小泉義之氏のブラウン『寛容の帝国』
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ウェンディ・ブラウン『寛容の帝国』を断片的に一国的に応用してみる。①〈LGBT〉の教育啓発は寛容の言説になっている。そこでは〈ヘテロは(本来的に)許容すべきものされ、LGBTは(本当は)許容しがたい野蛮の候補として印づけられている〉からこそ後者が寛容の対象とされている。
2010-12-26 17:15:01②寛容は、在日差別・LGBT嫌悪・民族憎悪を解いたり和らげたりするものではない。マジョリティヘテロ市民国民に、「無礼で、はた迷惑な他人の嗜好や趣味に耐えようとする意志」を流通させるものである。言いかえるなら、嫌悪や差別感情を内的に流通させるものである。
2010-12-26 17:15:38③「ほとんどすべての寛容の対象は、許容されることで、逸脱したもの、周辺的なもの、望ましくないものとして印づけられる。」(ブラウン『寛容の帝国』より)
2010-12-26 17:16:03⑤寛容の帝国は、感性の訓練、感情の教育、「マナーの改善」(ローティ)を勧める。貴族に対して、民草を前にしても優美に振る舞うように勧めることに似ている。それは君主・天皇の徳ではあろうが、市民の徳として、制度の徳として勧められる。
2010-12-26 17:17:08⑥どうして子ども・大人が「許容するよう」教育され啓発されるのが、LGBTでなければならないのか。どうして文化を異にする民族でなければならないのか。どうして外見を異にする人種でなければならないのか。どうしてマジョリティ・ヘテロ・日本・クールジャパンではないのか。
2010-12-26 17:17:41⑦「身体、歩き方、セクシュアリティ、しぐさ、心、知能、気質」の変わった人たちを寛容・許容の対象として許してあげましょう、そのコミュニティと文化を認めてあげましょうと教え諭すということ自体が異様ではないのか。何様のつもりなのか。
2010-12-26 17:18:14⑧可視的外見の違いがない場合、マイノリティの不可視化される(とされる)部分は、語の精確な意味で身体化・血脈化・人種化される。その寛容の帝国の下で、マイノリティ遺伝子を云々する帝国科学が成立する。
2010-12-26 17:19:00⑨多様なセクシュアリティ、多様なファミリー、多様な生殖方法、多様な子育て、多様な婚姻形態などをナイーヴに肯定するその構えこそが、寛容の帝国の下で許容されていることである。ここをどう考えるのか。
2010-12-26 17:19:34⑩西欧同化ユダヤ人が「下品で教養に欠けた非近代的な生活をしているとみなされた東部ユダヤ人との連帯を拒絶した」という有名な歴史的事実を想起せよ。今日「東部ユダヤ人」にあたるものは何か。それが規制・統治の対象となっている。ここをどう考えるのか。
2010-12-26 17:20:08⑪マイノリティの自称集団文化は、寛容の帝国では〈われわれは(リベラルな主体として)文化を選択し所有するだけだが、かれらは文化に所有され文化そのものである〉と見なされる。その文化・集団は狂信・野蛮・退行・権威的パーソナリティへの傾きがあると見なされる。そして再び寛容。
2010-12-26 17:20:57⑫ブラウン『寛容の帝国』もショーペンハウアー・フロイト・バーリンと同じ仕方で「ヤマアラシ問題」を論じている。相変わらず、ヤマアラシがいかに生殖するかに全く考え及んでいない。しかし現状を見るにつけ、ヤマアラシの生殖ネタで話を落とすわけにはいかなくなっている。
2010-12-26 17:21:29⑬「われわれ」は嵌められている。マルクーゼのいう「抑圧的寛容」以上の罠が張り巡らされている。以上、ブラウン『寛容の帝国』をあくまで一国民国家内部に写した限りで。(ある院生からLGBT授業教材例のコピーをいただいたことも以上の連投の一契機である)
2010-12-26 17:22:04ウェンディ・ブラウン『寛容の帝国』における中絶論争への言及はいい線を行っている。(ついでに記しておくと、この件で私はリバタリアンでプロライフである)
2010-12-26 17:22:29ウェンディ・ブラウン『寛容の帝国』第五章はイマイチ感があるものの、これくらいミュージアムの記述を密にしてやると何かが達成できそうな気がしてくる。ミュージアム研究の一つの模範になる。
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