表現活動は涸渇を知らない

いわゆる表現者のなかでは度々「ネタ切れ」ということが言われますが、表現活動を「内に溜め込んだものを外に出す活動」と見ればネタ切れもあると思うのですが、表現活動とはそのような活動なのではなく、表現はいつも外からの呼びかけに応える活動として、すなわち対話として生まれる活動であると思うので、表現というのはすればするほど内側が涸渇してゆくものではなく、むしろすればするほど新たなものと出会う活動であると思うのです。
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大角 康 @koukaku0811

表現活動は「インプットされたものがアウトプットされること」とみなされることが多いように思われますが、内に元々あったものを外に出すことは表現ではなく伝達で、伝達とは区別される活動としての表現とは、

2018-11-01 12:55:11
大角 康 @koukaku0811

内に元々あったものを手がかりにしつつ外に何かを作ってゆくなかで、自ずとそれを作る本人でさえも予期せぬものを生み出してゆくことであると思います。伝達において創作は虚偽となりますが、表現のなかでは創作はむしろなくてはならない要素であると考えます。

2018-11-01 12:55:12
大角 康 @koukaku0811

表現する者は必ず伝達もいたしますが、伝達する者は必ずしも表現するとは限らないと思うので、表現と伝達とを混同することは、実際には表現することまたは創作することを認めないことと同じであり、表現と伝達とが混同されているところでは、人間の心がいきいきすることはあり得ないと思われます。

2018-11-01 12:55:12
大角 康 @koukaku0811

伝達はそれを為す者の思索を前に進めはしませんが、表現はそれをなす者の思索を前へと進めてゆくと思います。ゆえに表現活動をしてゆく者は枯渇してしまうことがなく、いつまでも新鮮でいられると思うのです。 #伝達 #表現 #創作 #思索

2018-11-01 13:13:51
大角 康 @koukaku0811

作品を作ることは一般的に「頭のなかにすでにあったものが客観的に表現されること」とみなされがちですが、そうであれば作品を作る者にも記憶の幅に限界があるため、いつかは新たな物を作り得なくなります。しかし生涯に亘って新たな物を生み出し続ける無尽蔵な者もいるのであり、そのような twitter.com/nharuchikabot/…

2018-11-16 15:06:18
野口晴哉bot @nharuchikabot

人間の頭というものは、丁寧に使えば使うほど力が増える。あらゆる機会に、できるだけ多く頭を使って、骨惜しみしまい。 記憶の倉が満員になってしまったり、知恵を出したら減ってしまうようなことはない。出せば出るし、使えば増えるところに人間の 力の面白さがある。

2018-11-16 08:05:14
大角 康 @koukaku0811

底の知れない者は頭のなかにあらかじめあるものを表現しているわけではなく、その者にあっては、表現することは新たなものを探求することと同じであると思われます。探求が終わってから表現が始まるわけではなく、探求の開始が表現の始まりである者こそ、無尽蔵な者と言えるでしょう。その者は

2018-11-16 15:06:19
大角 康 @koukaku0811

表現してゆくなかで新たなものを見出すゆえに、表現すればするほど徐々にすり減ってゆくどころか、かえって益々膨らむゆえに無尽蔵であるのだと思いますし、そのような者の作品は、その者が表現することのなかで新鮮に見出したものであるからこそ、その者にとっても一つの驚きであることでしょう。

2018-11-16 15:06:19
大角 康 @koukaku0811

したがって、底の知れない無尽蔵な者は、作るたびに作品によって驚かされつつ生きる者だと言えるでしょう。

2018-11-16 15:06:19