- tomoshibi6o6o
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ルクセンブルク国家の歴史は963年まで遡ります。 それ以前、この一帯はメルセン条約にとって東西に分割され、リベモン条約で統合されました。 アルデンヌ伯爵ジークフロイト(ジークフリート)が、963年にアルゼット川とペトリウス川の交差部で城を築きました。 pic.twitter.com/D0DSQp83XD
2019-04-23 20:07:01この城は現在、大部分が老朽化していますが 「リュシリンブルフク」と命名されたこの城こそ、ルクセンブルク国家の始まりでした。 pic.twitter.com/PnZrqiO7j1
2019-04-23 20:08:59この城を築いたアルデンヌ伯爵ジークフロイトは、ロートリンゲンの有力者の家柄だったとされます。 どういった家柄だったのかは散逸によって詳しいことはわかりませんが 後世にロートリンゲン公国を支配したヴォーデモン家と同族で、遡ればジェラール家が起源だという人もいます。 pic.twitter.com/39XhE05BEl
2019-04-23 20:13:45ジークフロイト伯爵は、あの時代に群雄割拠していたロートリンゲン地方に生まれ、ルクセンブルク方面へ進出したのだろうというのが今日の見方のひとつです。 ジークフロイトは母方からカロリング家の皇帝の血を引いていたとされ、その娘は皇帝ハインリヒ2世の皇后となりました。
2019-04-23 20:16:03神聖ローマ皇帝の縁者となったことで、ジークフロイト伯爵の息子ハインリヒ1世、次いでその甥のハインリヒ2世はバイエルン公も兼ねました。 しかし未婚のまま死んだことで、バイエルンは他家へ渡ります。
2019-04-23 20:23:18ルクセンブルク領はハインリヒ2世の弟ギゼルベルトへ受け継がれ、「ルクセンブルク城伯」を名乗るようになります。 これが称号としてのルクセンブルクの始まりとされます。
2019-04-23 20:25:36ルクセンブルクは長男コンラート1世へ継承されましたが、次男のヘルマンは皇帝ハインリヒ4世に対するドイツ対立王(在位1081ー88)となりました。 彼は対立王になったはいいものの、特に危険視されてた訳でもなく… その居城の前にはニンニク畑が延々と広がっていたことからニンニク王と呼ばれました。 pic.twitter.com/EZUFqpJVgl
2019-04-23 20:30:02コンラート1世の方はトリーア大司教と争って破門され、解除のためにエルサレム巡礼をしていたところ帰路のイタリアで死んでしまいました。 息子ハインリヒ3世、続いてその弟ヴィルヘルムがルクセンブルクを継承しましたが、嫡子なく没してしまい初期ルクセンブルク家は断絶しました。
2019-04-23 20:33:59ヴィルヘルム伯の死後、ドイツ王コンラート3世(フリードリヒ赤髭帝の息子です)はルクセンブルクの継承者として、ヴィルヘルムの母方従弟であるナミュール家のハインリヒを選びました。
2019-04-23 20:35:14この後継ぎのハインリヒは途中で盲目になったため、盲目伯ハインリヒ(4世)と呼ばれています。 彼はたいへん長命で、84歳で亡くなりました(1196没) しかし彼は結婚してもすぐ別れ、再婚しても妻を拒絶する様だったので再び継承問題が起こるかと思われました。 pic.twitter.com/5S2m8nYXB8
2019-04-23 20:38:291186年、既に盲目になっていたハインリヒ4世に娘が生まれました。 ルクセンブルクを治めて50年目、74歳の時の子供です。 (奇跡としか言い様がない) 生まれた娘エルメジンデは、ルクセンブルクおよびその周辺領土の継承者とされました。
2019-04-23 20:41:01成長したエルメジンデはリンブルク公と結婚し、ラ=ロッシュ伯、デュルビュイ伯、アルロン辺境伯の領地を獲得します。 これが現在に至るルクセンブルク領の起源となります。 「エルメジンデ女伯」として辣腕を発揮し、領地交換による一円的支配・主従関係の再確認による家臣団の編成を行いました。 pic.twitter.com/2Uaa4QoYKF
2019-04-23 20:44:57元々のルクセンブルクはドイツ語が公用語でしたが、ラ=ロッシュ伯、デュルビュイ伯、アルロン辺境伯の領地ではフランス語が話されていたため、フランス語で公文書が書かれるようになります。 エルメジンデ女伯の時代、現在に至る政治的統一性が生まれました。
2019-04-23 20:47:44エルメジンデ女伯の息子、ハインリヒ5世(金髪伯)の時にルクセンブルクの紋章が定められました。 pic.twitter.com/ODwd2cAtOC
2019-04-23 20:48:54その息子ハインリヒ6世は、リンブルク継承戦争を起こし、帝国北西部の諸侯が巻き込まれて下ライン地方に戦火を起こします。 このときハインリヒ6世およびその弟2人が殺され、逆に自らの家が断絶しかけています。 pic.twitter.com/xsdEJzLlk0
2019-04-23 20:52:53ハインリヒ6世の遺児で、生き残った幼少のハインリヒ7世はフランス宮廷に引き取られ(おそらくルクセンブルクにおけるフランスの影響を強めるため) フランス王フィリップ4世(端麗王)の元で育てられ、「神聖ローマ皇帝に臣従しながらもフランス王にも忠誠を誓う」ことになります。
2019-04-23 20:55:05この頃、神聖ローマ帝国ではハプスブルク家のルドルフ1世が王に選ばれて混乱に終止符をうち、その死後はナッサウ家のアドルフが王になり、それを倒してルドルフ1世の息子アルブレヒトが即位しました。 pic.twitter.com/IGHtiyYomh
2019-04-23 20:59:44ところでこの新国王アルブレヒトは冷酷で、相続人のいなくなった領地を奪い取って自領に加える有様でした。 そんなもので、帝国北部の諸侯は連帯して対抗しようとします。 この中に成長したハインリヒ7世もいました。
2019-04-23 21:01:13この連帯した諸侯は「万が一アルブレヒトが死んで我々から新たな王が選ばれた場合は、その王は我々に所領を保全すること」としてお互いに盟約を交わしていました。 そしてなんやかんやあって(省略)アルブレヒトは殺されます。
2019-04-23 21:02:52その次の王に、フランス王フィリップ4世(端麗王)は親族を送り込んで、神聖ローマ帝国を影響下に収めようとしてきました。 そこで立ち回ったのがハインリヒ7世の大叔父である、トリーア大司教です。 なんとか言葉巧みに、ハインリヒ7世を新たな王にしてしまいます。
2019-04-23 21:04:53帝国北西部の中小諸侯だったハインリヒ7世は、不思議なことに(恐らく本人が一番驚いた)神聖ローマ帝国の統治者となってしまいます。 そしてイタリアに兵を進め、ローマで皇帝戴冠します。 「皇帝」の在位は、前回の皇帝フリードリヒ2世から数えて実に60年が経っていました。 pic.twitter.com/EHbDIMbUni
2019-04-23 21:09:28ハインリヒ7世のドイツ王選出について twitter.com/tomoshibi6o6o/…
2019-04-23 21:09:52ドイツ王アルブレヒト1世の暗殺後、フランス王フィリップ4世端麗王は弟ヴァロワ伯を次期皇帝に推古した。 既にマインツ・ケルン・トリーア大司教はフランス王の援助によりその地位にあったために、ヴァロワ伯の皇帝選出は有力視された。
2018-09-27 21:39:22ハインリヒ7世の皇帝戴冠について twitter.com/tomoshibi6o6o/…
2019-04-23 21:10:17教皇不在のローマに来たハインリヒ7世は、枢機卿によって皇帝戴冠されることを目論んだ。 枢機卿たちは執行するのを拒否したので、ハインリヒはローマ市民を動かした。 戦いにうんざりした市民1万人が広場に集まりハインリヒを讃え、枢機卿はなお2週間抵抗したが、最期は嫌々ながら戴冠式を行った。
2018-08-19 13:56:12ハインリヒ7世は帝国東部のボヘミア王に息子ヨハンを押し込み、ルクセンブルクからボヘミアを支配することになりました。 ヨハンは新たな領地であるボヘミアの運営がうまくいかず、それを抵当に入れて本領であるルクセンブルクの発展に力を注ぎました。
2019-04-23 21:12:48イタリアから低地地方に至るルートだったことから、貿易路として整備、市場を作ったことでヨハンの代にルクセンブルクは繁栄を見せます。 ヨハンは騎士道に篤く、盲目になりながらも戦場に出て、百年戦争でフランス王に味方して最期は壮絶な戦死を遂げました。 pic.twitter.com/afbOXmejGw
2019-04-23 21:14:46