カントの伝達可能性と共通感覚について 延長戦
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こないだのセミナーで議論になった、第三批判の「伝達可能性」について。「認識が伝達されるべきであるならば、その心理状態〔調和と比例〕も普遍的に伝達されなければならない。〔……〕しかし、このこと〔調和と比例によって認識が生じること〕は現実に起こっているのである」§21。
2011-05-05 22:53:45こうしてみると、伝達可能性はあくまでも「伝達された」という事実によって確認されるもので、予めその権利を保証される訳ではないよね。伝達可能性の条件は、共通感覚だが、共通感覚自体、理念として前提されるもの。つまり、伝達可能性は理念のそのまた上に乗ってる何やらふわふわしたものってこと。
2011-05-05 23:04:29§21は改めて読んでみても、やはり難しい。共通感覚が分析論の最後のブロックに位置されていること、演繹論で再度取り上げられていることも併せて考えてみなくてはならない。
2011-05-06 11:21:48引き続き第三批判の「伝達可能性」について。今度は演繹論から。「趣味とは、(概念の媒介なしに)所与の表象と結合した感情の伝達可能性Mittheilbarkeitを、アプリオリに判断する能力である」§40。§21にせよ§40にせよ、共通感覚と伝達可能性はセットで論じられる。
2011-05-07 07:02:06それはつまり、概念に媒介されないにも関わらず、普遍的に妥当するとはいかなることか、という問題。概念に媒介されるなら、伝達する必要もない(予め普遍性は保証されている)。とはいえ、伝達されうるためには、何らかの共通性が必要。そして、それは共通感覚という理念として要求される。
2011-05-07 07:10:26伝達可能性のためには、何らかの意味で共通していること(全く異質なら伝達しようがない)と何らかの意味で共通していないこと(全く同じなら伝達する必要がない)が必要だ。そこでカントが持ち出すのが、共通感覚sensus communisという、何だかよく分からないものな訳だね。
2011-05-07 07:14:58こないだの質疑応答では、結局、この伝達可能性を保証するものは、最終的には「人間性Menschheitを共有していることだ」という答えだったと思うけど、カントの「人間性」というのが結局よく分からないからなあ。『基礎付け』にも出てくる、例のアレでしょ、という。
2011-05-07 07:22:36@sskyt 伝達可能性の層について。38節の読み方によっては、可能な認識一般に必要なものが、判断力の形式的な原理、と読める。この認識一般というのが、判断力批判の頻出語句の一つで、序論の記述とあわせると、この形式的な原理というのを、カントは論理的、美的の両方に共通のものと
2011-05-07 08:02:22@sskyt みていたのかもしれないです。それをもとにして、ひとは共通感覚の理念へと飛びうる、と。 伝達可能性を保証しているのは、たしか、ひとが共通の認識能力を有している、ということだ、と答えたとおもいます。そこから、共通感覚へ飛ぶことには、おそらくなんらかの人間性が必要とされる
2011-05-07 08:07:17@sskyt のではないでしょうか。その人間性の内実はつめられるとこまでつめないとおけないと思います。
2011-05-07 08:10:35@hiro09ma 「伝達可能性を保証しているのが共通の認識能力だ」というのは、21節のこと? だとすると、こないだも指摘したように、「認識が伝達される(べき)ならば」という条件節だと思うのだけど。
2011-05-07 08:14:52@sskyt 38節です。ここは確かに「なくてはならない」論法が続出しているんですけど、何らかの認識が成立していることを認めるなら、~なければならない、という形で言われていると思います。そうなると、客観的判断をみとめているひとは、美的判断においても伝達可能性を認めなくてはいけない
2011-05-07 08:27:43つまり、認識能力レベルでの話と、そこから実際に要求に向かう際に理念としての話と、この二つの段階が分けられて考えられているのかな、と思っていたのです。
2011-05-07 08:33:26ここは演繹論では趣味判断の演繹について記述されている箇所で、記述の内容として前半部の共通感覚論を受けているように思われる、ということから、それを前提にして勝手に共通感覚の議論に組み込んで読んでしまっていた。
2011-05-07 08:38:21@hiro09ma つまり、認識能力の普遍性によって伝達可能性は保証されていて、実際の伝達によって理念としての共通感覚に向けて努力する、ということですか。
2011-05-07 08:47:26@sskyt そう考えていました。可能性、というレベルでは保証されているからこそ、実現にむけて努力しうる、と。
2011-05-07 08:49:41@hiro09ma 仮にそうだとすると、21節の「伝達可能性は共通感覚を前提とする」と合わないような気もするし、あまり認識能力の普遍性を強く読みすぎると、そもそも伝達する必要ないじゃん、て思うんだけど。勿論、38節の注に美的判断力は間違えることがあるから……と留保がついてるけど。
2011-05-07 08:51:48@sskyt 後者に関しては、概念によっては規定されていないし、その判断力のはたらきを人は快によってしか判断できないので、確かめ合う必要が出てくる、という話かと思います。前者に関しては、結局循環するようにも見えるのは事実ですよね。
2011-05-07 09:00:20カントの反省的判断力の射程はいかほどだろうか。第一序論にみいだされるのは、対象を規定することなく、ということ、表象と認識能力との間でなされる、ということである。
2011-05-14 06:33:08『基礎付け』における人格/人類性Menschheitの区別を重視し、人類性を第一批判の「超越論的人格性」および第二批判の「道徳的人格性」と同一視する。和辻の「カントにおける「人格」と「人類性」」は非常に面白いし、勉強になるが、現在のカント研究では、どう評価されているのだろうか。
2011-05-13 16:58:55和辻の人格/人類性=超越論的主体性の話は、伝達可能性と共通感覚論にとっても重要。つまり、共通感覚とは人格に共通な超越論的主体性の感覚であり、その限りで理念である。とはいえ、各人格は経験的な主体でもあるから、伝達する必要があり、その伝達可能性の条件は、人類性によって担保されている。
2011-05-14 13:26:33和辻の「カントにおける「人格」と「人類性」」は、第一・第二批判しか扱っていないが、「共通感覚」を通じて第三批判にも敷衍できる。さらに、このように考えれば、伝達のアポリア(伝達できるためには何らか共有していなければならないが、予め共有しているなら伝達する必要がない)も避けられる。
2011-05-14 13:56:16sensus communis の二重性とでもいえるかもしれませんね。「共通の感覚」を持つためには、超越論的に「共通の感官」を有していなくてはならない。共通の感官が共通の感覚を担保している。 ちなみに、和辻は第三批判に著作で全く触れていないけれど、ご指摘の点も含めて親和性が高い。
2011-05-14 15:32:18