「関ヶ原の戦いは誇張されている」…としたら、誰が何のために「話を盛った」んだろう?
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関ヶ原 番宣 2019年6月2日(日)夜9時放送 30秒版配信📺 出演 岡田准一,役所広司,有村架純,東出昌大,松山ケンイチ,滝藤賢一,壇蜜,中越典子,伊藤歩,平岳大 他 cm.bb-navi.com/_okadajyunichi/ cm.bb-navi.com/CM.76364.html pic.twitter.com/XqmIMKF5Wv
2019-05-24 19:28:45祝🌸 映画関ヶ原地上波初放送 と言うことで 私も初の #松尾山城 登城のため 今朝は関ヶ原にJRで移動中😁 予報のとおり暑くなりそうです😅 映画『関ヶ原』PR動画 2019年6月2日(日)よる9:00~放送! – テレビ番組予告動画+α youtubetrend.net/tv/tv-asahi/17…
2019-05-25 06:46:30>結局のところ織田信長はあるべき政態の概念はあったがそれは既成の室町体制であり復旧を目指したが尾張と畿内で蹉跌を繰り返したという事になるか。「下克上の申し子革命児信長」というイメージは高度成長期昭和日本の理想を一人の中世人にお仕着せる事で創造されたフィクションなんだろう。
2019-05-26 01:40:06羽柴秀吉にしても信長鏖殺で腹背に敵を受け滅亡の危機を機略で乗り越えた織田重臣が生き残りをかけて火の粉を払ううちに名目上でも織田体制を維持する建前が破綻してしまったという風にも見える。東亜の撹乱者となったのは弥縫策を続けた結果であろうし化け物でもサイコでもない。
2019-05-26 01:40:06徳川家康も秀吉無き豊臣体制という不安定な状況下で領地をいかに保全するかという徳川側の模索と秀吉取り立て大名の奉行反奉行派分裂という羽柴側の事情が複合した結果権力闘争に突入し、勝利した代償として秀吉に代わるポジションを埋めることになったみたいだが。猫かぶり狸親爺は講談のキャラだな。
2019-05-26 01:40:07まあかくあって欲しいという理想像を歴史上人物にポジティブネガティブいずれであっても先に嵌め込んで後から分析するというのは歴史学的態度では無いという鳥瞰的な批評視野はキープしておきたいものだ。
2019-05-26 01:40:08やはり歴史を俯瞰するとき推しキャラを持つと不自由というのが当方の見解だし実際歴史理解のスクラップ&ビルドを行うのに心理的負担が生じないので楽なんだけどね。推しキャラは個人に限定するものではなく集団や組織の事もあるね。
2019-05-26 01:40:08三英傑といえど殆ど普通の中世武将として徹底して相対化を図らなければ…というのが最近の当方の歴史考察趣味の基本的姿勢になっとるね。
2019-05-26 06:05:41羽柴秀吉死後の政局家康が天下取りに動き出したというより徳川領に手出しする気を起こさない程度には奉行衆を弱体化させておきたいというムーブにも見える…奉行衆を排除して徳川で乗っ取ろうという意志が資料から読み取れるかどうかだが難しいのではないか。想像と表現は自由だが。 twitter.com/urakkun26/stat…
2019-05-26 07:00:30豊臣政権を羽柴家政と武家政権のコーディネート機能に分けて考えると関ヶ原までの徳川家康が自家に都合よく改変したかったのは後者だけであり前者は奉行衆に引き続き任せるつもりであった様に見えるし穏健派(日和見とも)として増田を残し石田は引退させたというのが七将襲撃事件の始末だったのでは。
2019-05-26 07:00:30奉行衆を排除したい反奉行派七将と徳川家康もまた同床異夢であり完全に利害が一致していたわけではないと思うね。七将襲撃の黒幕に徳川家康ありという見立て全面的に首是する事も出来ない。
2019-05-26 07:00:30毛利の博打という危機を前に大同小異で強固に結集したというところだろう。擦り合わせが意識レベルで完全ではなかった齟齬が噴出した事例が福島正則改易なんだろうね。
2019-05-26 07:00:31伏見城の地図を見ると一目で分かるのだが(ネットでも見られるが著作権とか不明なので各自でご覧いただきたい。)七将襲撃事件で三成が逃げ込んだ「治部少丸」とは伏見城内の三成執務室兼公邸である。それ以外に伏見城下に三成他大名の大名屋敷(私邸)は別にあり、三成はその私邸に行った訳ではない。
2019-05-26 23:06:13素朴な話だが、「関ヶ原合戦、どうしたら西軍が勝ったか」という話だが、小早川秀秋が裏切らず、吉川広家(毛利秀元)が戦えば勝っていたという話だろう。というか、江戸時代の人達は普通にそう思っていて、「あれがなければ、東軍は危ないところだった」と思っていたかと考えられる。
2019-05-26 23:56:50福田千鶴氏の『豊臣秀頼』より引用。「「一方、毛利輝元は朝鮮在陣中の慶長二年九月に発病して帰国し、十二月に上洛して、同五年六月に帰国するまで在京を続ける。上洛するとすぐに秀吉に対面を許され(十二月二十三日)、伏見城の奥に招かれ、秀吉から懇ろな言葉をかけられた。」(続く)
2019-05-27 00:37:38体調不良の秀吉が誰にも対面していないなかでのことであり、その場には秀頼も呼ばれていて、輝元は父子から、のし柿や饅頭をもらった。さらに、秀吉から炬燵にあたるように勧められたが、遠慮していると、秀吉がそっと炬燵に手を入れ暖めてくれた。」(続く)
2019-05-27 00:38:48輝元は「このような気詰まりの忝いこと」と秀吉の気安い態度に驚きに驚きながらも、特別の扱いに感激した様子であった。同席者は、石田三成と増田長盛二人のみだった(『荻藩閥閲録』榎本織衛家文書)。」 同席者に三成と長盛がいたのは、慶長年間から三成と長盛が毛利家の取次になったため。
2019-05-27 00:40:15>豊臣奉行が石田派と浅野で分裂して前者が後者の排斥を図ったという見立てにしても「家」の保全と政権組織内立場の保全を天秤にかける選択に迫られてた奉行衆の苦悩について想像できないセンスの限界を露呈しとるんだわな。
2019-05-29 20:03:46@1xuVLqH3kQ @1059kanri 三成は気遣いの人だけど、関係ある人としか親しくしない感じ。関係ない人には冷淡というより全く無縁なんですよね。まあ、江戸時代に東軍武将が三成関係の私信を揃って破棄しただけかもしれませんし、その可能性も高いとは思います。
2019-05-29 22:13:08@urakkun26 秀吉が死んだ時に、家康にその死を知らせたのは、三成の家臣な訳ですが、素直に受け止めれば三成と家康は当時仲が悪い訳ではない証左になりそうな話です。それを江戸時代の逸話は、「まて、これは浅野長政を陥れるための三成の罠だ」という創作ストーリーに仕立て上げてしまうのですね。
2019-05-29 22:55:44石田三成はコミュ障ではなく、むしろ気遣いの達人だというのは、下記で紹介した。↓ koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2015/05/…
2019-05-30 00:16:43その中でも、神屋宗湛の秀吉への拝謁をすべてお膳立てした気遣いの細やかさは、特筆してよい。↓ koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2018/09/…
2019-05-30 00:18:19