安土宗論についても、信長の「八百長」が可能だったと見ることは「16世紀に国家権力者が特定の宗教団体を公開討論の場で不正に負けさせ、その結果詫び状を書かせることに成功し、なおかつそれに対する抗議行動がほどんど起こらなかった」ことが、歴史上の事実だと認めることだが本当にそれでいいのか
2019-04-11 06:28:05@m_izawa 呉座先生は八百長が可能だったとは言ってないですね。 研究や史料に基づくと、 歴史学会では、信長が何らかの介入を行ったという見解が今なお主流である。 とは言ってましたけど。
2019-04-11 11:11:28@TenkouTisatu108 @m_izawa 結局「安土宗論」は八百長なのか、そうでないのか、歴史学者の結論はどちらなのでしょう。週刊ポスト3月29日号の呉座氏の文章からは、私は「不明」としか読み取れませんでした。 次の3つの呉座氏の主張は、それぞれ矛盾すると思えるので、いったい何を主張したいのか、さっばり理解できません。
2019-04-11 23:24:47@TenkouTisatu108 @m_izawa 1. 仮に[安土宗論は八百長ではないという]林説が正しかったとしても、功績があるのは提唱者の林氏であり、紹介者の井沢氏ではない。 それでは、林説は正しいのかというと、
2019-04-11 23:25:15@TenkouTisatu108 @m_izawa 2. 歴史学界で安土宗論に関する議論が低調だったのは、辻に忖度したからでは無く、おそらく現存の宗教団体が関わるデリケートな問題だからであろう。 ということは、デリケートな問題だから結論は出ていないのかと思うと、
2019-04-11 23:26:00@TenkouTisatu108 @m_izawa 3. 井沢氏が通説を「一蹴」したとの評価には従えない。ウィキペディアの記述はともかく、歴史学界では、信長が何らかの介入を行ったという見解が今なお主流である。 これらの3つが同時に成り立つのものなのでしょうか?
2019-04-11 23:26:46@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa 失礼します。成り立ちます。 浄土宗側の史料と法華宗側の史料が両方残っています。 浄土宗の史料では浄土宗が勝ったとあり、 法華宗の史料では仕組まれたものだ、ということです。
2019-04-12 00:41:38@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa したがって、浄土宗の史料で語れば林説は成立します。 法華宗の史料によれば辻説ということになります。 ただ、メジャーな説は辻説です。 しかし、辻説が支持されたのは、辻が東大だからではというわけではありません。
2019-04-12 00:43:21@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa 井沢氏が言うように東大の権威主義ではなく辻説の方が妥当だと考えられていたからです。 それでは、何故に辻説なのかというと、そこに信長の介入があったであろうということです。
2019-04-12 00:45:37@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa それでは、何故に信長は、わざわざ法華宗の負けとしたのか。 そもそも、信長は法華宗を壊滅させるつもりはなく、法華宗が他宗に対する宗論をやめさせる目的がまずは第一だと考えれます。
2019-04-12 00:47:57@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa そして、信長は詫料を法華宗から徴収しました。
2019-04-12 00:49:51@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa この信長の行動について法華宗が「なおかつそれに対する抗議行動がほどんど起こらなかった」というのがおかしいと、トンチンカンなことを言っていますが、井沢氏は、織田家は代々法華宗の檀家だということを無知なので知らないようです。
2019-04-12 00:52:46@kusobokko @m_izawa @TenkouTisatu108 @ABOFAN @kamedatoshitaka すみません。井沢氏は織田家が法華宗の檀家であることは知ってとの呉座さん情報です。ますます、変な仮説になると思いますが、よくわかりません。昨日の続きも書き込んでおきました。キリスト教の変な説を展開させるのかしら。
2019-04-12 22:22:30@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa 法華宗の他宗に対する宗論は、朝廷などからも批判されていました。信長も宗論に反対していました。それにもかかわらず宗論をやめなかった法華宗にある意味、罰を与えて、法華宗に対する非難をやわらげたという側面があります。
2019-04-12 00:58:26@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa 当時の京都では、町衆から税を徴収することは困難でした。なぜなら、京都を攻めた一向一揆勢力に対し、信長の前の細川は町衆(法華宗の檀家)を動員して、一向宗を退けたからです。
2019-04-12 01:04:05@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa 恩賞というのは、当時、領地を与えるだけではありません。京都の町衆はその恩賞として、税の免除を獲得しました。
2019-04-12 01:04:26@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa 天正3年、信長は京都に入ってきます。その翌年、法華宗は町衆に対し、洛中勧進を行ないます。つまり、お布施です。そこで、集まった金は信長に渡ります。それが、そのまま朝廷に渡されたと考えられています。
2019-04-12 01:09:04@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa つまり、信長は、税の徴収が不可能な状態にあって、京都の町衆から金銭を徴収したともいえます。なぜ、それが可能だったのか。織田家は京都法華宗の大檀越でもあったからです。
2019-04-12 01:10:44@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa つまり、井沢が「八百長説」とか俗的にいっているものは、たとえ「八百長」なるものであったとしてもその信長が法華宗を壊滅させようとしたものではありません。まず、その点が井沢氏は理解できておりません。
2019-04-12 01:15:06@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa その他、細かい点はまだまだありますが、林説、辻説があるなかで、信長の介入というかかかわり方からして、辻説が妥当。信長は、朝廷などの法華宗にたいする批判をある意味安土宗論でかわして、法華宗を守ったともいえます。
2019-04-12 01:20:14@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa したがって、井沢氏の「なぜ法華宗が信長に抗議行動などに出なかったか」というのも、これはこれで、新たな井沢氏のトンデモ説です。無知をされけだしているとも言えます。
2019-04-12 01:30:12@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa もっと、端的は事例で言えば、信長は何故、本能寺に丸腰でいたのか。本能寺は法華宗寺院だからです。信長は檀越だからです。 井沢説の面白いところは、それでは、弾圧した敵の寺院に、なんで丸腰で泊ってるんだ、という摩訶不思議な、駄作推理小説になりますね。
2019-04-12 01:32:27@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa さらに、井沢氏の呉座氏の二回目の反論についてですが「持統天皇の火葬から首都移転がなくなった」ようなことを言っておりますが、持統天皇以降の天皇でも土葬された天皇は複数人おられます。なんで、その時、平安京は移さなかったんでしょうね。ふざけた井沢氏の推論だとこれも思います。
2019-04-12 01:36:35@ABOFAN @TenkouTisatu108 @m_izawa 井沢氏は語れば、語るほど、ボロがぼろぼろでるので、黙っていればよいのにと思います。逆説は読んだことがないのですが、こんな変な説が満載だとしたら、そして、それが井沢氏が言うように史実とうたって100万部も売れたのでしたら、とんでもないことをしてくれたものです。
2019-04-12 01:39:11