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知ることと信じることとの混同

信じることができるものは、根拠のないものだけですが、このような当たり前のことを、宗教者でさえも忘れがちです。 根拠を求めて得られるものは知る対象とはなりますが、信じる対象とはならないのです。
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大角 康(宗純) @koukaku0811
証拠を根拠に確実性をもたらすものは、知りうるものではありますが、信じうるものではありません。 信じることができるものは、証拠も根拠もないゆえに、確実性が保証されないものだけだからです。 「証拠がないから信じられない」と言いますが、それは「私は信じたいのではなく、 twitter.com/yamagiwa_j_bot…
大角 康(宗純) @koukaku0811
知りたいのだから証拠を出せ」という意味で、これを信じることを中軸とする宗教に当てはめることは、ナンセンスでしかありません。 にもかかわらず多くの禅者(かぶれ)は頻りに「体験を通して知る」ことを強調します。宗教的体験は信じることへと強く踏み込んだ証であり、そこからもさらに信じ抜く
大角 康(宗純) @koukaku0811
契機となるものにすぎません。いかなる宗教的体験も、信条に根拠を与えるものではありません。根拠を与えるものならば、それは科学的発見です。 「禅天魔」という言葉もありますが、信じるべきことを知るべきこととみなしたうえで、自分はそれを知っていると任じる者こそそれでしょう。 禅天魔は自ず
大角 康(宗純) @koukaku0811
と人を見下しますが、このような人のもとで禅を学べば(本当は学べませんが。)、自ずと弟子は卑屈となり、段々素直でなくなります。 「禅宗」の名の下にこのような悲劇が起こらぬよう、鈴木大拙先生が為されたごとく、禅宗の論理を少しでも構築したいのです。 禅者は体現を重んじるあまり、綿密な
大角 康(宗純) @koukaku0811
反省を欠きがちです。頭でっかちになってしまい、体現できていない自分をさておいて、口先でばかり理屈を語る者となることは戒められねばなりませんが、しかし本当に修行を進めるのなら綿密な反省も欠かせません。だからこそ論理を宣明することと、体現を重んじることとは、ぶつかるどころかむしろ
大角 康(宗純) @koukaku0811
手を取り合うことでしょう。 綿密な反省を怠るものが、本当に修行しているなどとは思えません。 本当に修行していれば自ずと自分独自の言葉づかいが生まれますし、昔の偉い宗教者は皆名文句を遺されておりますが、それは彼らが本当に修行してきたことを証しております。

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