事実と評価の二分論について

@babel0101 さんによる「事実・評価の二分論」に関するツイート
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anonymity @babel0101

法学部に入ると1年生で,「事実と規範は峻別しなければならない」という事実・評価の二分論を法学の講義で教わると思います。大多数の法律学者・実務家は,この事実・評価の二分論をほとんど自明視しており,この大前提を争う余地はほとんどありません。

2011-05-04 14:45:01
anonymity @babel0101

「正しいことをしたければ,偉くなれ」ではないですが,事実・評価の二分論を疑いたければ偉くなってからでしょう。「事実・評価の二分論を疑っていること自体,お前,法学が全く分かっていないな」と言われちゃいますね。まあ,それが今の世の中です。

2011-05-04 14:47:45
anonymity @babel0101

「人は正しいものを強くできなかったために,正しいものを強くしたのです」(パスカル?)。また,「正義なき力は無力ですが,力なき正義もまた無力なのです」(アバン先生?)。人は正義に基づき行為するだけではなく,それに力も与えなければならない。正義を為し,正義に力を与えるのが法律家です。

2011-05-04 14:55:56
anonymity @babel0101

まあ,ともあれ法律家がリーガルな文書に正義はともかく力を与えるためには,事実と規範の二分論に依拠する必要がありそうだ,ということです。

2011-05-04 14:58:39
anonymity @babel0101

ただ肝心の事実・規範の二分論がどういう内容なのか,というところまで大学の講義では踏み込んで話してくれないことは多いでしょう。分かりやすいのは,民法学者の大村敦志先生が主張している二分論や,アルトゥール・カウフマンの主張している事実と規範の相応化論でしょう。

2011-05-04 15:00:55
anonymity @babel0101

大村先生やカウフマンの著書をロースクールの自習室で読んでいた頃が懐かしいですなあ(遠い目)。両先生の事実・規範の捉え方は,民法学と法哲学(ラートブルフの弟子なので刑法学をモデルにしているのかもしれませんが)と分野は異なれど,ほとんど一緒のものです。

2011-05-04 15:02:37
anonymity @babel0101

両先生の立場を勝手にパラフレイズしてしまうとこんな感じです。①事実と規範の二分論は一応峻別し②規範選択の過程で,複数の規範群(X1,X2,X3・・・)の中から特定の一つの規範を選択決定し,③事実認定の過程で,複数の事実群(Y1,Y2,Y3)の中から規範に即応する事実を選択決定する

2011-05-04 15:05:43
anonymity @babel0101

複数の規範群から特定の規範を選択するXの過程と,複数の事実群から特定の事実を選択するYの過程は,密接不可分であって切り離すことはできません。規範選択過程と事実選択過程は「視線の往復」をするのであって,両者を切り分けられないと考えるのはむしろ当然のことでしょう。

2011-05-04 15:07:16
anonymity @babel0101

アルトゥール・カウフマンの場合,このような規範選択・事実選択の作業を通じて,事実と規範がだんだんと相応化していき,一つの法的結論に達するのだと考えています。

2011-05-04 15:08:26
anonymity @babel0101

この考えを支持するかはともかく,司法試験においては,このような「事実と規範の相応化」をイメージするとわかりやすいところがあります。

2011-05-04 15:09:24
anonymity @babel0101

例えば,猿払事件の判例を一つ読んでみても,複数の規範があります。猿払基準においては,終局的審査基準は「合理的で必要やむを得ないものでなければ違憲」という合理性のテストを越えて必要性のテストにまで踏み込んだ厳格な審査を行っているかにみえます。

2011-05-04 15:12:50
anonymity @babel0101

しかし,猿払基準ではさらにもう一歩事実に肉薄した段階で,①目的の正当性,②目的と手段の合理的関連性,③利益衡量の3つの基準を用います。この3つの審査基準はあくまで「合理的で必要やむを得ないか」否かを判断するための判断要素であり,終局的審査基準ではありません。

2011-05-04 15:14:40
anonymity @babel0101

まあ憲法判例を読むにあたって難しいのは,どれが終局的審査基準なのか,ということでもあるんですけれど。猿払基準であれば「合理的で必要やむをえない」という基準が形式的には終局的な基準にはなっていますが,実質的には猿払三基準へのあてはめで実質的な考量は終了しており,

2011-05-04 15:16:21
anonymity @babel0101

価値判断の終局的決定は終わっていると見ることができるのではないでしょうか。だからこそ,「合理的で必要やむを得ない」という厳格な基準を用いているので表現の自由の違憲審査基準として猿払基準は正当だ,という議論に納得がいかないのでしょう。

2011-05-04 15:17:59
anonymity @babel0101

実際には猿払三基準は,合理的関連性のテストとも目されるし,アドホックな利益衡量論とも評価されるように,実際上の価値判断の終局性を三基準においているからです。で,話を戻すと,判例は規範選択の過程においても,猿払基準に見られるような「中二階」の規範を設定することをよくやるわけです。

2011-05-04 15:20:32
anonymity @babel0101

「合理的で必要やむをえない」という終局的・抽象的基準から,「中二階」の規範である猿払三基準への一段どっこいしょと階段を下りるわけです。この議論のやり方の正当性はともかく,大村先生やカウフマンの事実・規範の二分論からすると,こうした判決の書き方は極めて「リーガル」なわけです。

2011-05-04 15:22:08
anonymity @babel0101

憲法学が苦心しているのは,憲法という規範の側面から,どれぐらい憲法学的な規範統制を行えるか,という点でしょう。憲法側の論理からどこまで事実に肉薄して事実に迫った規範を導いていけるか,事実を統制する規範の論理を提供できるか。

2011-05-04 15:23:48
anonymity @babel0101

憲法学者の関心事は,憲法的な規範統制をどれだけ憲法が提供できるかにあります。他方で,実務家の視点からすると,事実認定の過程は極めて重要です。司法試験ではそこまで重要視されませんが,司法修習,実務では証拠から適切なプロセスで事実を認定し,「あてはめ」をする訓練を徹底的に行います。

2011-05-04 15:27:15
anonymity @babel0101

ここから先は私の個人的な哲学観の話ですが,法時間論との関係では,規範は未来に,事実は過去に住処を置いているように思います。過去と未来が現在において結実する,それが法解釈であり,法実践だと思っています。未だ来る価値を現在の私が解釈し,過去に起きた事実を証拠に基づき現在に復活させる。

2011-05-04 15:30:06
anonymity @babel0101

ただ司法事実は過去に住処を置きますが,立法事実は過去的要素と未来的要素を併せ持つのでこれが難しいです。アリストテレスの三分類によれば,立法は未来,司法は過去,行政は現在を司ります。

2011-05-04 15:31:40
anonymity @babel0101

裁判所が司法権とともに違憲立法審査権を与えられたとき,裁判所には本来過去の司法事実しか認定する力を与えられなかったのが,立法事実という予見的で未来的な事実を認定する権限をも与えられてしまったのですね。

2011-05-04 15:33:37
anonymity @babel0101

したがって法令審査を行うための違憲審査基準は,憲法的規範統制を未来的な観点から行うように現在の解釈者に強要するだけではなく,事実認定の過程においても立法事実という未来的・予見的事実を認定することをも強要することになってしまったのです。

2011-05-04 15:34:56
anonymity @babel0101

したがって法令を違憲審査基準を用いて審査する際に,規範選択の過程のみならず立法事実の選択過程で価値判断が伴うことは自明です。特に司法事実ではなく,立法事実の場合,その価値判断は過去の証拠から過去の痕跡を辿り過去に起きた事実を確定するという,できる限り脱価値化した事実認定ではなく,

2011-05-04 15:42:30
anonymity @babel0101

立法府類似の予見的・未来的な事実の認定が要請されてしまい,それゆえに法解釈者の職責は重くなります。

2011-05-04 15:43:28
anonymity @babel0101

裁判所が司法事実のみならず立法事実を扱うのはそれゆえ極めて立法府の権限を侵す可能性が高いゆえに危険であり,自制すべきだとの議論が出てくるわけです。未来的・予見的な立法事実の認定は,裁判所ではなく立法府が行うことであり,法律家的ではありませんし,リーガルでもありません。

2011-05-04 15:44:57