【西楚覇王】項羽の『戦が強いだけの、脳筋バカ』というイメージは作られたものだった! Wikipedia記事を通じて、項羽のマイナスイメージの真相に迫る!【四面楚歌】

漢文や中国史、有名声優によるゲームキャラクターなどで有名な項羽(項籍)という歴史人物がいます。紀元前3世紀に活躍し、秦の始皇帝が立てた秦王朝を滅ぼした、世界史の教科書でもあげられている人物と思われます。 しかし、この項羽の人物像は長年、誤解させ、『戦争が強いだけの、ただの残酷な乱暴者』というイメージがネットのみならず、世間でも流布しています。 これは、相当に公正な歴史書とはいえ、元々から項羽にとって不利な記述が多い『史記』にある悪いイメージが、拡大解釈や敗者である項羽を悪者とする創作作品の影響によって拡大されたものです。 そのため、多くの人の目に触れ、自由に編集できるwikipediaですら、きちんとした出典もなく、その先行したイメージによる記述がなされ、長年、改変もされないままでいました。 続きを読む
覇王 コメント欄が長い 史記 漢書 Wikipedia 楚漢 漢文 項羽
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hanesui @hanesui
@sweets_street @my_birthday0128 年齢を重ねてくると楚漢史についてもまた違った見え方になってきます。項羽の評価はあまりにも紋切り型すぎるかなとは思い始めてます。 最終的には敗者である以上、敗因分析はいかようにもなってしまいます。劉邦が負けていれば、同じように彼の人間性が敗因として上がったでしょうね。
hanesui @hanesui
@mamesiba195 楚・漢時代を俯瞰的にみると、ほぼ下克上と割拠の嵐であり、漢統一後も反乱はあらしの如く起こっていました。政争は「生き残るか」「滅ぼされるか」であり、あの時点では勝敗を読むのは難しい面もあります。後世からみると「愚かしく」見える部分もありますが、それは結果論かなとも思います。
まめ @mamesiba195
@hanesui >後世からみると「愚かしく」見える部分もありますが、 >それは結果論かなとも思います。 私もそう思います。秦兵を殺さねば反乱で項羽たちが殺されたかもしれません。咸陽を焼かねば、兵たちの不満が爆発したかもしれません。関中を統治したら、楚で義帝が項羽討伐軍を編成したかもしれません。
まめ @mamesiba195
@kikennakitarou いいですよね! 厨二! 項羽は調べるほど、 項羽は武勇だけだよね→戦術もすごくね→身内や部下にも優しいよね→意外と人の言葉に耳を傾けているよね→非難されることもちゃんと理由があるよね→戦略も悪くないんじゃ と、史書や学説のお墨付きを得つつ、段々と評価があがることも魅力です。
危険な鬼太郎 @kikennakitarou
@mamesiba195 項羽がした歴史的に悪い事は咸陽を燃やしたことぐらいですからねw 中々資料が無くなるのは歴史好きからは悲しいものですw 歴史が曖昧になったことで妄想がはかどりますw 焚書坑儒とか許せねぇw
まめ @mamesiba195
@kikennakitarou それすらも始皇帝陵が破壊されていないことと、劉邦が范増たちを讒言するために四万斤もの金を持っていたことから、差し引くことができますねw 秦兵を殺した件は、官渡で曹操も同じことをやっていますし、劉邦が秦王・子嬰を立てて抗戦されたら裏切られて終わる可能性は十分にあります。
サイヒ @saihinoti
>RT 某楚漢動画とか見てるとこれ顕著よね 項羽=残虐なアホという固定観念によるコメントの多いこと多いこと
サイヒ @saihinoti
俺は一度でいいから史記に記されたとおりの、礼儀正しく婦人のように物柔らかな言葉遣いをし、清廉な士がその下に集ったという項羽を創作で見てみたい
Tamejirou @Tamejirou
義帝には義帝なりの考えがあり、それ故に項羽は老齢の義帝を弑さねばならなかったのだろう。義帝は恐らく楚の安寧であるとか、楚を中心とした新秩序みたいなものは信じていなかっただろう。
うどん@ @udon0401
大奥ガシャでかわいいラーマちゃんを確保したぞ! pic.twitter.com/FSdHOwj0u6
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1 wikipedia項籍(項羽)項目の改変について

まめ @mamesiba195
項籍(項羽)のwikipedia項目を2018年3月に改変しています。全体的に大幅な内容の改変を行っております。#項羽#項籍#楚漢
リンク Wikipedia 2 users 7 項籍 項 籍(こう せき、Xiàng Jí、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが、次第に劣勢となって敗死した。 姓は項、名は籍、字が羽である。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。。 項..
まめ @mamesiba195
項羽のwikipedia項目に関する改変の理由については、以前行った改変も含めて、「ノート:項籍」の記事、「7 評価について」、「8 生涯について」をご覧ください。
リンク Wikipedia ノート:項籍 垓下の戦いの劉邦側の兵士数は、ひょっとして韓信の項目からのパクリですか?故意なのか、偶然なのか、「60万とも100万とも言われる」と書かれていますけど…。時期的には、韓信の項目の方が早くに書かれているのですが…。 初版を書いた者ですが、書かれてあるページを参考にした事はありません。そちらのページがWIKIから文章を持って行ったと思われます。ちなみに「60万とも100万とも..

2 現代における項羽の評価とイメージ

まめ @mamesiba195
現在における項羽の評価については、創作作品における悪役、もしくは個性を際立たせるための分かりやすい設定としての悪行や愚行が強調され、それがあたかも史実であるかのように流布しています。 pic.twitter.com/PIi3wHKeh8
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まめ @mamesiba195
このことはネット上の匿名掲示板などで特に顕著ですが、ネットで調べる限り、かなり歴史に詳しいと思える人の書き込みすら、その傾向が強いものが多いというのが、私の実感です。
まめ @mamesiba195
実際、項羽に対する歴史概説書や歴史記事すらも項羽の分かりやすい紹介のために、襄城や新安、斉で行った兵士の生埋め、咸陽や斉における略奪をまるで常態的に項羽が行ったかのように伝えることが多いと感じます。
まめ @mamesiba195
確かに項羽に関するそういった事跡が史書に残っているのは間違いないですが、常態的なものとすると意味が大きく違います。
まめ @mamesiba195
史記ですら、斉との戦い以外は、伝聞という形でしか、項羽が継続的に略奪や虐殺を行ったであろうことを伝えていません。項羽と敵対した韓信や懐王の老将の発言である「残滅せざるは無かりき」のみから、項羽が常態的に抵抗する住民を皆殺しにしたと決めるのは余りにも乱暴です。
まめ @mamesiba195
他の虐殺の証拠といえば、司馬遷の『史記』黥布列伝における評論でしょうか。「項氏に生き埋めにされて殺された人は、数千数万人にのぼる。黥布はいつもその虐殺の先頭に立っていた」としています。
まめ @mamesiba195
しかし、これも、黥布が項羽の配下がいる時期のみ、それも史書に記された襄城や新安のみをさしている可能性も否定はできません。
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コメント

ゆきやけ @yukiyake_ 2019年4月6日
項羽は結局自分がやるのが一番上手く行っちゃうタイプの人なのかなという印象はありますね 最期ですら超人的だし
遮光昏人 @KREHITO 2019年4月6日
まあ頭脳戦での対比になると相手が張良ってウルトラチートだし
tamama @tamama666 2019年4月6日
KREHITO 陳平もいましたし補給面は蕭何と万全の布陣ですしね
おろろ @fYe39CoQsPrbZVK 2019年4月6日
長安一帯を降将の章邯に丸ごと任せてたり、自分が全てでも無かったんやで。項羽が出来なかったのは政治。老人になるまでニートの范増じゃどうにもならなかったし、本人も人当てる事すら出来ないくらい苦手だった。一番カスなんは秦法から楚の法制度にして即腐敗した事やな
おろろ @fYe39CoQsPrbZVK 2019年4月6日
なお劉邦一味は天下取った後粛正アンド粛正アンド裏切りのカス共で大いに国弱体させて匈奴にカモられるので論外やな。クーデター得意な扇動家一味てだけや
Kongo @kongo_kirishima 2019年4月6日
主筋の懐王を義帝(偽帝)にして追放して途中暗殺したのは悪いことではないんかーい。
@taiheyou 2019年4月6日
大人しく優しい性格で、読書したり動物と戯れたり等、絵に描いたような文学少女だぞ
小川靖浩 @olfey0506 2019年4月6日
項羽の場合、一番下手だったのは人を使う事で本来立場的に多士済々を集う事ができたはずなのに封建に失敗して結果、各地で反乱を起こされてどれも自分が指揮して戦ったためにどこも中途半端になった上に元々自軍にいた陳平や韓信と言った武将を使うことができず、挙句滎陽の戦いでは数少ない腹心だった范増を離間の計で放逐して張良、陳平に戦略面で対抗できなくなって結果的に垓下で敗北することになったわけだからねぇ…。関心の挙げた「婦女の仁」ってのはここいらの「王者らしくない仁」なんだがねぇ…
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
KREHITO tamama666 そうですね。劉邦軍は、守備と逃走に優れた君主・劉邦、候補支援の達人・蕭何、中国史有数の名将・韓信、戦略家・張良、謀略家・陳平、外交官・酈食其、侯公、陸賈と各部門にバランスよく優れた人物がいます。 ネットの意見でも、劉邦が主攻(敵の主力)を抑え、韓信が助攻(敵の支援軍)を討ち、逐次、謀略や外交で敵を切り崩す戦略に勝つのは、古代社会の体制では困難ではないかという意見が見られます。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
私も、劉邦勢力の方が時代は違いますが、軍事的な人材配置だけを比較すると、後世の光武帝勢力や曹操勢力より、より柔軟に困難に立ち向かえ、かつ、有利な状況に乗じえる体制を有していると考えます。 しかし、項羽はその劉邦を何度も追い詰め、負傷させるほどの戦いを行っています。勝敗は、矢が劉邦の急所に当たるか否かという、運不運しかなかったのかもしれません。劉邦は項羽との戦いの開始前には関中を有し、国力も充実していたことを考えると、項羽の英雄性も史書に記載されている以上ではないかと考えます。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
kongo_kirishima 本文でも一部書いていますが、①懐王は項梁が立てた出自が怪しい王であり、代々の主君とはいいがたい。②項梁の死後、懐王は項氏の代表となった項羽を軽じんて、「関中王」に宋義か劉邦しかなれないような軍派遣体制を行っている。項氏としては廂を貸して母屋を乗っ取られた状態である。③他国の諸将は、鉅鹿の戦いで勝利した項羽の業績により、上将軍として盟主にしたもの、懐王に従う気などはない。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
④その上将軍となり、諸侯の代表となった項羽の進行を阻み、独立しようとした劉邦を懐王は「関中王」に任じることを命じた。各国の主催者となり、楚臣という立場では済まなくなった、項羽には受けられない条件を出し、劉邦と組んで、項羽に対抗しようとしたのは明白。⑤また、そのために項羽は彭城に戻らねばならず、関中に拠点を構えるという選択肢を失う。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
⑥ 懐王の臣であったはずの英布、呉芮、共敖が懐王を殺害し、懐王の臣であった陳嬰や呂臣も項羽に仕えている。義帝(懐王)殺害は楚人の同意が得られたと考えられる。⑦懐王の項羽への敵対心が判明し、かつ、項羽の功績が大きい上に、他国の諸侯や諸将にまで強い影響力を持つようになった。両立することは不可能で、項羽が臣下として懐王に仕えれば、ほぼ間違いなく、一族ごと誅殺される。 以上が、項羽のために弁明と私が史書と専門書を読んで、考えた理由となります。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
fYe39CoQsPrbZVK 項羽はあくまで覇王であり、天子でも皇帝でもないので、権限に限界があります。皇帝を名乗ることは懐王の存在があることや、項羽の傘下ではあっても配下ではない諸侯からは推戴を受けられる状況ではない、また、六国の民が六国の復活を望む傾向が強く、無理でしょう。また、秦に対する嫌悪感で、皇帝制度や秦の法制度は維持させるのは、当時の状況としては相当に困難です。
小川靖浩 @olfey0506 2019年4月7日
mamesiba195 ただ、実際のところ楚漢戦争に時代が移った後は項羽はどこも攻めるも決定打に欠けて各地を燻ぶらせ続け、まともに領地経営をする機会に恵まれなかったという部分も大きいですからねぇ。言ってしまえば項羽は何処までも「国の王」にはなれず「軍閥の首魁」であり続けた上に部下を評価することが下手だったために本来味方であった英布や韓信、陳平や亡君の復讐に燃える張良に滅ぼされることになったわけですし。戦上手であるのは誰も否定はしないだろうけど、「王道」を尊ぶ儒教からすればダメ出しは避けられんわな
おろろ @fYe39CoQsPrbZVK 2019年4月7日
mamesiba195 秦に嫌悪感あって戦国時代のやり方に戻して大夫から見放されたから劉邦にケツ突かれたんやろ。漢は結局秦法ベースに戻しとるやろが。詰まるとこ秦に反乱起こしてみたが、政治的なビジョンなんざ連中になかったんよ
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
olfey0506 確かに、項羽は領地経営を行う機会に恵まれず、義帝との争いで国家体制がさらに未熟なままになってしまった可能性があります。ただ、韓信のいう「婦人の仁」とはあくまで、「態度は丁寧で、部下を思いやることができるが、恩賞を与えきれない」ということです。恩賞を与えて人の心をつなぐという是非は後から誅殺して取り返した劉邦のことを思うと、結果論かもしれません。評価していた部下である范増や鍾離昩も恩賞が少ないと言われており、かえって王にしてあげた英布の方が裏切っています。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
また、当時は儒教の考えが弱い上に、その儒教の本拠地であるはずの「魯」が項羽のために最後まで抵抗しています。劉邦より項羽の方が当時の儒教としては評価されていたかもしれません。儒教は、漢代に漢王朝を肯定するための思想として発展します。後世の儒教から項羽が否定されていたとしても、当時の儒教から、項羽が否定されていたとは限りません。
nekosencho @Neko_Sencho 2019年4月7日
歴史上よくある、「俺たちの倒した敵は強かった」「でもあいつはこんなにダメな奴だったので勝った俺たちが治めるのが正義」ってやつなんだろうな……
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
fYe39CoQsPrbZVK 漢はかつての秦を本拠地にしたから秦法ベースにできたものであり、全てを秦法ベースにはできなかったため、統一後も郡県制ではなく、郡国制を採用し、全国五十三郡のうち十四郡しか直轄地にはできず、後は各国に統治させました。また、安定の時代では、蕭何がある程度は持っていたと思われる法家思想ではなく、曹参や陳平が持っていた黄老思想による「無為」を重んじる統治が行われております。
ゆきやけ @yukiyake_ 2019年4月7日
劉邦があまりに無茶苦茶な人だから余計にそう見えるというのもあるけど、項羽は部下に仕事を任せきれないタイプには見えるんだよね
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
まだ、完全な統一王朝ができるには時期尚早で、秦は余りにも早急過ぎたと考えるのが自然です。そのため、完全には戦国時代にもどす気がない以上、項羽の行ったおそらくは春秋時代の五覇体制を模して、さらに盟主に強い権限を与えた「覇王体制」は完全にビジョンを欠いたものとは思えません。ただ、やり方が武人に過ぎない項氏やおそらくは縦横家に過ぎない范増、若い項羽には、あまりにも裁量が困難だったものと思われます。懐王に委託して行わせても結果は同じか、それより悪かったかもしれません。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
Neko_Sencho 基本的には歴史では敵側は兵力を多く、政治能力や人徳は低い評価されますね。軍事能力については、ライバル設定がついた時や味方がどうしようもない敗北をした時は高く評価されがちです。他の例として、曹操に対する劉備、司馬懿に対する諸葛亮があります。ただ、三国志の場合、陳寿が蜀出身で晋王朝が諸葛亮を高く評価していたので、政治能力や人徳も評価されましたが、項羽の場合、司馬遷(もしくは父の司馬談)の個人的感情だけですから、仕方ありません。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
yukiyake_ 秦討伐の時代は、英布に任せていたようですが、肝心の英布が裏切っています。范増にしても項氏が讒言したと思っただけで漢軍の策略であると気づかず、去っていったなら、范増にも問題はあります。伯父の項伯は利敵行為を行い、軍を任せた龍且と曹咎は軽率に突撃して敗北。項羽陣営は項羽一人に依存し、国家体制が未熟だったことは明らかです。ただ、若い項羽だけを責めるのは酷な話で、項羽には成長する潜在能力を感じる余地があります。
今日が終わりの始まりの日 @__blind_side 2019年4月7日
次回予告的なくだりで触れていた創作物と概説書が絡み合うことによりイメージが形成云々というくだりに最もひかれてしまいました。ちなみに自分の項羽とのファーストコンタクトは集英社の『学習漫画 中国の歴史 第2巻 (旧版の) 』か同じく集英社から刊行された『中国からきたよくわかることわざ事典 (学習漫画・ことばの事典)』のいずれかだった記憶が…。
小川靖浩 @olfey0506 2019年4月7日
mamesiba195 英布の場合は「義帝暗殺」を押し付けられたことから来てますからねぇ。滎陽の戦いで離間の計が成功したのも結局は張良、陳平と言った「楚の内部事情を知っていた人物」の発案であるわけですし、「婦人の仁」はそれこそ戦で立身出世をしようとする人に対しては最悪の振舞なわけですし、正直楚軍が強かったのは「項羽の戦上手」と「いつかあるであろう恩賞へのコンコルド錯誤」だったんじゃないかなと。だから滎陽と垓下においての配下の動向が真逆になったわけですし
小川靖浩 @olfey0506 2019年4月7日
mamesiba195 さすがにその「項羽はまともだったけど配下が駄目な奴だけだったから負けた」と受け取られかねない書きようでは他者から項羽びいきが鼻についていろいろと損する形になりますよ。どっちにしても「項羽が配下の手綱をうまく操れなかった」という項羽の駄目さを強調することになるからそういう書き方はお勧めできません。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
__blind_side そうですね。私のファーストコンタクトは、社会思想社、現代教養文庫の「中国の故事・ことわざ」でした。あの会社ではゲームブックでお世話になりました。簡単に説明すると、「通俗漢楚軍談」を読んだ上で史記を踏まえて「項羽」を著した永田英正先生が、項羽の感情的な態度や残虐性を常態的なものと解釈してしまい、それが、司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」に採用され、定着し、影響して現代に至ったため、史記よりも項羽がさらに悪いイメージを持つに至ったということです。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
olfey0506 また、英布が離反したのが「義帝殺し」なのは、佐竹先生も主張していますが、なぜかは明確ではありません。項羽の体制が漸弱なのは明らかであり、斉と漢・楚の形勢を観望していたのかもしれません。 また、戦国時代でも家臣は、〇〇君や〇〇侯がせいぜいで皇帝や覇王の一族でもない人物が王の地位を要求する当時が異常です。王を要求した韓信や彭越は死ぬことになりました。項羽を「婦人の仁」である評して、遠回しに恩賞を要求した韓信は後世において非難されています。 」
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
olfey0506 そういう意図ではなく、項羽が元々マイナスイメージが多く、政治的には未熟であり、性急であったということを前提とした話です。范増や龍且・曹咎との意思疎通がうまくいっていないのは、項羽政権の未熟性であり、項羽の人格や未熟性を強く責めるべきではないという意味です。そういった意図ではありません。
ゆきやけ @yukiyake_ 2019年4月7日
mamesiba195 人選を誤ったりなぜか離反されたりしてしまうところからどうも人の心の動きに対して鈍感さを感じてしまうというか、本当にワンマン社長みたいに思えてしまうのですよねどうしても。
小川靖浩 @olfey0506 2019年4月7日
[c6154595] 「未熟は責めるな」と仰っても、結果として楚軍の弱点となってしまうものに関してはさすがにその擁護はマイナスにしかならないでしょう。しかも范増や龍且・曹咎・鍾離眜は楚軍の中枢だったわけで、よりにもよって「疑ってはならない存在を疑ってしまった」のは彼自身が未熟だと言っても弁護のしようのない大きな問題でして。しかも劉邦軍を雪隠詰めに追い込んでおいてほぼ勝ち確定状態でのやらかしですからねぇ。
まめ @mamesiba195 2019年4月7日
yukiyake_ olfey0506 そうですね。どちらかと言えば一族経営に拘る若手社長という感じでしょうか。項羽政権は軍閥的な性格が強く、項氏も戦場ならともかく、政治の世界では足を引っ張ることが多く、最後は本当に裏切っていた可能性もあります。一族の重用に拘り続けて、離反まで生んだとなれば、項羽の未熟さ以上の弱点として批判されることに異論はありません。ただ、劉邦側の謀略に使った四万斤の金は、秦が信陵君を陥れるのに使った額の四倍です。項羽が送った使者の件は一例に過ぎないでしょう。
小川靖浩 @olfey0506 2019年4月7日
mamesiba195 確かに。>一族経営の若手社長 正直項梁が章邯に討ち取られていなければ経営の方も学ぶ余地があったんでしょうし、おそらくは項羽は叔父の下で武将としてのびのびと活躍したうえで安定期に後継する形だったんだろうなぁという予想が経ってしまうのがなんとも。もともとが中原での頂上決戦という意味合いもあって三国志初期くらいの時期ならまだ小さな瑕疵で済んでたかもしれませんが如何せん状況は「小さな傷口は大きく開いて塩をこすりつけろ」な状況だからねぇ…
呉紋@おっさん @gomonz 2019年4月7日
宋義殺しが一番大義名分的にアウトだと思うんだけど、そこらへん触れてない。宋義殺して兵権を独断で奪い、懐帝に断りなく論功行賞やっちゃう、更に最低2度の穴埋め経験者なところは覇王としても推挙が難しいレベルじゃないかな
小川靖浩 @olfey0506 2019年4月7日
gomonz 義帝は元々先に秦を平定した方に禅譲をする予定でいたとなっていたから断りなく論功行賞自体は問題ないでしょ。ただ、あくまで先に秦を平定したのが劉邦だったから義帝の立場が無くなってしまって対立が始まったわけなんだし、「自分の権力の根源である存在」であった義帝を暗殺させたのは当時としても典型的な弑逆なわけだから私としてはこっちの方が一番アウトだと思うねぇ…
七篠権兵衛 @senri_mushroom 2019年4月7日
項羽は義帝視点では自分が指名した宋義を勝手に殺して軍権を奪った上、戻ってきて釈明したりすることもなくそのまま秦に進撃していったということになります。義帝政権としては当然項羽を危険視するわけで、項羽を抑えるために劉邦を利用しようとしたのでしょう。
七篠権兵衛 @senri_mushroom 2019年4月7日
そんな項羽の独断専行が許されていたのは戦争という非常時で更に彼の手元に軍があること、結果として勝っているからであって、秦を滅ぼして平時体制に戻ればその越権行為はむしろ処罰の対象になりかねない・・・これが項羽が直面した難問であり、それは項羽個人の能力で解決することは難しかったように思います。
七篠権兵衛 @senri_mushroom 2019年4月7日
つくづく項羽はスタートがかなり不利ですね・・・一軍の将ですらなく、宋義の下から這い上がっていかなくてはいけませんし。信頼できる一族の者や腹心が義帝周辺に居て、義帝を懐柔するなり監禁するなりできればまた状況は変わったのかもしれません。
まめ @mamesiba195 2019年4月8日
gomonz 宋義殺しに限っては、創作作品はほぼ項羽寄りであり、旧wikipediaを含めて簡略な歴史記事が、項羽が戦略を理解せず、殺したとする時のみ宋義寄り、詳しい歴史記事は史記通りに近く、時に項羽寄りですので、あえて外しました。懐王の命令を偽ったとはいえ、項羽の配下ではないはずの范増も含めて、宋義の指揮下にあった楚軍が項羽を支持したからこそ、項羽の宋義殺しを認めずにはいられなかったのでしょう。
まめ @mamesiba195 2019年4月8日
己に利益のある斉との連合を説明もせず、項羽の暴発を誘うような命令を行った以上、宋義の戦略はごまかしと解釈されておかしくありません。項羽が諸侯を率いて論功行賞を行った時は、懐王の指示は聞いているので、論功行賞を行うこと自体は認められたはずです。劉邦の唱えた十の罪には含まれていません。
まめ @mamesiba195 2019年4月8日
olfey0506 懐王が認めたのは関中を落としたものを関中王にすることで、秦王の代わりが関中王になり戦国時代に戻すという構想で、禅譲というわけではないでしょう。私も調べきれていませんが、藤田勝久先生の「項羽と劉邦の時代」によると、義帝が殺されたのは、劉邦が関中攻撃をはじめた時期です。上の義帝殺しの理由に、 ⑧劉邦が関中攻撃をはじめたため、義帝と連動し、義帝がかつぎあげられるのを恐れたため、を加えます。
まめ @mamesiba195 2019年4月8日
senri_mushroom 確かにそうですね。同意します。義帝殺しは項羽と項氏としては仕方なかったとしても、弑逆の名を受けたことで、反感も買ったであろうことと、楚国の後方支援体制に大きな悪影響を与えたであろうことは間違いないでしょう。ただ、項羽があそこで独断専行せずに戻って復命していれば、趙はおそらく滅び、秦軍には勝てなかったかもしれません。後に趙将が秦を滅ぼした功績で王に封じられていることを思えば、そう感じます。
呉紋@おっさん @gomonz 2019年4月8日
olfey0506 大義名分失って支持を無くして、論功行賞も不平等(と思われた)で反乱祭り。その影響でさらに力でねじ伏せる必要があるので、飾りになる義帝も排除。大体は宋義殺して兵権奪って人の道から外れてからのなし崩しでやらざる得なかったので、やぱり宋義が一番じゃないかな?と思います
呉紋@おっさん @gomonz 2019年4月8日
mamesiba195 ぶっちゃけ創作だと宋義人気無いし大体無能扱いだし。たまに隠れた有能扱いもあるけど稀。弱腰の宋義を排除して鉅鹿で圧勝とか項羽最大の見せ場だから、引き立て役として宋義は無能化されちゃう。ただ項羽の崩壊はこの勝利から始まったんだろうね。でもさ項梁殺して数も多くて地の利もある秦軍と戦わないって宋義の判断は凄い常識的な考えで、あそこで特に理由もなく兵の質で勝っちゃう項羽が異常で異質。実際なんで勝てたの鉅鹿の戦い!
まめ @mamesiba195 2019年4月8日
gomonz 「宋義の判断は凄い常識的な考え」とは思いません。章邯は、項梁を討ち取った後、まだ、余力を残す楚軍を放置して、趙軍を攻撃することを優先しています。これは、章邯から見たら、趙の方が項梁亡き楚軍より手ごわいから先に攻撃すべきと判断したからでしょう。実際、趙は勢力を広げており、大侠の張耳・陳余を擁し、後に王に封じられる申陽や劉邦を一度は破る司馬卬もいました。
まめ @mamesiba195 2019年4月8日
趙が長平の戦いで大きな被害を受けながらも、秦相手にかなりの善戦をした軍事力の強い国家です。大して、斉は大した抵抗もせずに滅んでいます。趙が滅びてしまえば、勢いに乗った秦相手に、斉と組んでもじり貧というのは通常の判断でしょう。その趙軍が残っている間に、楚と趙で鉅鹿の内外から攻撃し、秦を倒すというのは、おかしな考えではありません。鉅鹿の戦いでは楚に呼応して戦った趙軍の働きは大きく、それを活用した項羽の判断力はとても優れていると考えます。
呉紋@おっさん @gomonz 2019年4月8日
mamesiba195 趙は軍事力があって人材もいる将来性のある国家でしたが、あの鉅鹿の段階では兵糧攻めにあっている張耳と趙王を、陳余は見捨ててますよね?項羽の軍と十倍近い戦力差があって士気も高く、刎頸の交わりをする義兄弟の間ですら諦めるあの状況で秦軍と戦うのは真っ当とは思えません。だからこそそれを真正面からひっくり返した項羽は歴史に残る快挙だし、司馬遷も絶賛するし、今でも英雄なんだと思います。
まめ @mamesiba195 2019年4月10日
gomonz 宋義については、私はむしろ、日本において、史記以上に項羽の悪いイメージの元になった「通俗漢楚軍談」と永田英正先生の「項羽」が史記通りに書いたため、司馬遼太郎先生も項羽寄りに書き、そのために正当な評価を受けるようになった事例と考えます。この時代、軍を率いた将が勝手に自立する事例が頻発し、宋義は懐王に命じられた趙を救う戦略を放棄して、項羽の排除を考えていた節があります。
まめ @mamesiba195 2019年4月10日
宋義が逗留している間に趙の邯鄲は落とされました。項羽は宋義殺害後も楚臣であることは続けています。上官を殺害することが全て悪と断じたら、軍を率いて謀反することを止めることはできません。むしろ、宋義を殺し、楚の臣としての道を全うしたことが、諸将に評価され、軍事実績以上に、項羽が上将軍として、諸侯軍の主催者として推挙された理由と考えます。項羽は懐王の臣としては忠実ではなかったでしょうが、楚国の社稷(国家)の臣として天下に認められたものと考えます。
まめ @mamesiba195 2019年4月10日
異論としての反応は多いですね。コメントが長くなり過ぎたので、劉邦の唱える項羽の「十の罪」の是非について、いずれ、あらためて記事をつくり、本文と私のコメントを整理して、まとめたものを作成しようとは考えています。作成したら、本文とコメントでお知らせしますので、よろしくお願いします。
呉紋@おっさん @gomonz 2019年4月13日
mamesiba195 新しい視点は常に古い意見とぶつかるものです。うまく議論して問題点を洗い出せば、理論武装もより完璧になります。めんどくさいと思いますが頑張ってください、応援してます
まめ @mamesiba195 2019年4月13日
gomonz ありがとうございます。ゆっくりといきます。
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