かけがえのないものを忘れる時、私たちは現実を見る視力を失う

理論というのはかけがえのないもの、すなわち、他のものでは決して替えが効かず比較が意味を為さないものを、他のものとともに一般化したところに初めて成り立つものですが、しかしながら理論というのはあくまでも、かけがえのないものの現実の姿を見やすくするためのものであるはずなので、かけがえのないものをその姿のままに見ようと努力することで、初めて私たちは理論の価値を存分に発揮させられるのであると思います。 ゆえに理論を尊重し活かすことは、かけがえのないものを愛おしむ心とは切っても切り離しえないと思います。
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大角 康 @koukaku0811

人間関係や人間の内面を描く理論というのはあくまでも、自分の目の前にいる「その人」の心の動きを理解するための便利な道具にすぎないのであり、どんな理論もその枠内に当てはめる形で人を見ようとするや否や、もう目の前の「その人」を見えなくさせると思います。 どこまでも一般化しえないものを

2018-12-22 19:05:10
大角 康 @koukaku0811

孕むものだけが「かけがえのないもの」なのだと思いますし、固有名を持つことというのはかけがえのなさを有することだと思うのです。 何かに対して固有名を付けることは、他の物との区別を付けるための記号を割り当てることではなく、絶対に一般化することのできない特殊性をそのものに担わせること

2018-12-22 19:05:10
大角 康 @koukaku0811

だと思います。 人が生まれた時に名前を付けることは最も端的なその例ですが、犬や猫などのペットを飼う際においても私たちは彼らに名前を与え、以後その名前で呼び続けます。これは彼らを私たちが「犬」や「猫」といった一般的なものではなく、「リンタロウ」や「アンドレ」といった、そのものに固有

2018-12-22 19:05:10
大角 康 @koukaku0811

の名前を持った、かけがえのないものとして見るということの意思表示であると思うのです。ですので固有名を担ったいわゆるペットはその瞬間家族の一員となり、彼らを飼う者の人生の一要素となります。 日本の霊長類研究は世界的に見て非常に進んでいるそうですが、日本の研究者は海外の研究者が驚く

2018-12-22 19:05:10
大角 康 @koukaku0811

ほど、研究対象としている群れの猿の各個体を容易に判別するそうです。おそらく日本の研究者の多くは彼らを観察する際に、彼らをもはや「猿」という一般概念に包摂された「個体A」や「個体B」として見ているわけではなく、「フトシ」や「サクラ」といった、かけがえのないものとして

2018-12-22 19:05:10
大角 康 @koukaku0811

見ているのでしょう。それはもちろん研究のために行われる観察にはちがいありませんが、その時お猿さんは研究者にとって研究対象である前に、気になる友人であることでしょう。ゆえに彼らはお猿さんたちを一方的に観察しているわけではなく、双方向的に見合っていると言えるでしょう。 研究者自身が

2018-12-22 19:05:11
大角 康 @koukaku0811

お猿さんたちのなかに溶け込んで、お猿さんたちよりお猿さんと認められることによって、野生の姿そのものである生身のお猿さんの生態に触れることができるゆえに、日本の霊長類研究は進んでいるのであると思います。 それぞれの個体をかけがえのないものとして見るという、一般化とは正反対の見方を

2018-12-22 19:05:11
大角 康 @koukaku0811

為す者が、かえって多くの個体を一般化して論ずることを可能にする「理論」を多く提出するというのは興味深いです。 #カール・グスタフ・ユング の著作を読んでおりましても、彼がいかに真摯に患者様お一人お一人と向き合ったのかがひしひしと伝わってまいりますが、患者様を「症例A]、

2018-12-22 19:05:11
大角 康 @koukaku0811

「症例B」として見ることを戒めたユングが、かえって様々な理論を提出していることにも通ずることであると思います。 理論というのは物事を一般化いたしますが、しかしながら理論というのはかけがえのないものの姿を見えなくさせるためにではなく、見えやすくさせるために生まれるものであるという

2018-12-22 19:05:11
大角 康 @koukaku0811

ことは言うまでもないと思うのですが、そうであるとすれば、理論を生み出す者というのは、かけがえのないものをその姿のままに何とか見ようと苦心した人であることもまた言うまでもないのではないでしょうか。 理論を生み出した者の後に生まれた者よりしてみれば、理論が学びの初めから

2018-12-22 19:05:12
大角 康 @koukaku0811

用意されているわけですから、どうしてもその理論の枠組みのなかから物事を観察しがちとなるのはもはや仕方がないですし、またそれを活用しないというのもおかしな話となるわけですが、しかしそれでも私たちは、いつの世においてもかけがえのないものをその姿のままに見ようとするまなざしだけは忘れて

2018-12-22 19:05:12
大角 康 @koukaku0811

はならないと思うのです。このまなざしを忘れることさえしなければ、理論はきっと私たちが物を見る際の手助けとなってくれるでしょうし、逆にこのまなざしを忘れてしまえば皮肉なことに私たちは、理論に忠実であればあるほどかけがえのないものの真の姿を見逃してゆくという、逆説的な災難に見舞われる

2018-12-22 19:05:12
大角 康 @koukaku0811

でしょう。理論は地図にすぎないゆえに、まったく地図の通りに現実が広がっていると思い込んでしまうのなら、地図に似てはいるものの微妙に(時には大きく)異なる現実の世界の方を「現実的でないもの」とみなしてしまうのです。 したがって理論を活かすということは、理論の枠組みに忠実に物を見る

2018-12-22 19:05:12
大角 康 @koukaku0811

ことによっては成し遂げられず、あくまでも自分で現実の姿を見ようと苦心するなかでしか成し遂げられないと言えるでしょう。 理論はいつでも現実の姿を自分の眼で見ようと願う者の味方であり、それと同時に理論はまた、現実の姿を自分の眼によっては見ようとせずに、あらかじめ用意された便利な眼鏡

2018-12-22 19:05:12
大角 康 @koukaku0811

としておのれを利用しながら現実を見ようとする者を、かえって盲目にさせるものであるとも言えるでしょう。 理論は地図にすぎないという大前提を決して忘れない者だけが、現実の世界を自分の眼で見ながら歩いてゆくことができるのであり、その前提を忘れた時に私たちは、地図を見ることでかえって現実

2018-12-22 19:05:13
大角 康 @koukaku0811

を歩けなくなるのであると思います。 かけがえのない個別的なものを一般化する理論というものを活かす者は、逆説的にも、かけがえのないものの姿をありのままに見ようと願う者のみであると言えるでしょう。 かけがえのないものを忘れた時に私たちは、現実を見る視力を失ってしまうのです。

2018-12-22 19:05:13