乙巳の変~蘇我宗家の滅亡。

駄文を適当にまとめました。
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倉梯柴垣宮伝承地。物部守屋を滅ぼした蘇我馬子によって推薦され即位した崇峻天皇の宮である。しかし実権は蘇我馬子が握り続けていた。 pic.twitter.com/j4E3dffYft

2019-01-06 08:21:26
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592年10月4日、崇峻天皇は笄刀を献上された猪の目に刺してこう呟いた。「いつかこの猪の首を切るように私が憎いと思う人物を切り殺したいものだ。」 この呟きは程無くして蘇我馬子の耳に届いた。 pic.twitter.com/WyC9xIchsk

2019-01-06 08:29:59
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崇峻天皇陵墓。592年12月12日、蘇我馬子によって放たれた刺客、東漢駒という人物によって暗殺された。 pic.twitter.com/VbNhjp91qc

2019-01-06 08:36:52
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赤坂天王山古墳。崇峻天皇の真墓とされる方墳である。東漢駒に暗殺された崇峻天皇はその日のうちに葬られたという。 pic.twitter.com/DITC6KcCTO

2019-01-06 08:43:36
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赤坂天王山古墳の家型石棺に葬られていたのは暗殺された崇峻天皇ということになる。家型石棺は盗掘を酷く受けており、石棺から殺された崇峻天皇の無念の声が聞こえてくるようだ。 pic.twitter.com/GWJumrJYBe

2019-01-06 08:47:58
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崇峻天皇を殺した東漢駒は崇峻天皇の女御を奪って自らの妻とした。その事に激怒した蘇我馬子によって東漢駒は殺された。その女御は馬子の娘だったのだ。 pic.twitter.com/aOWEvYwyTd

2019-01-06 08:56:02
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東漢駒を殺害したことで蘇我馬子による「大王殺し」は完成した。気持ち悪いくらいにうまくいった暗殺事件は何かしら知られていない真実があるのかも知れない。 pic.twitter.com/crk6FfY4d7

2019-01-06 10:10:37
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豊浦寺跡。推古天皇の豊浦宮の跡地に建てられた寺院である。崇峻天皇の死後、推古天皇は豊浦宮で即位したという。 pic.twitter.com/uUX0Azf7An

2019-01-06 12:46:30
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飛鳥寺。蘇我馬子によって建てられた氏寺。創立は崇峻天皇の頃だが、本尊が出来たのは605年、推古天皇の頃である。 pic.twitter.com/szovqCFBkb

2019-01-06 12:56:51
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伎楽伝来の地。朝鮮半島から伎楽という芸能が伝来したようだ。聖徳太子はこれを保護し、学校まで作ったという。 pic.twitter.com/VPM60LVkuY

2019-01-06 19:17:36
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盟神探湯。古代に行われていた裁判の一種。沸騰した釜に手を入れ、火傷するか否かでその者が嘘をついているのかどうか判断したという。 pic.twitter.com/ThbJcgppw0

2019-01-07 21:38:04
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甘樫坐神社。甘樫丘にある神社である。甘樫丘では盟神探湯と呼ばれる神明裁判が行われていた。 pic.twitter.com/gAGGd7D1J3

2019-01-07 21:32:27
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甘樫丘から麓を望む。この丘の麓に蘇我氏の邸宅がかつて存在したようだ。古代では甘樫丘周辺が日本の政治の中心地だったようだ、、 pic.twitter.com/FC1lVaKR23

2019-01-06 20:49:10
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小墾田宮推定地。628年3月、病床の推古天皇は小墾田宮に欽明天皇 陵の嫡孫の田村皇子と聖徳太子の子供の山背大兄王の2人を呼んだという。 pic.twitter.com/c9lNMIl6dS

2019-01-08 21:42:31
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法起寺。聖徳太子の遺言によって岡本宮跡地に山背大兄王によって建てられた寺院である。聖徳太子は622年に既に死去していた。 pic.twitter.com/1EasbSvpvK

2019-01-08 21:59:04
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叡福寺。聖徳太子の死後、聖徳太子の古墳の周りに推古天皇が御堂を建てたことを始まりとする寺院。 pic.twitter.com/BQdNehn6n3

2019-01-04 11:43:07
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叡福寺北古墳。聖徳太子が埋葬されたとされる円墳。石室内部は南北朝時代に高師泰によって略奪を受けた歴史を持つ。 pic.twitter.com/wYaVBH57PN

2019-01-04 12:52:56
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叡福寺北古墳の玄室は石棺が三基安置されている。被葬者は聖徳太子、聖徳太子の妃の膳部菩岐々美郎女、聖徳太子の母の穴穂部間人皇女の三人とするのが叡福寺の伝承である。 pic.twitter.com/VpQmA1opT3

2019-01-04 14:13:08
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駒塚古墳。聖徳太子の愛馬として知られる甲斐の黒駒の古墳であると伝わる。つまりこの古墳は馬の古墳である。 pic.twitter.com/v3eadEXADH

2019-01-13 07:28:28
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598年9月、聖徳太子を乗せた甲斐の黒駒は天高く飛び富士山を越え信濃まで飛んだ。しかし聖徳太子が死去すると甲斐の黒駒は太子の石棺に寄り添い、太子の石棺が墓に葬られるとこの名馬は後を追うようにして死んだという。 pic.twitter.com/OVjAXQMqsa

2019-01-13 07:36:47
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調子丸古墳。甲斐の黒駒の世話役だった調使麻呂という人物が葬られたとされる円墳。調使麻呂が生前に世話をしていたとされる甲斐の黒駒の墳墓、駒塚古墳よりも小規模な古墳である。 pic.twitter.com/ghl1FEOfKX

2019-01-13 07:48:48
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調子丸古墳から駒塚古墳を望む。調使麻呂の視点で考えてみると、世話していた神馬の方がでかい古墳なのは喜ばしいことだったのかもしれない。 pic.twitter.com/T1xDHTFrOo

2019-01-13 08:32:26
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物部守屋を滅ぼした実力者の蘇我馬子も626年に既に死去していた。蘇我馬子の死後、蘇我氏宗家は嫡男の蘇我蝦夷が後を継いでいた。 pic.twitter.com/JES2qXoaYw

2019-01-08 22:04:25
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石舞台古墳。蘇我馬子の墓だと伝わる。月夜の晩になるとこの古墳の石の上で女に化けた狐が踊ったという。この事から後世、この巨石は「石舞台」と呼ばれた。 pic.twitter.com/RhlQSCBh48

2019-01-13 10:45:12
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