Carlos Rodrigues(@fever7777)による「戦後政治史」【第九章】55年体制崩壊と非自民連立政権(1993~94)細川内閣から羽田内閣まで

【参考】「戦後政治史」【第一章】http://togetter.com/li/108740 【参考】「戦後政治史」【第二章】http://togetter.com/li/109443 【参考】「戦後政治史」【第三章】http://togetter.com/li/113219 【参考】「戦後政治史」【第四章】http://togetter.com/li/113959 【参考】「戦後政治史」【第五章】http://togetter.com/li/123490 続きを読む
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fever7777 @fever7777

今回の戦後政治史では、長く続いた55年体制が崩壊した細川連立内閣を中心にみて行きます。小選挙区制が導入され、1.5大政党から二大政党+αという枠組みになって行きます。とにかく非自民の政権を振り返ってみることにしましょう。なお、文中は敬称を一切省略しています。

2011-05-08 19:38:03
fever7777 @fever7777

【バックナンバー1】第一章→ http://bit.ly/hqlRZS (1948年までの戦後のゴタゴタ時代) 第二章→ http://bit.ly/gKoPxf (日本の独立) 第三章→ http://bit.ly/eTJk9E (55年体制と日米安保の闇)

2011-05-08 19:38:45
fever7777 @fever7777

【バックナンバー2】第四章→ http://bit.ly/g8fZSJ (高度成長) 第四章補足→ http://bit.ly/e1Ezrd (子供の視点からの高度成長) 第五章→ http://bit.ly/dITthc (三角大福・前期)

2011-05-08 19:39:10
fever7777 @fever7777

【バックナンバー3】第六章→ http://togetter.com/li/125274(三角大福・後期) 第七章→ http://togetter.com/li/126825(新自由主義の萌芽)

2011-05-08 19:39:44
fever7777 @fever7777

【バックナンバー4】第八章→ http://togetter.com/li/130259 (ニューリーダー時代)

2011-05-08 19:40:04
fever7777 @fever7777

【第九章】55年体制崩壊と非自民連立政権(1993~94) 細川内閣から羽田内閣まで

2011-05-08 19:40:40
fever7777 @fever7777

1. 1993年の「嘘つき解散」で、野党の提出した内閣不信任案に同調した羽田派は自民党を離党し、新生党を結党した。同時に内閣不信任案には反対した武村正義らは新党さきがけを結成することになる。そんな中、総選挙で脚光を浴びたのは細川護煕率いる日本新党であった。

2011-05-08 19:41:05
fever7777 @fever7777

2. 細川護煕は肥後藩主だった細川家の子孫であり、通称「殿様」と呼ばれていた。朝日新聞記者から参議院議員に転じ、1983年から91年までの2期、熊本県知事を務める。知事退任後に日本新党を結成、全国区で参議院議員に当選している。1993年総選挙では、衆議院に鞍替えを果たした。

2011-05-08 19:41:35
fever7777 @fever7777

3. 細川の日本新党のビジョンは、自社の1.5大政党制を解体し、政権交代可能な二大政党制を定着させることであった。総選挙では細川は、政治改革と地方分権を訴え、無党派層の支持を大いに集めることとなる。総選挙の結果は、次の通り自民党が過半数を大きく割り込んだ。

2011-05-08 19:42:05
fever7777 @fever7777

4. 定数:511議席。内訳は、自民党:223、社会党:70、新生党:55、公明党:51、日本新党:35、民社党:15、新党さきがけ:13、社民連:4、共産党:15,無所属:30。

2011-05-08 19:42:35
fever7777 @fever7777

5. この選挙結果を踏まえ、新生党は速やかに社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合の各党派と連立政権を樹立することで合意した。ただ、これでは過半数に足りず、キャスティングボートを日本新党と新党さきがけの二党が握ることになった。

2011-05-08 19:43:05
fever7777 @fever7777

6. 新党さきがけの武村正義は、元滋賀県知事で、細川護煕とは懇意にしていた。武村は細川を巻き込み、自民党との連立政権樹立を画策していた。当時から新党さきがけは、自民党のガス抜きのための別動隊だと見る向きも多かった。なお現在のみんなの党も、同じ性格だと言われている。

2011-05-08 19:43:35
fever7777 @fever7777

7. ここでウルトラCを画策したのは「剛腕」新生党代表幹事の小沢一郎である。そもそも小沢および新生党の政治改革案は、日本新党の改革路線と酷似している。加えて細川には国民的人気があった。小沢は細川の説得に成功、結局新党さきがけも日本新党に引きずられて行った。

2011-05-08 19:44:04
fever7777 @fever7777

8. 1993年8月、ウルトラCによる8党派連立の細川内閣が樹立される。細川首相は、史上初の公選知事経験者総理、吉田茂以来45年ぶりの衆議院議員1年生の総理、片山哲以来46年ぶりの閣僚経験ゼロの総理、と異例の大抜擢であったと言える。また内閣支持率は空前の70%を超えた。

2011-05-08 19:44:35
fever7777 @fever7777

9. 第二章に示したが、我が国には「憲政の常道」という不文律があった。首班は第一党の党首であること、というものであり、細川連立政権は政治学者などからは「憲政の逸脱」「ガラス細工」「8頭立ての馬車」と酷評を浴びた。細川内閣は、55年体制も憲政の常識も打破したのだ。

2011-05-08 19:45:05
fever7777 @fever7777

10. 細川内閣の閣僚は、武村官房長官、羽田副総理兼外相、山花政治改革担当相、石田総務庁長官、大内厚生大臣、江田科学技術庁長官、と連立与党の各党首を入閣させた。8党連携は、小沢一郎と公明党書記長・市川雄一の「一・一ライン」が推進力となった。

2011-05-08 19:45:34
fever7777 @fever7777

11. 細川内閣の功績は、政治改革法案の成立であった。与党側は、小選挙区・比例代表(全国単一)各250・2票制(小選挙区・比例各1票)の小選挙区比例代表並立制の選挙制度改革を主張した。これに対して自民党は、小選挙区300・比例代表(都道府県単位)177・1票制を主張した。

2011-05-08 19:46:05
fever7777 @fever7777

12. 与野党の折り合いが難しくなったため、与党は10月に与党原案を衆議院通過させた。しかし参議院では、可決の目処が立たなかった。1994年1月には社会党の一部造反もあったが、細川と河野洋平自民党総裁のトップ会談で妥協案が成立することになった。

2011-05-08 19:46:35
fever7777 @fever7777

13. これにより、改正公職選挙法、改正政治資金規正法、政党助成法などの政治改革四法が3月4日に成立をみて、細川や旧自民党改革派の悲願は達成されることになった。この政治改革が、後の郵政選挙や政権選択選挙に大きな影響を与えることになる。

2011-05-08 19:47:05
fever7777 @fever7777

14. 細川は引き続き、景気対策や地方分権などの懸案に取り組む意欲を見せた。2月には細川は、赤字国債脱却のためのための国民福祉税構想を発表する。これには、武村や社会党が猛反発、細川は連立与党内での求心力を大きく失うことになってしまった。

2011-05-08 19:47:35
fever7777 @fever7777

15. さらに野党自民党は、細川の佐川急便からの借入金処理問題を国会で厳しく追求していた。細川は当初、武村の更迭、内閣改造で難局を乗り越えようとしたが、社会党が連立離脱をちらつかせたため、断念。4月25日には総辞職してしまう。

2011-05-08 19:48:05
fever7777 @fever7777

16. 細川内閣の功績は、自民党が長い間手を付けられなかった政治改革の道筋をつけたということ、および自民・社会の1.5大政党政治の悪癖を打破したということ、の2点にあると言える。しかしながら細川の指導力には疑問が残る。結局、細川は8党派のリーダーとしては力不足であった。

2011-05-08 19:48:34
fever7777 @fever7777

17. 連立与党内では小沢vs武村の激しい抗争があった。小沢は剛腕で政治改革法案の成立に尽力したのに対し、途中から武村は細川との距離を置きはじめた。当時から武村を「自民党・経世会のスパイ」と見る向きも多かった。さらに武村は社会党の村山富市・新委員長との接近を図る。

2011-05-08 19:49:04
fever7777 @fever7777

18. さて細川内閣が総辞職した1994年4月、自民党、共産党を除く各党派が、新生党党首の羽田孜を国会で首班指名し、羽田内閣がスタートする。新党さきがけと自民から離党した新党みらいは、閣外協力となった。

2011-05-08 19:49:35
fever7777 @fever7777

19. 細川政権総辞職後に、小沢は自民党の渡辺美智雄に多数の同調者を引き連れて合流すれば首相に擁立すると持ちかけていたが、渡辺に自民党から同調する者は少なかった。これにより、渡辺擁立は失敗に終ったため、羽田の総理就任となったのである。

2011-05-08 19:50:05