情報の正誤を個別に判断するということ

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渡邊芳之 @ynabe39

むかしABOFAN氏と血液型談義をしている中で「渡邊さんは同じミッシェルのAという論文は正しいといい、Bという論文は間違いだという、これはおかしいのではないか」「いったい渡邊さんはミッシェルを信頼しているのかいないのか」と言われたことがある。

2011-05-12 02:30:18
渡邊芳之 @ynabe39

ABOFAN氏は私に「あなたはミッシェルという情報ソースを(属人的に)信頼しているのか」と聞いたわけである。私の答えは「学者は情報の正誤について情報ソースから属人的な判断をしない」ということだった。

2011-05-12 02:34:06
渡邊芳之 @ynabe39

誰が言おうが正しいことは正しい、誰が言おうが間違いは間違い。同じ人の言うことの中に正しいことと間違いが混在するのは当然で、常に個別に正誤を判断する責任は情報を受け取るこちらの側にある。

2011-05-12 02:38:57
渡邊芳之 @ynabe39

われわれは研究者養成教育の中でそのように「情報の正誤を情報ごとに判断する」訓練を受けている。そしてその訓練の成果は研究だけでなく日常の判断にもごく自然に適用される。

2011-05-12 02:42:16
渡邊芳之 @ynabe39

「情報を出す側と受け取る側が同じ基準で情報の正誤を判断できる」というのは「科学」という、世界のごくごく限られた領域のお約束にすぎず、世界の残りの大部分はそういう構造にはなっていない。

2011-05-12 02:51:19
渡邊芳之 @ynabe39

Aさんが何かを正しいと考えてそう主張する根拠や論理の流れと、BさんがAさんの主張の正誤を判断する根拠や論理の流れは本来別々のものである。それを実験や統計などの「外部システム」によって共通化したのが科学という仕組み。しかしそれが通用するのはあくまでも世界のごく一部である。

2011-05-12 02:56:23
渡邊芳之 @ynabe39

誰かが何かを言っている時に、それが自分が何かをいう時と同じ根拠と論理で言われていると信頼し、かつそれを個別に確認できるというのが「科学システム」の内部で保証されていること。しかし科学システムの外部ではそんな信頼も確認も保証されない。

2011-05-12 03:06:33
渡邊芳之 @ynabe39

「誤情報の多い人はフォローしない」ということの裏側には「別のツイッタラーを属人的に信頼する」ことがあると思う。私のTLには「信頼される専門家」と「デマ拡散家」が仲良く同居している。もちろん私はどちらも属人的には信頼しない。

2011-05-12 03:19:25
渡邊芳之 @ynabe39

誰かが何かを言っている時に「この人はどのような独自の根拠と論理の流れでこのような主張をするに至ったのか」をまず分析的に考えて、その上でそれについて自分がどう考えるかを決める、というのが人文学的なアプローチ。

2011-05-12 03:26:55
渡邊芳之 @ynabe39

その「この人はいったいどんな独自の根拠と論理の流れでこれを言っているのか」という視点は当然自分にも向けられる。だから人文学者は常に「自分はなぜそれをそのように考えるのか」を自省しつづける。

2011-05-12 03:49:39