0427 上田真田まつり 前日祭 歴史トークショーメモと所感。

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日光81 @nikko81_fsi

令和も2日目になった今更ですが、#上田真田まつり 前夜祭となった考証ズによる #歴史トークショー 、個人的なメモと所感を記録しておこう。既出レポともかぶるかもだけどね。①信州上田初之真田陣絵図、②真田信尹の加津野時代の名前、③小野寺刑部少輔覚書、④真田の赤備えの起源、⑤真田の黒四方旗。

2019-05-02 01:48:00
日光81 @nikko81_fsi

①信州上田初之真田陣絵図。徳川にも真田にも敬称がなく、その間違いから援軍予定の上杉家でつくられたものでは?という図。宿城なる戦国時代には使われて江戸時代には使われなくなる言葉も入ってると。昌幸の第一次上田合戦の作戦の内容が記されていて、すっごいおもしろい。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-02 01:49:45
日光81 @nikko81_fsi

一番旗、二番旗、三番旗と旗のデザインが詳細にわかってたり、誰がどうするみたいなとこまで。合戦の過程って大体後代につくられた史料によるモノが多くて、なかなか確証を持ってこれだというのは難しいと思うんだけど、よく出てくるよね、こういう史料。

2019-05-02 01:50:22
日光81 @nikko81_fsi

こういうのがあるとドラマの仕立てが変わってくる…かもなのだけど、ドラマがあって史料が出てくるというパターンだから真田丸に活かすのは無理だよね、というお話。でも、今後第一次上田合戦が描かれるドラマの際に、うまく活かされるといいよね。

2019-05-02 01:51:06
日光81 @nikko81_fsi

真田丸以前はそれほどには、真田の研究が進んでなかったことにも触れられ。研究の進み具合に必ずしもドラマが必要なわけではないにしろ、歴史研究の実際を読み込もうとするドラマによって、今まで知られていなかった、あるいは違って理解されていたことが映像化されて話題になったのが真田丸の一面。

2019-05-02 01:54:04
日光81 @nikko81_fsi

その話題性によって史料が日の目をみて、研究が進む、そしてそれがまたドラマに活かされる…必ずしもおもしろいフィクションに史実は要らないのかもだけど、歴史学の研究とドラマ制作のしあわせな関係が続いてほしいな、と改めて思ったよね。

2019-05-02 01:54:45
日光81 @nikko81_fsi

②真田信尹の加津野時代の名前の話。松代古文書、伊能家文書、歴代古案の3つの文書の比較から、昌春ではなく昌君ではないか?という可能性が出てきたこと。推論過程がまた興味深くてわくわくしたよね。ちょっと記憶違いがあるかもだけど、、、 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-02 01:56:36
日光81 @nikko81_fsi

(1)昌春という名前の根拠になった文書は、写で実物ではない、(2)昌幸の文書として伝わっていたが、昌の次の文字が読めず、戦国遺文武田氏編では昌□となっていた、(3)これも昌幸とされていたが、(1)の昌春と思しき花押が据えられており、昌春とは読めずどう見ても昌「君」としか読めない。ここから…

2019-05-02 01:57:35
日光81 @nikko81_fsi

(2)の文書も昌君と読めるのではないか、翻って(1)の昌春名も実は写す段階で、書き違えていて昌君ではないのか?という過程。確定するには至らないようだけど、歴史研究の現場というか、これまで考えられたことが覆されるリアルな過程をなぞれて楽しい。ちなみに加沢記には御舎弟昌君とあるらしいぞ。

2019-05-02 01:58:51
日光81 @nikko81_fsi

確定してないところだが、いろいろ推測を重ねたくなっちゃうアレ。「君」の字って、穴山信君だよねぇ、と。その連想で行くと、かづの・まさ「ただ」になるわけですよ。ただ…おっ!真田に復姓するときに信尹(のぶただ)としたことと繋がるかも?素人的にはこういうのがおもしろいんですよねぇ。

2019-05-02 02:00:28
日光81 @nikko81_fsi

ここからは日光の勝手な想像。真田って武田従属国衆のときは、武田のルール通り、長男(信綱・信幸)が「信」の字をもらっていて、次男・三男(昌輝・昌幸・昌春/昌君)は「昌」の字を武田から一字拝領していた。ところが…

2019-05-02 02:01:50
日光81 @nikko81_fsi

信繁からルールが変わっている。弁丸書状を考えても、実は信繁は武田家が存続するまでに元服していないのかも。信繁以降、真田氏は武田氏の通字「信」を真田氏の通字のように扱い、信繁の弟の信勝や信幸の子(信吉・信政)など、信○という諱に変わっていき、江戸時代の途中まで続くわけだ。

2019-05-02 02:04:07
日光81 @nikko81_fsi

と考えると、加津野昌「君」も武田家滅亡に伴う真田家の通字変更の過程で、真田氏に復姓しつつも、従来の通字だった「幸」や「綱」ではなく武田由来の「信」とし「君」の読みはそのままで、字を変えて「尹」にしたと考えるとおもしろい。

2019-05-02 02:05:30
日光81 @nikko81_fsi

なぜ「尹」にしたかは想像がつかないが、「君」を避けたのは、やはり徳川に通じていた穴山信君を避けたのかなぁ、などと想像する。以上、勝手な日光の想像ね。

2019-05-02 02:06:04
日光81 @nikko81_fsi

③小野寺刑部少輔覚書。牢人の履歴書なんだけど、沼田平八郎の暗殺と沼田氏没落が、加沢記にある天正九年ではなく、天正十年三月とあるということ。さらに海野幸光・輝幸の成敗も勝頼の承認をバックに昌幸が天正九年に行ったとされていたのが、天正十年九月とされているそうな。ほほう。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-02 02:06:51
日光81 @nikko81_fsi

この年代比定になると、沼田平八郎暗殺・海野氏成敗に武田家の影響はほぼ考えにくくなっちゃうんだな。武田家にあって権力掌握していく過程ではなく、独力で昌幸が権力掌握していく過程になるか。武田との関連でどういう影響があるのかはわかりかねるが気にはなった。

2019-05-02 02:10:03
日光81 @nikko81_fsi

④真田の赤備えの起源。ドラマでは信繁からということになっていたけど、朝鮮出兵時の史料で「いつものごとくあかむしゃ」とあるのは、知っていた。のだけど、そのスタートが上州小幡氏にあるのでは、という考え方が提示されていたのがおもしろかった。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-02 02:10:47
日光81 @nikko81_fsi

小幡信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となり、小田原征伐後は真田幸綱の流浪時代から武田氏時代を通じての縁で親交の深かった真田昌幸を頼っていたのだそう。そこから赤備えをし始めたのでは、というのは推測なんだろうけど、そういうくるのか、と興味深いくだり。

2019-05-02 02:11:17
日光81 @nikko81_fsi

どうやら山県は赤備えではないらしい(そういや山県衆を配下に加えた井伊の赤備えの起源も飯富兵部に求めてた)し、真田幸綱が飯富兵部の娘を嫁にしていたかも?というのはあったはずなんだが、義信事件でそこはなかったことにしているし無理筋。とすると、小幡しかないか、という感じ。

2019-05-02 02:16:43
日光81 @nikko81_fsi

⑤真田の黒四方旗。肥後・熊本藩の永青文庫にある大坂城の図面。真田丸の部分にいろいろ注意書きがあり、黒四方の旗が描かれていて、真田安房守のときから使っているとあるのだそう。真田丸第一回で、昌幸が新府城に戻る際や、第一次上田合戦の際に昌幸のそばで翻っていたあの黒四方だ。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2019-05-02 02:17:46
日光81 @nikko81_fsi

なんでも、甲陽軍鑑によると真田信綱からつかっているようなのだ。尊経閣文庫(前田氏)にも黒四方が描かれ、さらに六連銭のない、朱の旗も描かれている。どうも真田昌幸の後継者をアピールしてる?としたら昌幸のインパクトは死後もなお強かったんだろうかね。

2019-05-02 02:18:34
日光81 @nikko81_fsi

信幸に遠慮をしてか、六連銭はつかっていなかったらしいってのはきいたことあったね。てことは、信幸も黒四方つかってたのかな?とか、大坂の陣での真田信吉・信政は?とかいろいろ考えちゃうね。

2019-05-02 02:18:46