- contractio
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ハイデガーなう。中世の真理定義 veritas est adaequatio rei et intellectus sive enuntiationis. 真理はモノと知性とのあるいはモノと言明との一致である。
2011-04-29 21:08:01真理は、モノと言明とのcommensuratioだというのは、なかなかライプニッツ的に見えたり見えなかったり。つまり、見えるものと見えないものとの比の問題だ、と。ということは重要なのはむしろ反対に、比の共役不可能性だということにもなるわな。
2011-04-29 21:09:46つまり、言えることと言えないこと、見えることと見えないことのあいだの構造的不一致を生み出す点が、反対に、それらの間の構造的一致の系列を秩序づけてるとか。ドゥルーズはそういう風に考えてたのはまあそうだろう。なるほど、ここから取りつくし法と微分か。
2011-04-29 21:12:04なるほど、ハイデガーがアレーテイア(隠れなきもの)という真理の語源を遡るのは、真理の語義を、隠れているものと隠れなきものとの対によって二重化するためだと考えれば、うまいなといわざるをえない。これ自体はハイデガーとは独立にいくらでも使いようがあるな。
2011-04-29 21:48:24p.13 「真なるものを非秘蔵的なものとして経験することのうちに、その秘蔵性における秘蔵的なものの経験が共に関与していなければならない。」 「問題」と「解」の二重性でおいらがドゥルーズ使っていってたこととほぼ同じだな。
2011-04-29 21:54:42「何がそもそもアレーテイアとギリシア人によって呼ばれているのか。それは、陳述や命題や認識ではなく、有るもの自身、自然と人間の作品と神の働きとの全体である。」 う~ん。自然の中に真理が内在するとおいらがいうときはつまり、こういうことだな。次の一節ももろかぶりだが、長いので省略。
2011-04-29 21:59:19ヘラクレイトス「自然は隠れることを好む。」 問いとは自然、あるいは自然の本質であるとおいらが言いたくなるとき、その気分はヘラクレイトスに確かに近い。
2011-04-29 22:13:45しかし、よくもここまで自分が思いついたことを絶対的なものとして正当化できるな。レトリックとしてはわかるが。ハイデガーはそれ以上の信念があるね。この点だけやはりついていけない。あと、起源の問題とね。
2011-04-29 22:29:36@Kn_D0 もちろん、カントもそのトマスの「真理」の定義(「物と知性とのaccurate な対応」)を批判するところから始めるのですが、トマスの意図というのは、私が認識しているものが本当に存在するのか、とかいったこととは違うのですね。
2011-04-29 22:43:51@Kn_D0 「物と知性の対応」というのは、何かを認識するということは、物の物質性が剥ぎ取られて、「形相」のみを知性の側で受けとることであり、かつ「知性とそれによって知られているものとは同じである」というアリストテレスの『霊魂論』の議論がもともとの問題で、アヴェロエスを経て、
2011-04-29 22:50:04@Kn_D0 トマスが、(何度も繰り返していますが)物→感性→知性という枠組みをつくり、その中で知性の対象とするのが「可知的形象」と呼ばれるもので、それを通して、知性が「物」の「本質」を知る、という構造なのですね。
2011-04-29 22:53:19@adamtakahashi ふむ。なるほど。そういわれると「一致」ということの具体的な中身がわかりますね。物と知性の一致というときに一番引っかかるのはその点で、結局なにが一致してるのかわからないのですが(本質的に物と言葉は異なりますから)、そう言われると解釈のしようが出てくる。
2011-04-29 22:55:23@adamtakahashi あ、わかると言ってしまうと語弊がありますが。僕自身としては、物と言葉の媒介になる部分として、「規則」と僕が呼んでいるある種の「切片性」みたいなものを考えているのです。カント的にはそれが図式になるわけですが。
2011-04-29 22:57:08@adamtakahashi この際なので聞いてしまいますが(何人かの先生に聞いてるのですが、まだちゃんと答えてくれた人がいないもので)、形相あるいは形式って何なんでしょうか?
2011-04-29 23:00:40@adamtakahashi 形式(形相)が何なのか、デカルトとかスピノザとかカントとかライプニッツとかいろいろ読んだんですけど、まだよくわからんのですよね。数学的な経験を媒介させるとなんとなく見えるのですが、哲学の本来の語義に近づくとまたぼやけてくるというか。
2011-04-29 23:02:54@Kn_D0 トマス的な枠組みでは、あくまで「知性」の対象は「物」の「本質」であり、その際に必要なのが「可知的形象」である、ということなのですね。誤解があるかもしれませんが、知性の対象が明確に「言葉」となるのは、アウグスティヌスに影響を受けた唯名論者からなんじゃないかと。
2011-04-29 23:05:10@adamtakahashi 了解。なるほど。そのへんは適当な感じになってましたというか、僕自身は、トマス的な枠組みで考えたくて、言葉的なものを知性にとっての二次的なものとして位置付けたいので、それでいいです。
2011-04-29 23:08:05@adamtakahashi あ、あとそうする(知性の対象は物)と、自分で考えてるときよく自己批判するのですが、そのときの知性って、人にわかるようにいるとすると何なんですかね?まあ「わかる」(つかまえる)ってことなんですけど、現代的には普通はそれを言語として解釈するじゃないですか
2011-04-29 23:10:19@Kn_D0 別にトマス至上主義ではなくて(笑)、ただカントの「真理」の議論でも、ハイデッガーの「存在」の議論でも、結局トミズム的なものが「反面教師」としてあることが忘却されているから、議論がおかしくなるな、と毎度思っていただけです。で、形相?
2011-04-29 23:10:21@Kn_D0 精度が低い説明で申し訳ないのですが、「形相」は、アリストテレスの『自然学』において、四原因の一つとして、『形而上学』において第一義的な subustance として、はたまた『霊魂論』においても登場する、という形でなんでも登場する。四原因というけれど、アリストテレス
2011-04-29 23:22:43@Kn_D0 が、それしか言わないかというと、『生成消滅論』とかでは、形相=(元素の)質みたいな話もするから、アヴェロエス→トマスの中で、どうアリストテレスの原因の議論を整理するかというのが、問題だったのです。で、
2011-04-29 23:24:17@Kn_D0 問題なのは、アヴェロエスは、形相の議論が出てこないところでも、「物=形相+質料(および、形相がない場合は、その欠如)」という構造をアリストテレスの議論に適用しようとしたので、その影響で、スコラ学者がいわゆる「実体形相&第一質料」という概念を作ってしまう。
2011-04-29 23:26:45@Kn_D0 こうして、「物」を「実体的形相&第一質料」という枠組みで説明しようというのが、たとえばトマスの『自然の原理』とかでも採用されている図式だよね。トマスにおいては、人間の substantial form といえば、「人間性」(という本質)であり、accidental
2011-04-29 23:29:16