず置いておいての議論をということなので、 @jinsnow からのリプライをまちつつ改めて訊いておきたいことをいくつか考えながら書き残しておきます。

2011-05-02 22:03:18
@kanapho

1.フィクション性について:フィクションとは、現象するAと主体が知覚するBという二重構造にて成り立っている。その二つの<パラレルワールド>に生じるズレにおいて主体は「美」を感得する。ケーゲル風に述べるならば、後者は<観賞者の精神(という)フィクション>というところだろうか。

2011-05-02 22:09:28
@kanapho

2.(「本丸」ではなくあくまで卒業論文執筆者のことばとしての)カント美学においての最高位は「観賞者」と名指される。一方のニーチェ美学における最高位は「創造者」である。このふたつの者において「美」の生成の仕方が異なり、そして本論では創造者による美が観賞者による美に優ると言われる。

2011-05-02 22:14:47
@kanapho

以下引用本文より一部

2011-05-02 22:20:16
@kanapho

「美において、想像と鑑賞が混同されているのではないか、もしくは、鑑賞側により過ぎて定義だけが先行してしまい実際に創造する立場から考察されていないのではないかということである。

2011-05-02 22:21:07
残りを読む(58)

コメント

s*** @KANAH0 2011年5月1日
自分で書いておきながら、再度読み返すともっとわかりにくい話になってしまったように思えるので、改めて @jinsnow さんへのメンションをします。
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モダニストのつぶやき @moderniswitter 2011年5月1日
@KANAH0 「読書会」の趣旨、あるいはこう言ってよければ定義を、ぼくなりに今日、確認した。すなわち、本丸(カントやニーチェ)まで射程に入ってくるのはもちろんすばらしいけど、まずは〈彼〉自身の読解力(誤読)や筆力も含めた諸制約のなかで書き上げられた、一本の美しい論文ありき、と。
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s*** @KANAH0 2011年5月2日
論文そのものから逸れたのやりとりでしたが昨夜のザワザワ分を追加しました。(半ば「お願い」の意を込めて……♡)
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月2日
ええと、基本的なというかもっと勉強すれば解決しそうな質問になるんですが、大枠として、事実われわれの時代は芸術に対して(美学者、非美学者問わず)「カント的な見方」が支配的で、当為の問題として、もっとニーチェの言ったような見方をすべき、という理解で合ってますか?(合ってませんよねえ…?
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月2日
というのも、「現代の芸術や美に対する認識は極めてカント的な見方であると考えている」と序論にあって――それは言葉を変えて繰り返し出てくるんですが――、ものすごく雑に言うとその論拠は資本主義的な生産‐消費のなかに取り込まれていることですよね。なので「カント美学の正しさvsニーチェ(略)」というよりは、ちょっとそういう流れを予想して読んでいたんですが
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月2日
最後の方で「実際に起こっていることはもっと多様で混濁したそれぞれ個々の事態なのである」などとあるように、美や芸術とわれわれの関わり方が必ずしも「カント的」ではないというような現状認識があったりして、あ、やっぱり(現状の批判というより)「カント美学の正しさvsニー(略)」なのかな、と思ったり。つまり現状がすでに――冒頭の記述に反して――ニーチェ的と言っているように見えるんですけどどちらなんだろう?と言いますか、また別のことを言ってるのかな?と言いますか
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月2日
つまり、われわれの時代の美・芸術体験の事実/当為の話をしているのか、それに関する議論での(美学史的な)カントの正しさ/ニーチェの正しさの話なのか、わたくしにはワカンネ\(^o^)/と言いますか。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月2日
あまり美学の議論の仕方がよく分かっていないというのもあるので見当はずれのことを質問しているかも分かりませんが…。その他いくらかメモがあるんですが、本論と関係なさそうな話だったりするので、細かいところはまたのちほど再読してからコメントします。
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s*** @KANAH0 2011年5月3日
追加分補充しました
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
なんか結局よく分からない聞き方をしているような気がしてきたので、ちょっと付け足しておきます。ええと、ニーチェが肯定的に語られていることは分かるんですが、それはざっくりと言うとどういう意味においてか、ということでした。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
内容に関してよく分からないところやつっこみたくてしょうがないところなど、再読しながら2~3日かけてここにメモしていこうかと思います。細かすぎるところや本題と関係ないところも多いと思いますので、とりあえずポストしてからいらないと判断したものは削除していく感じで。内容から離れた議論ももちろん可能かと思いますが、さしあたり今はJくんの卒論を読む限りで言えることを記していきます。今日は「序論」~「第一章」あたりで。(もちろん僕に対してなにかコメントしてもらっても結構です
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
とりあえず序論で流れを確認しておくと(最初の一文ですでに「え?」と思ったりしますがそれは置いといて)、カント美学では人間の諸能力の体系的な記述を試みる中で要請される「美」、他方ニーチェは「個別の事例」から。現代のわれわれの「美」観・芸術観はカント的で、Jくんはそれに懐疑的。だから(?)ニーチェを紐解くことでカントによる美の定義を批判・再考(← これが論文自体の目的)。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
(ファイルを受け取ってすぐに一読したときの「「パラドックス」ということばを簡単に使いすぎではないか!?」というどうでもいいメモを確認)
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
「悲劇の快」=「ふつう回避したいと思うような嗜虐的な場面が、映像・描写を媒介として受容されることで快に転ずる(大意)」。で、その説明として援用されるのがアリストテレスの「模倣の快」と「認識の快」。「模倣の快」は①模倣する快と②模倣されたものを受容する快がある。「認識の快」は推論(カントなら理性の能力(?))の快。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
この辺は、といってもまだ最初ですけど、ざっと読んだときもけっこう引っかかりました。p. 2の下端「すなわち快の理由は、ほかの動物とは異なる人間に固有の知と認識に求められる」とありますが、これは話を一般化しすぎかなあと。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
(アリストテレスが述べる限りの、ということまでは言う必要ないのかもしれないけど)先の二つの快は「芸術作品がもたらす快の理論」として紹介されたものだし、また、「理由」(「原因」と脳内変換したほうが適切っぽいですか?)とありますが、つまり「AならばB」(この場合なら「模倣」∨「認識」⊃「快」もしくは「模倣」∧「認識」⊃「快」)という形で表せるものなのかな?とも思いました。言い方の問題かな?
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
あ、でもさっきのところに関してはアリストテレス『詩学』か西村清和『フィクションの美学』を読めば解決しそうなのでモウマンタイですね。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月3日
こう読むと「模倣の快」②の「模倣されたものを受容する快」が直接「悲劇の快」の説明になっているように見えるんですが、ここで「認識の快」の方をより原理的な説明と見なしているというか、「認識の快」によって「模倣の快」②を説明しているような箇所が見受けられます。(が、ここも『詩学』を読めば解決)
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
(「「模倣の快」「認識の快」が共にあることは「大差ない」かもしれないが、「快の理由」として「大差ない」と言えるの?」というメモ(ぼやき)を確認)
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
あとこれは素朴な疑問と言いますか、アリストテレス解釈の問題と言いますか、どれだけ「原物」の見るに耐えない度(仮)がものすごく高くても模倣や認識が関われば「快」なんでしょうか。むしろ見るに耐えない度が高いほど、模倣・認識により反転するように「快」も大きくなる?それとも模倣や認識の関わり具合によってプラスやマイナスの軸を推移するようなもの(「認識したけど「快」まで届かない!」みたいな)?
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
(客観的真理と美が結びつく)古典的美学vs(内的真理と美が結びつく)ロマン主義の美学(大意)。いずれも共通するのは芸術作品と真理が結び付けられて論じられていること(大意)。・・・これに続くところ(p. 3 L25)で言われている「曖昧さ」ってなんだろう。美を語るときに二つの異なる立場が同じ「真理」ということば(というか観念)を用いていることによる、その語の「曖昧さ」ということ?
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
Jくんがここまでで確認しておきたかったこと ①暗黙のうちに芸術作品は作品外部の真理性を求めてしまうということ ②それはつまり、芸術作品がなんらかの写し鏡であることを認める認識の方法が広く浸透しているのではないかということ ・・・これほとんど一緒のこと言ってますよね。でも、「だからこそ、現実と芸術作品の間で「悲劇の快」というパラドックスが生じる」と続くように、ここが重要になってくるようです。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
前のコメント、引用ばかりになってしまった。一応、ここで「悲劇の快」の説明が終わるわけですが、つまり「芸術作品=(何かしらの)「真理」」の図式が根本にあって、で、なんで「悲劇の快」が生じるんでしたっけ……。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
見るに耐えない度(仮)の高いものを表象した芸術作品というのは、それが「真理」を含んでいる(と見なされる)のに、「快」を与えるということ?いやそれは分かるんですが、「どのように発生するか」はよく分からんです。これも言い方の問題のような気もしますが……。乞説明。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
まだ第一章途中ですが、つづきは明日に回します。見当違いのことをしているようだったら申し訳ないです。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月4日
われわれの時代は芸術に対して(美学者、非美学者問わず) →誰かって事よりは多かれ少なかれ、くらいに。「現実」「芸術」「現代」etc、使い方の曖昧さは落第ものだよね。関係ないかもだけど、誰に向かって話してるんだろう、という疑問はあった。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月4日
「カント的な見方」が支配的で、当為の問題として、もっとニーチェの言ったような見方をすべき →そうなるよね。笑 でも「カント的な見方」は意味通じるけどニーチェの見方って意味通じない気がするんだけど。「すべき」って言えない。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月4日
ニーチェが肯定的に語られている~どういう意味においてか →引用した所のニーチェって芸術はどうしても必要だだから、可能/不可能ではない。欲望を語ってるんだと思ったわけね。それも作者の欲望というよりは像そのものが欲する望みについて。で、この線で行くとどうなるのか、って言うのはよく分からない。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月4日
美・芸術体験の事実/当為の話or(美学史的な)カントの正しさ/ニーチェの正しさか。 →これって、同じことじゃない?
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月4日
「資本主義的な生産‐消費のなかに取り込まれていることですよね。」 →消費・生産・資本主義云々は収集がついていない。むしろ、あんまり関係ないと思っている。今なら違う角度からやる。当日出来ればいいかな。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月4日
以下かなほ補足より ・特に芸術の自律性がカントに依拠して語られることになるのも「構造的である理論」の故だと考える。 ・欲望の理論において、私の欲望は他者の欲望である。ここではオートポイエーシスが鬼門となる。 ・<終わりなき消費>の現代性 →この辺りピンとこない。もうちょっと説明いただけるとありがたい。特に二つ目は興味ある。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月4日
仮定(過程)的結論:よって、ここで持論を持ち出すのであれば「カントは関心を取り外すことで、芸術作品と現実の出来事の関係の間で生じる「悲劇の快」を軽々と越えて説明を可能に」(p.11)はしておらず、その議論はカントがその美学で<美>から分割した<崇高>に向けられ得ると考える。 →同意。それを踏まえて「カントの美学」ということにした。3〜9の流れは分かりやすくまとめられて、頷けます。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
返答しやすいように番号でもふっときゃよかった。次からそうします。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
あ、お分かりでしょうが一応言っておくと、僕の最初の5+1個のコメントはまとめてひとつの質問です。ちょっとJくんへの再応答だけしときます。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
了解です。>「誰かって事よりは多かれ少なかれ」・・・つまり、各人の各場面での芸術体験において、「多かれ少なかれ」カント的な見方がなされていて、それが本論で批判されているということですかね。経験的にはよく分からないけど、話はなんとなく分かりました。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
同じじゃない気がします。「(美学史的な)」というのが余計だったかも。「正しさ」というのは現状の診断としての的確さというぐらいの意味で使いました。つまり事実/当為なら事実に関わるものとして。だからすでに芸術体験の現状がニーチェの言ったようなものであるならば、「ニーチェの言ったようなものであるべき!」って言うのはナンセンスでは?ということです。>「美・芸術体験の事実/当為の話or(美学史的な)カントの正しさ/ニーチェの正しさか。 →これって、同じことじゃない?」
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月4日
まあでもすでに「カント的な見方が支配的である」という認識が再確認できたので、今のは割りとどうでもいいことだったかもしれない。
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s*** @KANAH0 2011年5月4日
参考文献用にいくつかの文献を加えました。コメント欄も充実していますので、引き続き私もいくつかコメントをのこしたいと思います。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
あげ足取りのつもりではないので余談:先にありました@jinsnowくんの ”消費・生産・資本主義云々は収集がついていない。むしろ、あんまり関係ないと思っている。” (それに続いて ”今なら違う角度からやる。当日出来ればいいかな。” とありますが。)>これは、ある意味、卒論の本論の主張と真っ向から対立している矛盾を孕んだ認識・論調だと思います。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
余談2:カント美学を越えた(アクチュアルな)ニーチェ的認識-表現-感得という美学を再び招聘したいと今現在主張するならば、間違いなく最初に闘うべき相手は、資本主義や民主主義といった70年代カルチャーの遺産から積み重なり9.11など様々なターニングポイントを経てきた言説であり、(語弊を怖れず、そして@jinsnowくんのことばにそって言うならば)ニーチェの美学の再興=創造者の美学における最も重要な闘いではないでしょうか。そこで、「あんまり関係ないと思っている」というのにはちょっと待った!と直感的に思いました。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
余談3:この辺はアクチュアルな(現代)美術 [作品] とのインタラクティブな交流のある@cusumotoさんやsmkdくんにバトンタッチをしてみても、おもしろいお話がきけるかもしれませんね。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
本論に少しだけもどして:ツイートでもしましたが、消費と欲望に関する議論はポストモダンとよばれ、記号論が文学研究のあらゆるところで援用されている現在では恐らく分野越境的にもっとも重要なキータームだと思います(個人的認識なので異論がある方はどうぞ訂正ください)。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
というわけで、私も説明できる場(おそらくblogになると思いますが)を用意するつもりだけど、先だって私が参照している「欲望」についてはジラール『欲望の現象学』(http://amzn.to/lUkrDd)、「消費」についてはボードリヤール『消費社会の神話と構造』(http://amzn.to/mqqFoR)を読んでもらえるとなんとなくでも話が捉えられるかもしれません。最初に國分さんとてらまっとさんのツイートを挟んだのもこの話なくしてのアクチュアリティとは?と思ったからです。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
とりあえず、今夜はこの辺にします。続きはまた明日か明後日にでも追いかけます。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月5日
以下かなほさんの指摘↓ツイートでもしましたが、消費と欲望に関する議論はポストモダンとよばれ、記号論が文学研究のあらゆるところで援用されている現在では恐らく分野越境的にもっとも重要なキータームだと思います(個人的認識なので異論がある方はどうぞ訂正ください)。→なるほど。僕の考えでも記号論の話にはなると思います。実は消費と欲望という言葉で何が話されているのかというのは、全然追えていません。だから齟齬が生じているかもしれませんね。これを機に出来る限り追ってみます。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
[ 2011-05-03 23:33:41 ]の僕のコメントが、読み返してみると自分でも何が言いたいのかよくわからない感じなので一応補足しますと、「快」の理由の中の二つ(「模倣」と「認識」)なのか、それともそれらなしでは「快」が生じないようなものなのか、というのを疑問に思ったのだと思います。たぶん。まあどちらにしても『詩学』を読めば済むことで、しかも本筋とあまり関わりなさそうなので、スルーしてもらって構いません。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
今までひっそり黙っていた @catchthefish が私がひっそり追加しておいた上田先生の3つのコメントに対して火をふいてます笑 本丸置いておいたんじゃなかったのかよっ!!(代弁)以降、本人より投稿を願います。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
1、第一章(ⅱ)「悲劇の快」が現代ではあまり問題にならないというJくんの指摘。その理由としてまず①、((芸術に限らず)「消費のサイクルに組み込まれ、交換可能で代用可能な商品となるべく流通されているという冷ややかな見方が一般的」だから)「真理」の概念が疑わしいものになっているから。②、みんな忙しすぎて「真理」のことなんか深く考えていられないから(大意)。だ か ら芸術作品がフィクション(≒非「真理」)として享受されている。だ か ら「悲劇の快」は問題にならない。という感じで凡そあってます?
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
あれ、これもしかしてカントの「趣味判断はどうして必然的な普遍的妥当性を要求し得るか」という問題の解説に「共通感(覚)」が出てこない?まあいいのか。え?
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
2、正直言うと一読した限りでは「悲劇の快」の話がなんで出てきたのかついぞ分からなかったんですが(・・・今でもあまり分かんないです)、もうちょっと進むと芸術作品をフィクションとして受容するような態度が「カント的な思考法」という風に言われていたりもして、そのような「悲劇の快」が問題にならないような態度≒「関心なき快」というアナロジーが成り立つから(?)という程度の理解でよいのかな?
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
3、「悲劇の快」が問題になるかどうかはつまるところ芸術作品が「真理」を含むと見なされているか否かってことで、見なされていないのが現代的なんですよね。本論で「カント的」と使われるとき、直接「関心なき快」というよりはこっちの意味合いが強い感じがします。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
メモ:私たちの領域で「記号論」というならばやはりエーコを抜かしては語れないと思うので、ひとまず『開かれた作品』を関連文献に追加しましたが、他にもエーコの著書は「表象」という言葉とも密接につながる重要文献多数です。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
4、ところで、いまさら基本的な質問をしてしまいますけど、①芸術をフィクションとして受容する態度と「関心なき快」の類似性、②現代的な芸術体験と「関心なき快」の類似性・・・(本論では「フィクションとして受容する態度」は=現代的な芸術体験と言えるので一緒のことですが、念のため区別しています)このふたつはそれぞれそれなりに一般的に共有されている認識なんでしょうか。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
5、直感的には例外は多々あるだろうという感じですが。もちろん、「カント的な見方」は「多かれ少なかれ」ということなんで例外があっても別に問題ないでしょうが、だったら前近代的な受容体験でも「多かれ少なかれカント的」と言えちゃいそうな気もします。美学界隈では一般的にカント美学は現代的と言われてるのかな、とか、ここはJくんのオリジナルな部分なのかな、とかちょっと気になる。
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s*** @KANAH0 2011年5月5日
閲覧可能論文: 和田 和行「記号としての芸術」http://ci.nii.ac.jp/naid/110007055793 古市 太郎「聖なるものと共同性についての考察 -ジョルジュ[ママ]・バタイユとジョルジュ・アガンベンとの比較を通じて-」http://ci.nii.ac.jp/naid/120002909807
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月5日
磯先生のblogより。どこまで関係あるか分かりませんが。『ディスタンクシオン』の問題設定と20世紀フランスの思想界におけるカント受容」http://d.hatena.ne.jp/naokimed/20091202/1259702155
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月6日
あ、僕の新しいコメントには一応番号をふっておきましたけど、別に全部に対して応答しろとか言うんではなくて、ただ単にあとから言及しやすいかなと思って付けてみただけです。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
(みんなイニシアル違うのね!)Kさん、J君、T君、とても刺激的な議論をありがとう。今回わたくしAは調整役ということであんまりコメントしないほうがいいのかなとも思いましたが皆に触発されるかたちでメモ(リクエスト)を残してみます。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
1)まず、J君の卒論の論旨を再度説明してほしいです(なるべく短く、そう140字くらいで)。目論みは引用「カントに対するニーチェの指摘を検証することで鮮明に見えてくるカントが美に下した定義の再考と批判」と序論にありますが、とくに本文で中心的な考察対象になるのは〈関心〉についてだと思います。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
2)「a. カントの用語〈関心〉」をめぐる議論は卒論第二章の第二節から第三節で(他の章節以上の紙幅を割くほどに)説明されていましたが、「b. ニーチェによる〈カントの関心〉解釈」については、考察が不十分ではないかと思いました。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
3)つまり、上のa. b. に加えて「c. カント以前に一般的であった〈関心の美学〉」、この3つの「関心」の区別が十分になされていないために、同じものを指しているように読めました。もちろんJ君がそんなふうに考えていないことはなんとなくわかるのだけど。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
4)a. とc.の各関心について、またそれらの差異(連続性)については、佐々木健一氏『美学辞典』の「美的態度」の項が端的に説明されててわかりやすかったです。引用「カントの用語における「関心」とは美に対する無関心にほかならない。」(p. 183)
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
5)また、佐々木氏はc. に関してフランスの思想家デュボスをとりあげて説明してます。どうやらデュボスはInterestの関心ではないほうの意味「利害関係」との関わりにおいて美的関心を考えているようですが(ほんで、その議論はとてもおもしろそうなのだけど)ここでは略。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
6)そしたら、b. に関してはどうなのでしょう。『道徳の系譜』を読みこめてないのではっきりと主張はできませんが、J君も引用する「関心なし!この定義を、以下略」の部分をみても、ニーチェの解釈するa. は、a.と同じものではないと思います。では、どこが、どう違って、どう重なっているのか。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
7)いや、もしかすると、このニーチェによる解釈(という屈折)を経た上でa. を考えるとすれば(わたしたちは)どのように考え(直せ)るか、という言い換えが、上の1)で引用した目論みの真意なのではないか、という気がしてきたぞ。どうなのでしょう、J君。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
余談:Kさんの余談「後にグリーンバーグ=モダニズム美学、特に芸術の自律性がカントに依拠して語られる(以下略)」、また1970年代以降の芸術動向と当時の社会状況等に対する応答はもう少し考えがまとまってからできればと思います。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
余談:とくに、カントの先験論的方法とモダニズムの自己批判性との重なりから「カントを最初の真のモダニストだと考えている」(「モダニズムの絵画」選集p. 62)グリーンバーグが「美術研究者」ではなく「批評家」であり、その批評的背景がポロックをはじめとする作家と(何より)彼らの作品を実見したことにある、という点がここでは重要では。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
余談:これについてはU先生の(直接的/間接的)応答を期待したいところです。
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csmt @cusumoto 2011年5月6日
余談:「悲劇の快」と引用「一体、人はどうして自ら進んで悲惨な物語やグロテスクな描写を進んで鑑賞するのだろうか」という点については、F君の(今後書かれるほずの)修士論文と多いに共通する部分があるだろうと予想するのでコメント期待。期待!
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s*** @KANAH0 2011年5月6日
業務連絡:@casiopo さん @tori_2501 さんにも読書会用論文が渡っています。おふたりは読書会自体には来られないようですが、勉強はしたいとのことなので主にオンラインでの参加となると思います。読書会で一区切りついたら別なページで継続的な議論の場を作れればと。よろしくお願いします。
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モダニストのつぶやき @moderniswitter 2011年5月6日
言葉を選んだつもりだった「本丸(カントやニーチェ)まで射程に入ってくるのはもちろんすばらしいけど、まずは」(5月1日)の表現が議論を委縮させる方向で機能しなければいいな、と途中、すこし心配したんだけど、杞憂のようやね。以上、togetterを概観して。>読書会参加者諸君
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月7日
6、常識的に考えて、いわゆる資本主義的な消費とか(イコールではないですが)記号消費とかいわれるものって、カントなら「関心」からくる行為というか、傾向性による行為の最たるもののように思うんですが・・・。なんか、どこかでねじれている気がする。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月7日
7、なんだろうこれ。そうすると、現代ではひとびとは[関心をもたずに芸術に接している]だから[関心をもって芸術に接している]みたいな。これこそパラドックス。後者が[関心をもって消費している]だとちょっと違和感なくなるのかな。ありますけどね。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月7日
8、考えられるのは、現代では(僕の米1で一応整理してますが)①「真理」概念が疑わしいものになっていること②「真理」のことを深く考えなくなっていることなどを根拠として、芸術がフィクションとして(=現実と関わらないものとして)受容され、それによって「悲劇の快」も抵抗なく消費されていることの指摘、という論の流れがあって、一方でカントの全く異なる論理の展開から「関心なき快」が導かれているのに、芸術のフィクションとしての受容、「関心なき快」による受容という部分が「構造的類似性」として一気に結び付けられているからかな
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月7日
9、それか、消費について言うときの「関心」と芸術の受容のときの「関心」とでは「関心」の意味(向けられている対象など)が違うのか。こっちの方がもっともな感じがするけど、しかしカントなら同じ「関心」や傾向性ということばが使われますねえ。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月7日
10、なんか僕がおかしなことを言ってるのかな。そんな気もします。けどまあ、結局カントのなにが批判されていたのかというのにもよるんですが(それがはっきりしなかったりします)、①体系的に美を論じたこと②現代の芸術の受容(フィクションとして、資本主義的消費…)が「カント的」であること・・①ならともかく、②なら現代が必ずしも「カント的」とは言えないかもしれない(=論の前提部分が危ういかもしれない)とか思ったりもします。
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モダニストのつぶやき @moderniswitter 2011年5月7日
推薦文献は、「関連する商品」という右側コラムに追加するのかな。どっちにせよ、読書会前日~当日の掲出では遅いだろうとは思うのだけど、事後のfurther readingに供するために何冊か、とは。 @KANAH0 上田先生からの推薦文献とかがありましたらぜひお伺いしたいです。
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
先の@cusumotoさんのコメント引用:「カントの先験論的方法とモダニズムの自己批判性との重なりから「カントを最初の真のモダニストだと考えている」*グリーンバーグが「美術研究者」ではなく「批評家」であり、その批評的背景がポロックをはじめとする作家と(何より)彼らの作品を実見したことにある、という点がここでは重要では。」>この点に関しては個人的にとても関心があります。それもかなりひねた関心があるので是非続きをききたいです。(読書会でなくても。)
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
というのも、私自身世にいうところの「芸術作品」に対して、見取れたり忘我の境地に至ったり、あるいはカタルシス的な<経験の終止符>たるようなものに未だに出会ったことがないからです。(極論、私はトリエンナーレやフェスを社会的政治的事象[記号]としか認識しておらず、個々の作品や展示に対しては特記すべき何かを感得したことがない、という自覚です。)「作品を観るには訓練が要る」のは、逆説的な意味として「訓練すらすればできる」と言うことです。しかし、そうではなさそうなのです。
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
少なくとも今日までは、そう言い切ります。そして、これが次の @die_Stimme くんが要っている<関心>に繋がる事柄であり、また美学の範疇として重要な項目をなす「経験」の問題に関わっているのではないかと考えます。(この文献がここで適当かは量り兼ねますが、個人的に著者の前後の文献も含めじっくり参考にしたいと思っているものの一つにブプナー『美的経験』があります。http://d.hatena.ne.jp/KANAH0/20110429/1304079277
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
@die_Stimmeコメント引用:「それか、消費について言うときの「関心」と芸術の受容のときの「関心」とでは「関心」の意味(向けられている対象など)が違うのか。こっちの方がもっともな感じがするけど、しかしカントなら同じ「関心」や傾向性ということばが使われますねえ。」>私は、この可能性は大いにあり得ると思いますし、<関心>についての研究はその差異を丹念に拾い上げていくところに重点を絞ってみても、その統計や考察の仕方で沢山の問と解が生まれるでしょう。
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
なぜそのような差異を見出していくことが重要か、ということについては例えば、現在(ジャーゴンで話すのであればフーコー以降と言ってもいいでしょう)では「間-主観」というタームをはじめ、主客の堺がもはや前提としては扱えないものであり、従って(例えばもっと先の@jinsnowコメントに共鳴するように応えるならば)ここにある欲望や感動が一体だれの所有するところのものなのかがわからなくなっているということです。
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
私たちは未だに「だれの所有するところのものか」という言語・文法でしか、欲望や感動、情動を語れないのです。(これは、他分野──たとえば言語学・(分析)哲学・現象学・社会[哲]学・人類学・進化生物学など──からも多様なアプローチがなされている問題であるため、美学的問題がそれらと接続する一つのキーポイントではないかと考えています。)そして、なかんずく美学(史)は<関心>のプロフェッショナルである、と考えています。
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
再度@die_Stimmeコメント引用:「①体系的に美を論じたこと②現代の芸術の受容*が「カント的」であること・・①ならともかく、②なら現代が必ずしも「カント的」とは言えないかもしれない(=論の前提部分が危ういかもしれない)」>故に、無論のこと、現代はカント以前でもカント時代でもカント以降でもない、ということろから始めるということが更なる前提、大前提というやつではないでしょうか。時代あるいは時間は可逆的か問題。大問題すぎるのでこの線の先はここでは割愛します。
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
論を戻すために再三度@die_Stimmeコメント引用:「①体系的に美を論じたこと②現代の芸術の受容*が「カント的」であること・・①ならともかく」>この路線はおもしろいのではないでしょうか。あるいは、先日上田先生が私に投げかけてくださった美学における構造の問題のお話をもっと訊きたいがため、と言ってもいいかな。それから、私自身の性分が@jinsnowが頭に思い描いているニーチェ的美の受容器官ではないが故、このカント的美学の系譜を構築してみたい、という絵に描いたような大志を抱いております。(笑いましょう!)
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s*** @KANAH0 2011年5月7日
論文執筆者 @jinsnow くんがでてこないので一先ず今宵はここまでにします。本文に補足、それからコメント欄に @cusumoto さんと @die_Stimme くんからのカキコミが寄せられています。加えて @moderniswitter 先生は参考文献を「関連する商品」に追加して下さるとのことです。@tori_2501 @casiopo @catchthefish
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モダニストのつぶやき @moderniswitter 2011年5月7日
あまのじゃくだから(か)、参考文献を記すにしても、素直に「良い本だから読むに値するゾ」ではない、「こんな問題点があるけど逆にあんな事態を映しだしてて興味深いゾ」式のコメントを付けたいタイプ。よって、挙げるとしても、すべてそのような文献と思われたし。
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s*** @KANAH0 2011年5月8日
なんとなく、当て所もなく追記:みなさんは、ダンディズムや蒐集家(私が言うところの澁澤龍彦やベンヤミン)と美学の関係について考えたことがありますか?
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モダニストのつぶやき @moderniswitter 2011年5月8日
ダンディズムが美学にとって重要な概念でないはずはありませんが、通俗美学以外では、阿部良雄のボードレール論以外に積極的な論及は知りません。 @KANAH0 …みなさんは、ダンディズムや蒐集家(私が言うところの澁澤龍彦やベンヤミン)と美学の関係について考えたことがありますか?
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______ _____ @catchthefish 2011年5月8日
先ずもって著者の方へ。たいへんお疲れ様でした。これは全く皮肉などによらないものです。というのも、身近な人が何かを書き上げたということは、読む快楽を起こしてくれるからです。しかし残念なことに、今の私は本文を読み下して言及できる状態にありません。また連休中に見ておきたいものを優先したので、今日の読書会に参加しないことを申し訳なく思っています。
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______ _____ @catchthefish 2011年5月8日
脱線させたのでだれか話題を戻して下さいな。
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______ _____ @catchthefish 2011年5月8日
” // 1968年の『物の体系』と1970年の『消費社会の神話と構造』の刊行をつうじて、同時代の消費社会を記号論的に分析し、そこではモノとサーヴィスが欲求の充足ではなくて際の表示のために「消費」されることに、いちはやく注目したのだった。その際、最初の著作が『物の体系』つまり「オブジェのシステム」と題されていたことが示すとおり、ボードリヤールが、社会とモノの関係を抽象的に論じるのではなくて、現代人の日常生活にあふれるモノの生態そのもの、つまりフォルムやデザインや色彩等々の要素までをふくんだオブジェ自体への
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______ _____ @catchthefish 2011年5月8日
関心から出発していることを忘れてはならないだろう。彼の最初の来日公演が、1973年京都で開催された世界インダストリアルデザイン会議(ICSID)の「デザイン:経済学と象徴交換のあいだ」だったことは、この点で印象的だ。そこで、オブジェを主体に奉仕する物質的な客体ではなくて「他のひとつの主体(シュジュ)のための主体」とみなすことを提案していた(『工芸ニュース』1974年3-4号、工業技術院製品科学研究所刊)”
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______ _____ @catchthefish 2011年5月8日
以前読んでいた本か論文のメモなんだけど、出典記載してない体たらくだったので思い出したらまた書き込みますね。
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s*** @KANAH0 2011年5月8日
@catchthefish あまり私が言えたことでもありませんし、(この場で)言うのも憚れるべきだとすら思いますが、敢えて言っておきます。私はそのような「為体」な振る舞いが決して社会に対する抵抗になっているとも思えませんし、ある時に周りで動いている人に対してとても無礼なことだと思います。礼節云々を除いても冒涜ですらあると感じる時があります。少し身の振る舞いを改めてはいかがでしょうか。(他のみなさまへ、本論とは全く関係ないことを書き記す無礼をお許しください)
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月8日
かわしまくん1→大筋では◎。論文理解とは関係ないですが、「みんな忙しすぎて」というのは単純すぎるのでないかと思います。考えたいのは「真理」というよりも「現実」でした。いずせよどんな時もどんな時代でも人は真に現実的な言葉求める。(個人的見解)なので、「真理」「現実」の見直しが絶対に必要だと言う事を言いたかったのかもしれません。
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s*** @KANAH0 2011年5月8日
更に本論に戻していただく必要がある様になってしまいました。ゴメンナサイ。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月8日
kanaho 自分の書いた過去の文章や作品を恥ずかしがる(ようにみえる)人がよくいますが、あれはなんだろう。作曲家は自作の旋律が手を離れてもなおを時空間共々深く聴かれることを望まないのかな? 大前提。これ重要。
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月8日
いやまあしかし先のMさんの引用箇所をうけて、[芸術作品への広い意味での(差異の表示やその内面化など含む)関心]と[芸術作品が含む「真理」あるいは「現実」への関心]を分けて考えることでなんとなく論旨が通る気がしてきました。※本論にあるように後者がカントが述べていた「関心」と一致するかは別として※開始約一時間前※僕は基本的に自分が書いたものは闇に葬りたいです
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月8日
※しかしそうするとニーチェの「関心」も違う意味になっちゃいそうです※どうもダチコーツクしてしまったようです
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月8日
つまり、[[芸術作品が含む「真理」あるいは「現実」への関心]≒[カントの言う(とJくんがみなしている)関心]がない(あるいは少ない)状況]≒[悲劇の快が問題にされないような状況]≒[現代的な状況]
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die_Stimme @die_Stimme 2011年5月8日
目的が①[カントを批判すること]か②[(カント美学の一部である)先に述べたような状況を批判すること]かによって主張は当然異なるはず。ニーチェ引用箇所(つまりJ君が賛同していると思われる箇所)を見る限り「関心」は[芸術作品が含む「真理」あるいは「現実」への関心]という意味よりもっと広い。目的が②であった場合、「[芸術作品が含む「真理」あるいは「現実」への関心]はないけど[別の意味での「関心」]はあるぜ?」は批判としてうまくいってない。
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内海仁一 @jinsnow 2011年5月9日
読書会の要点、1「美学/芸術哲学」 必ずしも適切ではないがカント/ニーチェはこの二つの分野の出発点であるといえる。これまでの日本の研究状況を踏まえながらその歩みを確認。(Uさん紹介の文献参照)2「関心」とは何なのか。(上記のTくん、Aさんのコメント要確認)訳語も含めて再検討必須。3(個人的に重要だったポイント)「言い切る事」の是非を巡って、言い換えると「それってどれくらいマジで言ってんの?」「コントじゃないの。」
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s*** @KANAH0 2011年5月9日
皆様、忙しい中の勉強会、お疲れ様でした。オフラインで参加できなかったのが残念ですが、私にとってもこのような機会を持てたのは、卒論に向かう大変充実した機会でした。またこれを引き継いだ場をオンライン専門管理者としてつくっていけたらと思っていますので、時間があるときにご参加ください。@cusumoto さんのお話も聴きたいのでそのうちお電話でもします。ありがとうございました。
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s*** @KANAH0 2011年5月11日
さっそくですが、続編について考えています。もし(オン/オフライン問わず)要望などがありましたらご一報ください。@moderniswitter @jinsnow @cusumoto @die_Stimme @tori_2501 @casiopo @catchthefish
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