ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』講読 ── 近代における<消費>について
学部時代に読書会って、やっぱり難しいものなのですね……どこの学部でも。大学の勉強というのに馴染むまで時間が要るということなのかな……。そういう意味でも、できれば現在学部生を入れて院生が読書会をするというのは大切だと思う。現に私もそうして初めての読書会デビューをしたわけですし……。
2011-05-13 12:27:06そうなんですよね……私も随分苛立っていましたが、大学に来る=入試勉強からの解放という人たちは、また別なものに興味関心を抱いていて、それを否定することもできないな、と思うに至り今に至っています。RT @hinoe_t *私の場合はほぼ意欲の問題でした。やってこなくても叱られない*
2011-05-13 12:43:38これはひどい。待ってるほうだけが精神を削がれていはしまいか……。RT @hinoe_t: KANAH0 さきほど申し上げたとおり40ヶ月中断したままという状況でして、中国人留学生ですら彼にとっては外国語の討論に参加しようとしているのにどうして出席するだけのことができないのか…
2011-05-13 12:57:46でも結局、研究なり勉強なり、他の活動なり、なにかが自分の生活と地続きで切り離せないものだと気付いていく人から、なにも言わなくてもなにかをやっていて、そういう人はちゃんとおもしろい人・放っておかれない人になっている、と信じたい今日この頃です。
2011-05-13 12:46:321.フィクション性について:フィクションとは、現象するAと主体が知覚するBという二重構造にて成り立っている。その二つの<パラレルワールド>に生じるズレにおいて主体は「美」を感得する。ケーゲル風に述べるならば、後者は<観賞者の精神(という)フィクション>というところだろうか。
2011-05-02 22:09:282.(「本丸」ではなくあくまで卒業論文執筆者のことばとしての)カント美学においての最高位は「観賞者」と名指される。一方のニーチェ美学における最高位は「創造者」である。このふたつの者において「美」の生成の仕方が異なり、そして本論では創造者による美が観賞者による美に優ると言われる。
2011-05-02 22:14:47「美において、想像と鑑賞が混同されているのではないか、もしくは、鑑賞側により過ぎて定義だけが先行してしまい実際に創造する立場から考察されていないのではないかということである。
2011-05-02 22:21:07観察者自身が冷静な判断を下すことによりすぎた為に、観察者自身も経験したであろう強烈な芸術の美的体験が抜け落ちて認識されていることの強調である。それでは美について一切を語ったことにならないという、根本的な認識の欠落をニーチェは指摘する。…続けて…無関心についても批判を向けている。」
2011-05-02 22:23:01「美とは関心なしに人の気にいるもの」とカントは言った。関心なし!この定義を、本当の「見る人」でもあり芸術家でもあったあるひとのくだしたあの別の定義と比較するがよい… カントが美的状態について強調した唯一の点、「無関心性」が拒否され抹殺されている。
2011-05-02 22:25:56美学者たちはカントの方をもって、美の魔力のもとでは女のはだかの彫刻をすら「関心なしに」見ることができるという説を倦むこともなく説いているが、おかげでわれわれはちょっと笑うことができるというものである。一芸術家たちの経験は、この微妙な点については、「もっと関心を持った」ものである。
2011-05-02 22:30:143. 余談:カント美学は、『判断力批判』でも説かれるように<美>と<崇高>というふたつの項目から成り立っている。(ここは先達にお伺いをしたい点であるが)後にグリーンバーグ=モダニズム美学、特に芸術の自律性がカントに依拠して語られることになるのも「構造的である理論」の故だと考える。
2011-05-02 22:34:404. 余談:<美>についての議論の相手の筆頭は正しくニーチェから始まり、アドルノ、ベンヤミン、デリダ、ドゥルーズ等が考え得る。片方、<崇高>について対峙し得る者の代表者として私はここでバタイユを挙げる。彼の主たる論は『エロティシズム』に代表されるように恍惚的崇高についてである。
2011-05-02 22:38:525. 課題:ここにおいてバタイユ美学をあげるのは、まさしくその「不定形」という鍵語においてである。(参考文献 江澤憲一郎『ジョルジョ・バタイユの《不定形》の美学』、イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム』etc.)不定形と非構造性がイコールで結べるかが命題。
2011-05-02 22:43:226. 命題が解けたと過程すると、検討中の論文におけるカントに対するニーチェの姿、則ち「ひたすら個人的な欲望の為に芸術を用いて」「カントのように美の普遍性など認め」ず、その瞬間瞬間に立ち現れてくるが故に俯瞰的先験的な理論では捉えられないものを「美」と名付けるものに近づくことになる。
2011-05-02 22:51:417. 仮定(過程)的結論:よって、ここで持論を持ち出すのであれば「カントは関心を取り外すことで、芸術作品と現実の出来事の関係の間で生じる「悲劇の快」を軽々と越えて説明を可能に」(p.11)はしておらず、その議論はカントがその美学で<美>から分割した<崇高>に向けられ得ると考える。
2011-05-02 22:56:508. ここで敢えてカントに立ち戻ろうとするのは、なにもモダニズム的自律性に依拠したいが故のみではない。特に顕著にみられる美学的議論の行き詰まりの多くがアドルノ的政治性やベンヤミンの空気(=アウラ)・叙情詩的論説に依拠する挫折にあり、加えて「中世」への揺り戻しが見られるからである。
2011-05-02 23:03:199. 中世を呼び戻したとしても、既にその中核を失っている近現代におけいては、それは形骸化した「論理」になるであろうし、形骸化した議論は更なる捻挫を招くだけとなる。英米で盛んな分析美学を昨今の若い日本の研究者が積極的に輸入しようとしているのも、同じ背景をもってのことであると考える。
2011-05-02 23:07:54人間的なものの一切をそぎ落とした上で、圧倒されることによって見出される崇高の美… 崇高の持つ力は、芸術が歩んだ近代の文脈においては、ある時期まで決定的な役割を果たすことになる。あらゆる関心も認識も、圧倒して、否定してしまうものとして経験される崇高の美学は…普遍性に至るものだった。
2011-05-02 23:14:50