深夜だから言うんですけど、私、ここ最近知った「海水と血液を入れ替える実験」みたいな話めちゃくちゃ好きなんですよね……。実験自体がそもそも実際に行われた話なのかは別として、常識で考えて生きているはずがないものが生きていた記録がある、みたいなホラー味のある話にグッと来てしまう
2019-02-11 02:30:38もしも私の隣の席の子が、にこにこしながら「小さい頃、すごく重い病気にかかったことがあるの。血を入れ替えないと死んでしまう病気で……だけど代わりになる血が、どうしても見つからなかったんだって」「――その時から私の血は、海の水なのよ。」とか言ってきたりしたら一発で好きになってしまう……
2019-02-11 02:34:07――弓野さんの血管には、きれいな海水が流れているのだという。ぼくは弓野さんの隣の席だったから、技術家庭の時間に彼女が彫刻刀で怪我をしたのを見ていたのだ。細くて白い人差し指の先からは、涙のような透明の雫がこぼれていて、誰にも秘密よ、と前置きをして、彼女はそんなことを言ったのだった。
2019-02-11 02:54:05そんな話を聞いたものだから、その日からぼくは、弓野さんの細い首筋とか、色素の薄い瞳とかを見るたび、どうにも落ち着かない気分なのだった。弓野さんはいつもにこにこ笑っていて、びっくりするくらい皆に優しくて、胃の傷だか潰瘍だかで入退院ばかりの、ろくに授業にも出れないぼくにも優しかった。
2019-02-11 02:57:21「弓野さんには、どうして海水が流れてるの?」一ヶ月もそんな状態が続いてしまって、たまらなかったので、ぼくは聞いた。優しい弓野さんなら、そう聞いても怒らないと思ったのだ。「血と入れ替えてしまったのよ。私、6歳くらいの頃にとても重い病気にかかったことがあって……そうやって、治したの」
2019-02-11 03:01:11「すっかり、全部?」「うん」――本当なら、とても驚くべきことだ。体に流れる血を全部入れ替えてしまって、生きていけるものなのだろうか。それとも弓野さんの海水はきれいな海水だから、ずっと平気なままでいるんだろうか。すぐ近くで話している弓野さんの吐息がかかって、ぼくはとても混乱していた。
2019-02-11 03:05:46そんな体だからなのか、弓野さんは海の話をよくした。「朝焼けできらきら輝く海が見たいねえ」「南の遠くに、砂の底まで透けて見える海があるのよ」「西中くんもいつか行けるようになるといいわ。一緒に行きましょうね」――病弱なぼくを何度でも気にかけてくれるのは、クラスでは弓野さんだけだった。
2019-02-11 03:10:17そんな日々が嬉しかったせいで、ぼくは失敗をした。どうにも体がだめだと分かっているのに、その日は無理をして登校したのだ。弓野さんと一緒の班の調理実習があるからだった。「……西中くん、大丈夫?」やはり弓野さんは、真っ先に心配してくれた。二時限目の終わりには、ぼくはもうフラフラだった。
2019-02-11 03:13:47「保健室にいくよ」フニャフニャした感じで笑って、ぼくはいつも通りに保健室まで向かって……そんなぼくを、弓野さんの細い体が支えた。「大丈夫だよ」さっきも答えた言葉を、もう一度言った。「こほっ」咳が出た。違う。僕の胃が裂けて、また血が溢れたんだ。ビシャビシャと、口から黒い血が流れた。
2019-02-11 03:16:16「西中くん」弓野さんは悲鳴に近い声をあげた。ぼくが朦朧としていると、彼女は迷わず制服の袖をまくった。とても健康な、きれいな肌が、肩まで見えていた。――私の中には、海の水が流れているから。ぼくは、彼女に聞いた言葉の一つを思い出している。――だから、一度だって病気なんてしたことないのよ。
2019-02-11 03:19:38「今、助けるからね」そして、彼女はとても優しい子で。「弓野さん!」ぼくは叫んでいた。自分でも驚くくらい、恐怖の声だった。「な……何を、しようとしたの?」「えっ……」弓野さんは、点滴みたいな管を自分の肩に刺していて……そしてもう一方の針を、僕の体に。「たすけて、あげようと思って」
2019-02-11 03:21:54「ごめん」いつもにこにこと笑っていた弓野さんが、初めて泣きそうな顔をした。「弓野さん、あの」謝ろうと思った。助けてくれようとしたのだ。自分の海の水を使って、僕の悪くて汚い血を入れ替えてくれようとしたのだ。分かっていた。「……ごめんね」弓野さんはもうそう一度言って、走って消えた。
2019-02-11 03:23:37それから2日間病院で過ごして、ぼくは憂鬱な気持ちで通学路を歩いた。頭の中にぐるぐると回るのは、弓野さんと、彼女から聞いた海の話と、最後に見た、泣きそうな顔ばかりで。だからぼくの爪先が何かを踏んづけたのにも、後から気付いた。「……なんだこれ」ミミズのような、虫のような、何かだった。
2019-02-11 03:26:22その奇妙な生き物に、見覚えがあるような気がして――とても小さな頃、おじいちゃんと釣りにいった時のことに思い当たった。「ゴカイだ」さらさら。ざわざわ。そんな音が聞こえる。上の空だったぼくは顔を上げて、初めて通学路のありさまを見た。さらさら。ざわざわ。
2019-02-11 03:30:01小さな、虫みたいなカニがかさかさと散っていった。ヒルみたいな生き物が、冬の風に乾いて張り付いていた。タコか何かの、たくさんの足をもつものもいた。海なんてとても遠くの、内陸のこの街の通学路のそこかしこに、そんな生き物の群れが、さらさらと、ざわざわと、うごめいているのだった。
2019-02-11 03:32:18それは一つの路地の影から散らばっているようで、ぼくは恐ろしく思いながら、何があるかを確かめずにはいられなかった。――ぼくは、生き物がわき出している、狭い側溝の中を覗いた。さらさら。ざわざわ。ずっと、頭がくらくらするような潮の匂いがして、悪夢みたいだった。ぼくは呻いた。「弓野さん」
2019-02-11 03:35:09――弓野さんがどうして死んでしまったのか、誰にもわからなかった。先生が彼女の家に行った時には、中の家財はずっと前から全部水浸しで、とても人が生活していたとは思えない状態だったのだという。本当はそんなことはなくて、子供のぼくたちを納得させるための嘘だったかもしれないと思うことがある。
2019-02-11 03:40:00いつもにこにことしていて、健康で、穏やかだった弓野さんのことを、今でも思い出す。彼女の体に流れていたきれいな海の水は、どんなにきれいだったのだろう。けれど……もしもあの日、ぼくに針を刺したせいで、きれいで澄んだ彼女の水に、ほんの少し、ぼくの濁った血が混じってしまっていたとしたら。
2019-02-11 03:43:21――あの日を境にぼくの体は嘘みたいに回復していって、倒れたり、入院したりするようなことはなくなった。たとえば、南の遠くの、砂の底まで透けて見える海を見に行けるくらいに。弓野さんのことを思い出すたびに、彼女の海はどんなに素敵だったのだろうと思う。
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