- JunNakagawaWork
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読書は、文字を一々辿り、判断し納得し、時に反論しながら、作家の描いた(或いは、思想家の論ずる)世界を再現する労をとることであって、この労力の速度は The Internet が普及した現代でも変わりはないでしょう。
2019-02-17 07:51:52私は書物を少なくとも三読しなければ批評しない事にしています。そして、三読しても黙っている他はない様な卓絶な書物もあります。たとえば、「哲学探究」(ウィトゲンシュタイン)や「正法眼蔵」(道元)がそういう書物ですが、そういう書物は数十年読んで来て未だに半分くらいしかわかっていない。
2019-02-17 07:52:28私の読書範囲は、殆(ほとん)ど文学・哲学・数学に限られているので、広範ではないのですが、しかも、読破してきた冊数も少ないけれど、「文は人なり」という ことば がある様に、私が書物を読むのは、好きな作家や尊敬する思想家と「対話」したいがためです。
2019-02-17 07:53:00したがって、その作家・思想家の代表作とか凡作とかという世評は気にもしないで、その作家・思想家の作品を出来る限り数多く (出来れば、全集を)読みます。作家・思想家の人物像が感じられるまで読み込む。
2019-02-17 07:53:33作家・思想家の知・情・意が文として現れたのだから、再びその作家・思想家の知・情・意に返す様に読めばいいのだし、そういう読書法には確実な法がないでしょう。
2019-02-17 07:54:05読書では時に思い違いもするけれど(普段の生活において、友人との つきあい でもそういう事は時に起こるのだから、書物を読んで思い違いすることも起こり得ますが)、「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方」(小林秀雄)が「文は人なり」の意味でしょうね。
2019-02-17 07:54:41私の若い頃の読書法は、そうではなかった──濫読して、それぞれの作品の中で、私のためになる文のみを拾う読書法でした。しかし、私は、それが悪い読書法だったとは思わない。
2019-02-17 07:55:20生身の人間とつきあうには、色んなつきあいかたがあるでしょう、それは読書でもそうでしょうし、つきあいが広範であれば、友人や尊敬する人物と巡り会える機会が増えるのは確かです。そして、そういう体験をして来て、やがて書物を書物として読むのではなく、それを書いた人物に感応する様になる。
2019-02-17 07:55:52作文では、「過剰」な装飾は推敲を通して削ぎ落とされるのでしょうね。他人事な言いかたですが、実際 私は推敲を殆どやらない。職業作家なら推敲を当然ながら重ねるでしょうが、私は文を綴って生計を立てている訳ではないので、本職の間隙に感想文を綴っているのであって、丁寧な推敲をする暇がない。
2019-02-24 13:36:21それでも、文を出来る限り正確に綴ろうという意識は持っています。作文に関する限り、正確に綴ろうという意識(物事を凝視して、自分が観た事を自分の印象として忠実に綴ろうとする意識)があれば、「過剰」な装飾を作為しないのではないか。
2019-02-24 13:37:04対象を見失った時、言い替えれば、自分の印象のみに依存した時、「過剰」な装飾が這入り込む危険性があるのでしょうね。というのは、そういう時には「概念」に酔いやすいので。
2019-02-24 13:37:33「概念」に直に近付く道はないでしょうね、「概念」は常に事象・事物を手がかりとしています。事象・事物が思考の重石になっている。言いかたが誇大であるかどうかという事は、事象・事物と対比しているから判断できるのでしょう。
2019-02-24 13:38:06しかし、他人(読者)の視線を意識した時に、自分が鋭いと思われたいために見栄を張って、筆がついつい滑るのではないでしょうか。私も、若い頃、そういう体験を嫌と言うほどしています──若い頃に執筆した拙著は読み返すに堪えない。
2019-02-24 13:38:35言い訳になるかもしれないのですが、そういう体験を通して、他人に色目を使う事を馬鹿らしいと思う様になってはじめて 文を正確に綴る(言い替えれば、正確に考える)事を学ぶのではないでしょうか。
2019-02-24 13:39:06