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京都・大阪の歴史旅2018

平安時代~幕末まで、京都と大阪の日本史に纏わる史跡を旅したレポです。出来事を詳しく解説する為、過去写真も一部交えています。
京都 日本史 平安 歴史 幕末 戦国
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♡もえぴょん♡日本史と手越くん♡ @MoeK20060408
本日から、無理やり関西出張の合間にねじ込んだ京都・大阪の歴史旅のツイを展開していきます(`・ω・´)キリッ いやー、我ながらよく師走のこの時期にぶっ込んだもんだ←他人事? では、いざ参ります・・・ #京都・大阪歴史旅 pic.twitter.com/J1DMPZQRjL
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晴明神社 (京都府京都市上京区晴明町806番地1) 言わずと知れた、平安時代の陰陽師・安倍晴明の屋敷跡が在ったとされる場所に建つ神社です。 境内には安倍晴明の座像や一条戻り橋を小さくしたオブジェや式神の像が在ります(´,,・ω・,,`) #安倍晴明 #平安時代 pic.twitter.com/HL668n5Fc8
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白峯神宮 (京都府京都市上京区飛鳥井町261) 白峯神宮は京都府京都市上京区に在る神社で、第47代 淳仁天皇と 第75代 崇徳天皇(上皇)が祀られています。 1156年7月29日(保元元年7月11日)崇徳上皇は保元の乱に敗れ、讃岐に流されその地で亡くなりました。その後、天変地異が相次いだ事から pic.twitter.com/byW5k2cHDp
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上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵(現:香川県坂出市)の前に上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立されます。 幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰める為、その神霊を京都に移すよう幕府に命じますが、自身もその後間もなく崩御。 pic.twitter.com/ttLa1TVBX7
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子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、1868年(慶応4年)御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建しました。 1873年(明治6年)には藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流され、その地で死去した淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀、 pic.twitter.com/5CmDApGVoY
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官幣中社とします。1940年(昭和15年)官幣大社に昇格し、神宮の号を許され白峯神宮と称し 現在に至ります。 崇徳上皇は和歌の名手としてもその名が知られています。 瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の    われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ 百人一首 第77番 崇徳院 pic.twitter.com/MDgBzKbtji
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~川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれ  る。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれて  も、いつかはきっと再会しようと思っている~ #京都・大阪歴史旅 #平安時代 pic.twitter.com/yQk4n6ojeq
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崇徳上皇御廟所 (京都府京都市東山区祇園町南側) 白峯神宮にこの場所が紹介されていたので、訪ねてみました。中には入れないので外側から撮影。 pic.twitter.com/QdjcTM5Gux
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ちなみに、江戸時代後期に上田秋成によって書かれた「雨月物語」には「白峯」という物語があります。 そこでは西行法師が崇徳上皇の怨霊と出会うお話が描かれています。ご興味のある方は是非ご覧になってみてください。
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紫式部と小野篁墓所 (京都府京都市北区紫野西御所田町) ずっとずっと訪ねたかった場所の1つ。私が日本史を好きになったきっかけの1つに紫式部の「源氏物語」があります。 紫式部は言わずと知れた王朝文学「源氏物語」の作者として知られる人物で、小野篁は平安時代初期の公卿・文人です。 pic.twitter.com/IUl8M2F0lV
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小野篁には昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府の閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が「今昔物語集」など、 平安時代末期から鎌倉時代にかけての書籍に紹介されており、小倉百人一首では【参議篁】として登場しています。 pic.twitter.com/mJ0sLnSEDc
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薩長同盟締結所縁の地 (京都府京都市上京区森之木町) 1866年3月7日(慶応2年1月21日)に近衛家別邸・御花畑屋敷で薩摩藩と長州藩との間で締結された薩長同盟。 坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の桂小五郎が6ヶ条の同盟を締結します。 #幕末 #京都・大阪の歴史旅 pic.twitter.com/NptfpQJkWF
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薩摩藩家老・小松帯刀邸で坂本竜馬を介して薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らと長州藩の桂小五郎らが結んだ薩長同盟ですが、問題の小松帯刀邸(御花畑御屋敷)がどこに在ったのか、確かな証拠はありませんでした。 pic.twitter.com/8PKTl0vnA2
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2016年(平成28年)新たな史料が見つかり、御花畑御屋敷はこの鞍馬口通りに在った事が確認されます。御花畑御屋敷の碑が建てられたのは「フランジパニ」という喫茶店の店先です。 屋敷は鞍馬口通 約90m、室町通 約60m、中町通 約140m面 約1800坪 という広大な邸宅だった事が判明しました。 pic.twitter.com/Nxf3DukomK
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応仁の乱 勃発の地 (京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495) 1467年(応仁元年)管領・畠山・斯波両家の家督争いと室町幕府8代将軍足利義政の後継問題に端を発した戦乱を応仁の乱といいます。 1467年2月22日(文正2年1月18日)に起こった上御霊社の戦場地に建つこの石標は pic.twitter.com/Uque6vcaZ3
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応仁の乱勃発を示すものです。京を焼き尽くすほどの争乱になり、戦国時代移行の原因となった戦乱ですが、その戦火の緒戦の火蓋が切られたのが この京都市上京区に在る上御霊神社です。 応仁の乱は1477年(文明11年)まで約11年間の長きに渡りました。 #応仁の乱 #京都・大阪の歴史旅 pic.twitter.com/VscYsjiPVm
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阿弥陀寺 (京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14) 京都市上京区に在る阿弥陀寺は京都御苑の北東の静かな住宅街の中に位置するお寺で、観光客が多く押し寄せるような派手なお寺ではありません。 しかし、この静かなお寺には重要な碑が建っています。 #京都・大阪の歴史旅 #安土桃山時代 pic.twitter.com/R0I2OvYXBg
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それは織田信長公本廟の石碑です。織田信長公の墓所は京都、大阪、愛知など各所に存在するものの その中でも比較的有名なのがこの阿弥陀寺の墓所です。 戦国時代の日本を揺るがした「本能寺の変」は天下統一目前だった織田信長公は何故、本能寺で討たれる事になったのか? pic.twitter.com/0L5IT5uwvt
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また 討たれた後はどうなったのかなど 日本史上、とても謎が多い事件であり、現在でも様々な説が唱えられています。 1555年(天文24年)阿弥陀寺は清玉上人が近江国坂本に創建したのが始まりとされ、その後 清玉上人が織田信長の帰依を得、上京今出川大宮に移転。 pic.twitter.com/X5bcuJbHQz
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本能寺の変の発生を知った時には、清玉上人は明智光秀の軍勢がひしめく本能寺の中で、いち早く自刃した織田信長公を発見、その遺骨または遺灰を密かに阿弥陀寺へと持ち帰り、供養したと伝わります。 また 山崎の合戦で明智光秀を討った羽柴秀吉が、織田信長公の葬儀を執り行おうとしました。 pic.twitter.com/eyP6RwxY97
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その際、遺骨(遺灰)が阿弥陀寺で供養されているという話を知り、清玉上人に対して引き渡しを求めたところ、清玉上人は秀吉が後継者としての地位確立を画策していると考え、秀吉の求めに応じなかったそうです。 これに激怒した秀吉は阿弥陀寺の寺領の一部を没収し、現在のこの場所(寺町通り)への pic.twitter.com/UyZNNkLM8C
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移転も行なわせたと言われています。阿弥陀寺の本堂には織田信長公と息子・信忠公の木像が安置されています。 しかし こちらの木像は普段は非公開となっており、毎年6月2日(本能寺の変が発生した日)に信長公・信忠公を供養する法要(信長忌)が執り行われる際に、一般公開されているそうです。 pic.twitter.com/l671CparW6
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京都守護職屋敷跡 (京都府京都市上京区藪之内町) 1862年(文久2年)京都守護職の上屋敷は京都の治安を守るために設置され、現在跡地は京都府庁庁舎が建っています。 守護職に就任したのは会津藩主・9代藩主松平容保。当時結成された新撰組も京都守護職の傘下に入っていました。 pic.twitter.com/BTL3oYf8rW
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当時、京都の治安維持は京都所司代や京都奉行所が担当していました。しかし尊皇攘夷運動の激化により、日本各地から多くの浪人が京都に流れ込み 乱暴狼藉を働いたり暗殺が横行するなど 治安が極度に悪化したため、幕府が新設したのが京都守護職だったのです。 pic.twitter.com/cTKnv3swEo
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守護職に就任した松平容保は当時27歳でした。会津藩は財政窮乏を理由に一旦は断りますが、福井藩主・松平春嶽の説得でやむなくこれを承けます。 会津の藩兵のみでは手薄のため、当時浪士組から独立した新撰組を「会津藩預かり」という形で傘下に組み入れ、治安維持に活用したのです。 pic.twitter.com/193a5dxl9Q
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