Carlos Rodrigues(@fever7777)による「戦後政治史」【第八章】ニューリーダーとバブル崩壊(1987~93)竹下内閣から宮澤内閣まで

【参考】「戦後政治史」【第一章】http://togetter.com/li/108740 【参考】「戦後政治史」【第二章】http://togetter.com/li/109443 【参考】「戦後政治史」【第三章】http://togetter.com/li/113219 【参考】「戦後政治史」【第四章】http://togetter.com/li/113959 【参考】「戦後政治史」【第五章】http://togetter.com/li/123490 続きを読む
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fever7777 @fever7777

今回の戦後政治史では、いよいよ昭和から平成に年号が変わります。この時代はソ連やベルリンの壁が崩壊する時代で、世界的に冷戦の構図がまったくなくなりました。しかしその分、マスメディアが台頭し始めてきました… なお、文中は敬称を一切省略しています。

2011-05-01 19:22:19
fever7777 @fever7777

【バックナンバー1】第一章→ http://bit.ly/hqlRZS (1948年までの戦後のゴタゴタ時代) 第二章→ http://bit.ly/gKoPxf (日本の独立) 第三章→ http://bit.ly/eTJk9E (55年体制と日米安保の闇)

2011-05-01 19:22:50
fever7777 @fever7777

【バックナンバー2】第四章→ http://bit.ly/g8fZSJ (高度成長) 第四章補足→ http://bit.ly/e1Ezrd (子供の視点からの高度成長) 第五章→ http://bit.ly/dITthc (三角大福・前期)

2011-05-01 19:23:20
fever7777 @fever7777

【バックナンバー3】第六章→ http://togetter.com/li/125274(三角大福・後期) 第七章→ http://togetter.com/li/126825(新自由主義の萌芽)

2011-05-01 19:23:49
fever7777 @fever7777

【第八章】ニューリーダーとバブル崩壊(1987~93) 竹下内閣から宮澤内閣まで

2011-05-01 19:24:19
fever7777 @fever7777

1. 中曽根内閣の退陣が決まり、三角大福中時代は終焉を迎え、時代は竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一の「ニューリーダー」の時代に移行する。ポスト中曽根はこの3人の中から中曽根が指名することになった。これが「中曽根裁定」である。

2011-05-01 19:24:50
fever7777 @fever7777

2. 大方の予想では、中曽根は自分の影響力を温存させるため、安倍晋太郎を指名するものと見られていた。竹下派は数が多く敵も多かったため、竹下を指名しても中曽根は自らの影響力は保持することができない。宮澤では竹下・安倍の安竹連合の反感を買ってしまう。

2011-05-01 19:25:19
fever7777 @fever7777

3. しかし中曽根が指名したのは竹下であった。これには中曽根時代の幹事長であった金丸信への配慮が大きかったものと考えられる。1987年11月には、竹下登は内閣総理大臣に就任する。竹下・金丸は田中派の大半を集め分派していた。

2011-05-01 19:25:49
fever7777 @fever7777

4. 竹下と金丸は1985年2月に、田中派内に勉強会の創政会を結成、田中角栄が脳梗塞で倒れた後、1987年7月に経世会を設立し、派閥として独立した。しかし竹下が総理に就任してからは、一心同体と言われた竹下と金丸の関係に、次第に秋波が立つようになる。

2011-05-01 19:26:20
fever7777 @fever7777

5. 竹下派は専門家集団であり、田中派と同じような派閥構造となっていた。橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜、奥田敬和、渡部恒三は竹下派七奉行と呼ばれた。他に野中広務、青木幹雄、綿貫民輔、村岡兼造、鳩山由紀夫、岡田克也なども、竹下派所属であった。

2011-05-01 19:26:50
fever7777 @fever7777

6. 竹下内閣は「ふるさと創生事業」を行い、田中内閣のような地方活性化を狙った。そして、1988年には強行採決で3%の消費税導入を図る。さらには昭和最後の年である1988年にリクルート事件が発覚、竹下内閣は消費税とリクルート事件のダブルパンチを受けた。

2011-05-01 19:27:20
fever7777 @fever7777

7. そのような状況のなか、内閣支持率は3.9%となり、竹下内閣は1989年6月に総辞職した。しかしポスト竹下の有力と目された安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄などの有力者は、いずれもリクルート事件への関与が取りざたされており、後継とはなり得なかった。

2011-05-01 19:27:49
fever7777 @fever7777

8. ポスト竹下は、リクルートとの関連性が薄い宇野宗佑が選ばれる。サミットが近いため、外相であった宇野に白羽の矢が立ったとされているが、事実上は竹下の意向であった。竹下と宇野は関係が深く、宇野を押せば渡辺美智雄がいる中曽根派の分断を図ることができる。

2011-05-01 19:28:20
fever7777 @fever7777

9. このような経緯で1989年6月、宇野内閣はスタートする。派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めてであった。しかしすぐに宇野のピンクスキャンダルが報じられ、7月の参議院選挙で敗退。わずか69日で宇野内閣は退陣する。

2011-05-01 19:28:49
fever7777 @fever7777

10. そしてまた後継者選びが始まる。リクルート事件で有力者が謹慎中であることから、世代交代にならないような当選回数が比較的多い人物、清新なイメージをもつ人物ということが基準となった。そこで浮上したのが、河本派の海部俊樹である。

2011-05-01 19:29:20
fever7777 @fever7777

11. 1990年2月に海部内閣はスタートする。海部は河野洋平と並ぶほどの三木シンパであり、河本派のナンバー2としてネオ・ニューリーダーと称されていた。しかし海部は竹下派との距離が近く、「本籍竹下派」と呼ばれている。海部も竹下派の傀儡政権である。

2011-05-01 19:29:50
fever7777 @fever7777

12. しかし海部内閣の人事には、竹下よりも金丸の意向が強く反映されている。党幹事長には小沢一郎が抜擢され、リクルート事件後のねじれ国会となっている状況を、1990年の衆議院選挙大勝で打破してしまう。これ以降、小沢には「剛腕」のニックネームがつく。

2011-05-01 19:30:20
fever7777 @fever7777

13. 海部内閣の国民的人気は上々であったが、特に何かの政治的成果を挙げた訳ではない。湾岸戦争における経済的な協力や掃海艇派遣、天安門事件後の中国へ円借款を再開させたことにより、英米や中国からは評価される。しかし、国内では左右両サイドの人々から批判を受ける。

2011-05-01 19:31:04
fever7777 @fever7777

14. 海部の政策の目玉は、政治改革関連法案であった。しかし法案は審議未了廃案となり、海部は「重大な決意で臨む」と衆議院解散を暗示する発言を行った。これは政権のオーナーであった竹下派を激怒させた。また小選挙区制導入反対であったYKKが倒閣運動を開始している。

2011-05-01 19:31:35
fever7777 @fever7777

15. YKKとは山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎の3者の総称である。国民の支持率こそ高かったが、海部は党内では四面楚歌だった。海部は三木武夫のように政策論に強くはなく、小派閥の強みを活かすような立ち回りはできなかった。ここで権力は再びニューリーダーに戻ることになる。

2011-05-01 19:32:05
fever7777 @fever7777

16. 海部おろしの中、ニューリーダーの宮澤喜一、三塚博(安倍晋太郎死去に伴う派閥継承)、渡辺美智雄が総裁選への立候補を表明し、ついには1991年11月に海部内閣は退陣する。これはまさにバブル経済の崩壊の時期でもあった。

2011-05-01 19:32:34
fever7777 @fever7777

17. バブル経済は1985年のプラザ合意による円高の進行、大幅減税となる中曽根税制改革、国鉄用地払い下げなどに端を発する。株や不動産に一般人までもが投機に参加し、地上げなどが起こった。さらには海外不動産までを買収、空前絶後のマネーゲームが行われていた。

2011-05-01 19:33:05
fever7777 @fever7777

18. しかし土地や株などへの無理な投資の結果、1989年をピークに景気は下降局面となる。マクロ経済データでは1990年11月頃からバブルは徐々に崩壊、1991年には企業業績が悪化し始め、1992年には誰の目にもバブル崩壊が実感できるようになっていた。

2011-05-01 19:33:34
fever7777 @fever7777

19. さて1991年11月には宮澤内閣が成立する。宮澤は池田内閣時代から保守政治に参加しており、ポスト大平の呼び声も大きかったが、結局田中角栄に嫌われ、総理総裁をつかむことはできなかった。その反省からか、ポスト海部の時は、最大派閥の竹下派、特に金丸信に急接近する。

2011-05-01 19:34:04
fever7777 @fever7777

20. 宮澤は一六戦争と言われる田中六助との権力闘争の後、鈴木派を継承、宏池会会長となっていた。宮澤は「保守本流のエース」と呼ばれたが、竹下派の影響力が強く、PKO協力法、自衛隊カンボジア派遣程度の実績しか残すことができなかった。

2011-05-01 19:34:35