飯野はなぜ「女性的ではない」をトランス女性や「男性のようにみえる」体をもつ人に書きかえるのか

〇これを見る限り #ともにあるためのフェミニズム #トランスジェンダーとともに は後付けにしか過ぎないのだとわかる 〇なぜならトランス女性は自称である場合を排除できないから 〇などという細かいツッコミは別としてフェミニズムがなぜともにある必要があるのかが欠落しているというのが致命傷。 〇しかも差別禁止法にのっかって利権を得たいためだけにすぎないのがバレバレ 〇こんな内輪受けの文章をありがたがる利権たかりの集団をフェミニストなどとは呼びたくないですね 続きを読む
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yuriko iino @yrkiino

研究センター勤務。専門はフェミニズム研究、ディスアビリティ研究。Facebook→ https://t.co/vbu1ExpjWk。その他、mastodonやthreadsにもいちおういます。

仁平典宏(Nihei Norihiro) @nihenori

今日です! 東大バリアフリー教育開発研究センターワークショップ「3.11後の日本と「ナショナルなもの」の氾濫−−選別され、序列化される生と身体」 p.u-tokyo.ac.jp/cbfe/030/2016-… 明戸、星加、飯田麻結、清水晶子、飯野由里子の各氏がご参加。小宮さんは病欠の模様。

2016-02-11 09:55:04
SHIMIZU Akiko(清水晶子)『フェミニズムってなんですか?』 @akishmz

【告知】公開研究会「道徳的保守と性の政治の20年ーLGBTブームからバックラッシュを再考する」、飯野由里子さん、遠藤まめたさん、山口智美さんをお迎えして、来週末(8/5 土)14:00〜 東大駒場キャンパスです。どうぞみなさまお越し下さいませ。 twitter.com/akishmz/status…

2017-07-30 11:32:21
SHIMIZU Akiko(清水晶子)『フェミニズムってなんですか?』 @akishmz

【イベント告知】公開研究会「道徳的保守と性の政治の20年—LGBTブームからバックラッシュを再考する」 2017/8/5(土)14:00- @東大駒場キャンパス|登壇者:飯野由里子、遠藤まめた、山口智美|詳細は goo.gl/BP6Hy5 どうぞお越し下さい。 pic.twitter.com/jYyhfDuBAk

2017-07-09 09:25:59
SHIMIZU Akiko(清水晶子)『フェミニズムってなんですか?』 @akishmz

8月に開催したバックラッシュとLGBTに関するイベントの報告概要がwezzyに掲載されました。遠藤まめたさん、飯野由里子さん(それぞれリンクあり)に続いて、山口智美さんのご報告です。選挙権をお持ちの方は投票前に是非ご一読ください。 wezz-y.com/archives/50467

2017-10-17 23:39:20
新教出版社 @shinkyoshuppan

『福音と世界』1月号ができました。特集は「生きるためのフェミニズム」。「フェミニズムは役割を終えた」とうそぶく時代に抗する渾身の特集です。寄稿は菊地夏野さん、栗田隆子さん、渡邊さゆりさん、飯野由里子さん、要友紀子さん、セイラン・アテシュさん(インタビュー)shinkyo-pb.com/magazine/ pic.twitter.com/1WnIEs18aW

2018-12-10 20:04:26
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@felice_japonica

@yrkiino バイブルハウス南青山で「福音と世界(1月号)」をネットで注文して読みました。 このところSNS上でのトランス女性への憎悪表現が増えていることにとても悲しい気持ちになっていました。 先生の記事に命をつなぐ仲間が沢山いると思います。 こころから感謝します。ありがとう。

2019-01-20 01:11:39
yuriko iino @yrkiino

わたしは「共に在るためのフェミニズム」というタイトルで、フェミニズムが大切にしてきた(はず)の視点とクィアとのつながり(のごく一部分)を取り上げてみました。その流れの中で、なぜわたしがトランス女性の排除・否定をフェミニスト的でないと考えるのか、その理由についても触れています。 twitter.com/shinkyoshuppan…

2018-12-13 11:33:52
yuriko iino @yrkiino

『福音と世界』1月号の特集「生きるためのフェミニズム」に寄せた原稿「共に在るためのフェミニズム––クィアとのつながりに目を向けて」をweb公開させていただきました。お時間がありましたらご覧ください。 note.mu/horry/n/n27767… #ともにあるためのフェミニズム #トランスジェンダーとともに twitter.com/yrkiino/status…

2019-01-19 13:06:59
だいき @daiki_soc

個人用アカウント。法政大学GIS助教、クィア人口学・階層論、ICU13 / Assistant Professor @hosei_gis, queer demography and stratification, @uw_sociology alum, he/him #timelesz #マリウス葉 ☸️🏳️‍🌈

https://t.co/QL6sLxmDUQ

だいき @daiki_soc

先ほどRTした飯野由里子さんの論文の中に、「現在の社会において、トランスジェンダーの人たちが社会的認知という面で、またそのことと深く関連して物質的・経済的にも不安定な位置に置かれやすいことは、多くの調査研究によって明らかにされている。」っていう一文があって、たった一文なんだけど、

2019-01-19 14:20:11
だいき @daiki_soc

もし仮に自分の研究が何かフェミニズム・クィア理論に貢献できるとしたら、理論系の論文でなされるこういう記述を社会科学の立場から地道にバックアップしていくっていう部分なのかなーと思った(自分自身はどちらかというと理論とか表象というより実証研究のしかも計量しか基本できない人なので笑)。

2019-01-19 14:20:11

堀あきこの該当NOTEは

  • 飯野のネット公開にあたっての前文(堀あきこが公開するにあたって書いたように見えるが、実は飯野自身の捕捉であろう)
  • 飯野の文章
  • 前文
  • 引用
  • 二元論批判
  • 分離主義批判

で構成されている

問題とされるのは公開にあたっての前文
(前略)
 自分の判断が間違っており、トランス女性に対する懐疑的・攻撃的なまなざしが増していること、またそれがインターネット上に限らないことに気づいたのは秋に入ってからでした。対面で個別のやり取りを重ね、誤解や偏見をほどく努力をする中で、一人のフェミニストとしてこの問題についてパブリックな場で立場表明をしておく必要があると強く感じるようになりました。また、フェミニズムとクィアの関係を考える上で重要な問題でもあるため、ちょうど執筆中だった『福音と世界』の原稿が、その場としてふさわしいと考えました。とはいえ、この時点ですでに原稿の4分の3ほどができあがっており、締め切りも近づいていました。フェミニストによるトランス女性の否定・排除への反対表明が「付け足し」のようになってしまっているのはこのためでもあります。
 また、原稿の中では、ツイッター上で流れていた具体的な言説を直接取り上げることはしませんでした。そこにはいくつかの理由がありますが、この原稿が出版される頃には事態が収束しているかもしれないと考えていたところもあります。しかし実際には原稿が出版された12月上旬前後から、トランスフォビックな言説はより激しさを増していきました。そしてわたしは、自分がまたもや事態を軽く見ていたことに気づかされたのです。同時に、インターネット上でも自分の立ち位置を表明し、差別的な発言が常態化しないよう働きかける必要があると考えるようにもなりました。今回、堀あきこさんの呼びかけに賛同し、この原稿を公開することにしたのはこうした経緯からです。
 最後に、原稿の内容について一点だけ補足させてください。原稿の中でわたしは、「女性だけの空間」からトランス女性を排除することに対し、基本的に反対の意を表明しています。その際、わたしが念頭においていた「女性だけの空間」とは、フェミニズムやレズビアンの運動にかかわる女性たちが特定の目的のもと、特定の関心をもつ人たちに呼びかけて作り出してきた空間(たとえばイベント等)のことであり、現在ツイッター等で焦点があてられているトイレや銭湯等、不特定多数の人の利用を前提とした、より公共性の高い空間のことではありません。
 わたしは、トイレや銭湯については、その性質と目的からして、必要な時に誰もが利用できる空間であるべきで、特定の人の利用をあらかじめ妨げることがあってはならないと考えています。もちろんこれは原則論で、実際には、たとえば安全が確保されていないという理由で、利用できない(=すでに利用を妨げられている)人たちがたくさんいます。こうした不均衡を是正することを目的に、誰かの利用を禁止するという手段がとられることも、場合によってはありうるでしょう。
 しかし、すでに多くの方が指摘しているように、トランス女性や「男性のようにみえる」身体をもつ人の利用を禁止・制限することは有効な手段でないばかりか、有害ですらあります。特定の身体や見た目をもつ人たちが危険なのではなく、特定の身体や見た目をもつ人たちを危険視し、公共空間からあらかじめ排除しておこうとする発想こそが危険なのだということに気づかなければなりません。こうした発想によってこれまで生み出されてきた数々の人権侵害を改めて思い起し、そうしたことを繰り返さない選択をすることが、この問題においても求められているのです。

共に在るためのフェミニズム−−クィアとのつながりに目を向けて

        飯野 由里子

 フェミニズムとクィアの関係をどう捉えるのかという問いに、一義的な回答を出すことは難しい。それは、その人がいつ、どのようにしてフェミニズムやクィアと出会ったのか、議論の焦点を理論的な関係に置くのか、それとも運動史的な関係に置くのかによって異なってくるだろう(1)。しかし、少なくともわたしにとっては、フェミニズムとクィアは分けることが困難なものであり続けてきた。それは部分的には、わたしとフェミニズムの出会いが、1990年代初頭のクィアの運動を介してだったことに関係している(2)。もちろん、わたしと同世代でなくても、フェミニズムとクィアの間に明確な区分を設けない人はたくさんいる。『男同士の絆』や『クローゼットの認識論』の著者として知られるイヴ・コゾフスキー・セジウィックもそのひとりだ。
 2000年10月14日、セジウィックの講演会がお茶ノ水女子大学で開催された(3)。(略)
 この講演の冒頭でセジウィックは、過去20年にわたり、彼女をフェミニズムやクィアの考え方にコミットさせてきた「要因」について次のように語った。

 振り返ってみますと、フェミニズムやクィア理論の領域にわたしを駆り立てた大きな要因は二つあります。(中略)
 その第一は、〔わたしが〕徹底した非二元論の思考習慣をもってきたということです。(中略)
 第二の思考習慣は、今の非二元論に密接に関係していることですが、もっと政治的な領域に移し替えたものです。わたしはどのような種類の分離主義にも、我慢がならない質です。(中略)どのような種類であれ、均質の集団を形成しようとする衝動は、わたしには政治的に退行的なものに、もっと言えば、人を知的に鈍化させるものに思えます(セジウィック 2000: 30)。

 当時のわたしは、セジウィックがあげた第一の思考習慣(非二元論的な思考習慣)とフェミニズム/クィアの関係についてはすんなりと理解できたものの、第二の思考習慣(反分離主義的な思考習慣)については釈然としない思いをもった。感情的な反発を覚えたといってもいいだろう。(中略)だが、18年経ってわたしの理解も少しすすみ、これら二つの思考習慣の関係は、フェミニズムとクィアの運動や思想のつながりを示す際の、ひとつの出発点になりうるのではないかと思うようになった。そこで本稿では、フェミニズムにおける二元論批判と分離主義批判の簡単な整理を通して、両者の関係に関する現段階でのわたしの理解を示したい。

二元論批判

 二元論とは、あるものが二つに分けられて、両者の間に確固とした二極的な区分が設けられている状態のことをいう。(中略)
 こうした二元論的思考には、大きく分けて二つの特徴がある。第一に、それは二つの実体の差異を拡張し対立的なものにするという特徴をもつ。(中略)第二の特徴は、対をヒエラルキーとして序列化することにある。つまり、二元論的思考においては、XとYは「違っているが、同程度の価値がある」とされるのではなく、Xの方がYよりも価値が高いとされる。したがって、Xの価値を維持するためには、Xの中に含まれているはずのYの要素を排除し続けなければならない。逆に、Yが自身の価値を高めるためには、Yは自身の要素を捨て去ってXの要素を積極的に取り込み、Xのようになっていくしかない。
 フェミニズムでは、こうした二元論的思考への批判が重要なテーマであり続けてきた。第一にフェミニズムは、二元論が多様な考え方、多様な人びと、多様な存在様式を固定的な二極に押し込み、わたしたちの間に存在する豊かさや複雑さ、複数性や異種混淆性を切り捨てがちだと批判してきた。第二にフェミニズムは、二元論では、価値が高いとされる側が男性性に、価値が低いとされる側が女性性に結びつけられがちだと批判してきた。たとえば、いまでも理性・客観性・自立といった概念は男性性に、感情・主観性・依存といった概念は女性性に結びつけられがちだ。さらに、そうした思考枠組みが、現実の女性たちが経験する不利益を正当化するために用いられたりもする(たとえば「女性は感情的で客観的ではないので、彼女の言い分は信用に値しない」など)。
 したがって、フェミニズムにとって二元論的な思考方法は、現実の把握の仕方として妥当でないばかりか、中立的で無害な考え方でもない。むしろ二元論は、すでに不平等で差別的な諸関係を前提にしている点で、偏っている可能性が高い。したがって、その無批判な使用は、社会の中にすでに存在している構造的な不均衡を再生産・強化しかねない。こうした認識があるからこそ、フェミニズム理論は、さまざまな二元論に積極的に挑戦し書き換えを試みてきたのだ(4)。
 実は「クィア」の運動や思想、理論も、こうした二元論批判の流れを引き継いでいる。(中略)フェミニズムの中には、それをフェミニズムの運動や思想の「基盤」を掘り崩すものとして受け止め、「クィア」の思想や理論に警戒する向きもある。
 しかし(中略)セックス/ジェンダーの二元論及び性別二元論が現実の世界の中で生み出している具体的な被害に目を向け、特定の人びとの生存を困難にしている現状の改善に参加することは、フェミニズムだからこそ、またフェミニズムであるがゆえに、挑戦しなければならない課題だということになる。

分離主義批判

 二元論批判がフェミニズムの基本的なスタンスとして共有されてきた一方で、分離主義とフェミニズムの関係はもっと複雑なものとして存在し続けてきた。フェミニズムの歴史を知っている人の中には、「分離主義」と聞くと真っ先に、ラディカル・フェミニストやレズビアン・フェミニストが実践しようとした分離主義をイメージする人が多いだろう。これは、女性の人生において長期間かつ広範にわたり、身体的、経済的、社会的、感情的・精神的に、男性や男性支配から直接的な影響を受けない(=分離された)生き方を模索しようとしたさまざまな取り組みのことを指す。とりわけ1970年代から1980年代には、女性だけの共同体(コレクティブ)が実際に人気を集めたとされており、そこでは女性の建築業者や女性の印刷業者などに仕事を依頼するといったことが意識的に行われていたという。
 しかし、フェミニズムにおける分離主義はそうしたものだけではない。たとえば、1960年代後半に女性解放運動(第二波フェミニズム)が登場した際には、運動の場で男性が議論の主導権を握り、その場を取り仕切ってしまうのを避けるため、議論や討論の場に関しては男性の参加を断るといったことが広く採用されたといわれている。こうした「議論の場を分ける」という意味での分離主義は、女性解放運動が男性優位・男性主導な運動に抗する新たな運動を展開し、独自の理論や指針、方法論を形成していくために必要な方法だったと理解するのが一般的だ。
 ところが、セジウィックは2000年の講演の中で、分離主義を「均質の集団を形成しようとする衝動」として捉えていた。もちろん、そうした評価を、完全な誤りとして無視することはできない。だが、議論レベルの分離主義の要点は、相対的に発言力の強い側にいる集団(男性)と弱い側にいる集団(女性)の間に存在する構造的不均衡が、議論の場において後者を萎縮させたり、後者の発言を過小評価したりしないようにすることにあったと考えるべきだろう(5)。
 また、フェミニズムの分離主義には、男性(や家父長制)からの分離だけではなく、「主流」のフェミニズムからの分離も含まれるという点を忘れてはならない。たとえば、非白人の女性や労働者階級の女性、障害女性や非異性愛の女性は、「主流」のフェミニズムの中で自分たちの問題がまともに取り上げられず、無視・軽視され続けていると感じたため、「主流」とは別の場を作り出すことで、自分たちの問題に取り組もうとした。こうした実践の中に、「均質の集団を形成しようとする衝動」がまったくなかったとはいえない。だが、それらについても、相対的に発言力の強い側にいる集団(「主流」に位置づくフェミニスト)と弱い側にいる集団(「周縁」に位置づくフェミニスト)との間の構造的不均衡によって、言論の機会が奪われたり、議論の場が歪められたりしてしまわないことに主要な狙いがあったと理解すべきだろう。
 さらに重要なのは、フェミニズムの「周縁」に置かれていると感じた女性たちによる運動と理論によって、フェミニズムの知見が鍛えられ、深められてきた、ということだ。もちろん、セジウィックが「わたしはどのような種類の分離主義にも、我慢がならない」と述べた時、また分離主義の事例のひとつとして「フェミニズムの分離主義」をあげた時、彼女が具体的にどのレベルの分離主義をイメージしていたのかはわからない。しかし、わたしには、どのような分離主義も「政治的に退行的」で「人を知的に鈍化させる」ものであるというセジウィックの批判は、やはり一面的に過ぎるように思える。少なくともフェミニズムにおいては、議論・言論レベルの分離主義は生産的な側面をもっていたはずであり、この点については肯定的な評価がなされてもよいはずだ。わたしが18年前の講演で感じた「釈然としない思い」の正体(の少なくとも一部)は、この点にあった。
 このように、フェミニズムの分離主義に対して、わたしはセジウィックほど批判的な立場をとっていない。だが、フェミニズムの中には、そのようなわたしにとっても賛同できない種類の分離主義があり、近年、その傾向が再燃しているようにも思え、強く懸念している。それは、トランスジェンダーの女性を「女性だけの空間」から分離(=排除)しようとする種類の分離主義だ。もちろん、そうした分離を求める理由の中には、たとえば「過去に性暴力や性被害を受けた女性の中には、同じ空間に『女性的でない(=男性のようにみえる)』身体があるだけで、自分の安全が脅かされているように感じる人がいる」など、場の目的や性質によっては一考の余地を残して置いた方がよいものもありうる。だが、そうした場合でもわたしは、そのことのみを理由に排除という方法を自動的に採用することには慎重であるべきだと考える。なぜなら、トランス女性に対する排除的な思考は、「生まれた時の性別」(6)のみを「正当」なものとみなすような前提を強化する一方で、その他の性別のあり方(たとえば、性自認にもとづく性別)の正当性を掘り崩す効果をもつからだ。したがって、そうした思考は、性別をめぐりわたしたちの間にすでに存在している多様性を結果的に否定してしまっていることになる。
 それだけではない。現在の社会において、トランスジェンダーの人たちが社会的認知という面で、またそのことと深く関連して物質的・経済的にも不安定な位置に置かれやすいことは、多くの調査研究によって明らかにされている。この事実を踏まえると、二元論的思考のもと、「生まれた時の性別」が女性でないことを理由にトランス女性を特定の場から排除することは、その人がすでに経験している不利益や不安定性を増大させる危険性がある。フェミニズムの二元論批判の視点からは、そうしたことは極力避けられなければならないし、少なくとも、排除によって生じる不利益の深刻さが、「同じ空間に『女性的でない』身体があるだけで、自分の安全が脅かされているように感じる」という女性の不安や恐怖と比べた時に、過小に見積もられないようにしなければならない。
 このように考えると、分離主義批判とは二元論批判を「政治的な領域に移し替えたもの」だとするセジウィックの整理が、いまなら腑に落ちるような気がする。社会の中にすでに存在している構造的な不均衡に注意を払わないばかりか、そうした不均衡のさらなる拡大につながるような思考や実践(たとえば、ここでとりあげたような二元論的思考や分離主義的実践はその一例だ)にわたしは批判的だし、その視点がわたしのフェミニズム/クィアの領域に対する(最近ではここにディスアビリティの領域が加わる)コミットメントを支えていると思っている。わたしにとって、フェミニズムとクィアを分けて考えることが難しい理由、あるいは分けて考える必要性をあまり感じていない理由の一端は、どうやらこのあたりにもありそうだ。

(1)わたし自身、フェミニズムとクィアの関係をめぐっては逡巡を重ねてきた。その一端は、拙稿(「『クィアする』とはどういうことなのか?」『女性学』15号、2008年、78-83)にも見ることができる。2008年時と比べると、現在のわたしは、自分の研究スタンスと「クィア」的なスタンスとの間に距離を感じなくなってきている。
(2)より正確に述べると、わたしはレズビアン・アベンジャーズ(The Lesbian Avengers)というグループを通してフェミニズムと出会った。このグループは、1990年代初頭に活躍したクィア・ネーション(Queer Nation)から派生し、「レズビアンの可視化」を目的にさまざまな直接行動を展開したことで知られる。なお、当時の出来事については拙著(『レズビアンである〈わたしたち〉のストーリー』生活書院、2008年)でもごく簡単に触れている。
(3)この時の講演の内容は、後に『現代思想』2000年12月号に掲載された。セジウィック、イヴ・K /竹村和子+大橋洋一訳(2000)「クィア理論をとおして考える」『現代思想』2000年12月号、pp.30-42を参照。
(4)こうした認識にもとづき、フェミニズムに理論でもっとも批判的に議論されてきたのが公私二元論だ。紙面の都合で詳細は省くが、そこでは、公私二元論が男性/女性の二元論に依拠することで、公的領域からの女性の排除に正当化してきたこと(たとえば、Carol Pateman. The Sexual Contract, Cambridge: Polity, 1988)、さらに、人が「自立した個」ではなく互いに依存して生きているという事実を隠蔽してきたこと(たとえば、岡野八代『フェミニズムの政治学−−ケアの倫理をグルーバル社会へ』みすず書房、2012年)などが指摘された。
(5)もちろん、この方法がどれほど有効に機能したのか、またどのような副作用をもたらしたのかについては別途検討する必要がある。
(6)より正確には、「生まれた時に割り当てられた性別」あるいは「生まれた時の外性器の形状をもとに判断される性別」というべきだろう。

堀あきこ HORI Akiko @horry_a

『福音と世界』に掲載された飯野由里子さんの論文、「共に在るためのフェミニズム」を、飯野さんの付記とともにネット公開しました。 #ともにあるためのフェミニズム #トランスジェンダーとともに note.mu/horry/n/n27767…

2019-01-19 11:23:42
堀あきこ HORI Akiko @horry_a

論文では、セジウィックの言葉からフェミニズムにおける二元論批判と分離主義批判の整理が行われます。フェミニズムでは二元論的思考への批判が重要なテーマとなってきました。二元論的思考は、構造的な不均衡を再生産・強化しかねないものだからです。 note.mu/horry/n/n27767…

2019-01-19 11:35:05
KOMIYA Tomone @frroots

「二元論批判」からフェミニズムにもある「分離主義」について考える飯野さんの論考。 ネット公開「共に在るためのフェミニズム」飯野由里子|note(ノート) note.mu/horry/n/n27767…

2019-01-19 11:39:41
green @green0932

ネット公開「共に在るためのフェミニズム」飯野由里子|堀 あきこ @horry_a|note(ノート) note.mu/horry/n/n27767…

2019-01-19 15:28:00
green @green0932

引用。 すでに多くの方が指摘しているように、トランス女性や「男性のようにみえる」身体をもつ人の利用を禁止・制限することは有効な手段でないばかりか、有害ですらあります。

2019-01-19 15:28:05
green @green0932

もはや「じゃ、なんで普通の男性はダメでトランス女性はいいんですか?」の世界じゃん。 なんで? なんでいいの? トランス女性って自称でしょ? 誰でも彼でもいつでもどんな時も「こんにちは、トランス女性です」と言えばトランス女性なんでしょ? 「あ、1分前にトランス女性になりました」ありかよ? pic.twitter.com/IZW4YIrOny

2019-01-19 15:28:10
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green @green0932

「男性のようにみえる」身体をもつ人の利用を禁止・制限することは有効な手段でないばかりか、有害ですらあります。 って、もはやトランス女性関係ないじゃん? あのさ?普通の男性はたいてい「男性のように見える身体を持つ人」だよ。その人たちに「女湯に入らないで」と禁止制限するなってこと?

2019-01-19 15:41:23
green @green0932

なんでこれで「先生」なの?

2019-01-19 15:41:27
green @green0932

ほんとやだ。 ブロックされてるから直接レスできないけど、してもまた即時ブロックだろ。答えられないだろう。

2019-01-19 15:42:20
green @green0932

「飯野由里子先生、堀あきこ先生と行く温泉ツアー」 応募資格は「男性のようにみえる身体を持つ人」

2019-01-19 15:52:43
green @green0932

引用。 すでに多くの方が指摘しているように、トランス女性や「男性のようにみえる」身体をもつ人の利用を禁止・制限することは有効な手段でないばかりか、有害ですらあります。 これ、誰にとって「有害」なの?

2019-01-19 15:54:56
green @green0932

あのさ、 「男性のようにみえる」身体をもつ人って、99%以上が普通の男性だよ? なんで普通の男性の女湯の使用を禁止・制限すると「トランスに害があるからやめろ」なんだよ? トランスに子どもでも誘拐されてんのか?

2019-01-19 16:11:58
green @green0932

飯野由里子先生は「『女性的でない』身体」と書いてるのに、なんで堀あきこ先生はわざわざ「『男性のようにみえる』身体」と書き直してるんだろう。なんか意図があるの?

2019-01-19 20:38:24