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Kestrel @tagomago712
神田千里『戦国と宗教』の一向一揆の章がおもしろかったので紹介。

従来の一向一揆像

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1 従来の一向一揆像 一向一揆が加賀を支配し、織田信長と徳川家康と戦った、また浄土真宗(真宗)の開祖である親鸞の教義が現世の権力を否定して、内面の信仰を重視するので、真宗は「反権力的」というイメージがある。(続く)
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しかし、このイメージは後世に作られたものである。中世史家の大隅和雄によると、内村鑑三が日蓮をルターに、植村正久が法然をルターとして捉えた。その中で特に親鸞の教義はルターの信仰義認論と重ねられたようだ。真宗のプロテスタント化と呼ぶべきか。(大隅和雄『中世仏教の思想と社会』)
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戦後の歴史研究においては、「一向一揆=戦国期の生活基盤かつ抵抗拠点とされている惣村を基礎とする運動」とする学説が通説だった。(P.47) これは多分、マルクス主義的な「侍」身分と「百姓」身分の階級闘争史観を背景としていたのであろう。
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しかし、惣村と一向一揆は直接には結びつかず、「百姓」は「新侍」を自称したり、侍の被官を自称していたりと、「侍」身分への対抗意識を見出せないとの事 (P48) また真宗も一枚岩とは言えず、高田派や三門派は信長と結んで本願寺派と戦っていた。

「百姓の持ちたる国」の実像

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2 「百姓の持ちたる国」の実像 加賀一向一揆までの流れ。1471年に蓮如により吉崎御坊が作られる。この頃、応仁・文明の乱により加賀も東軍・西軍に分かれていた。西軍は当時の守護である富樫幸千代、東軍は富樫政親だった。また加賀では宗旨を巡り、本願寺派と高田派が対立していた。(続く)
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本願寺派は政親と高田派は幸千代と結んだ。 富樫政親・本願寺派(東軍)VS 富樫幸千代・高田派(西軍) という構造である。この戦いは最終的には政親・本願寺派の勝利に終わり、富樫政親が守護に就任した。(続く)
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加賀では元々、西軍派の勢力が強かった。富樫政親は一貫して足利義尚(足利義政の次男、第九代将軍、東軍に担がれた)に忠節を尽くしたので、国内の武士たちとの軋轢を生んだ。(続く)
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足利義尚による六角氏征伐に政親が従軍したために、加賀では反発が強くなり、長享2年(1488年)についに本願寺門徒を中心とする加賀の武士たちは蜂起する。政親は自害して、代わりに守護として富樫泰高を擁立した。
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ここでのポイントは一揆勢が代わりに守護家一族の富樫泰高を擁立している点。つまり初めから加賀は「百姓の持ちたる国」だったわけではない。また蓮如は1475年に吉崎を捨てて北陸から退去しており、蓮如が加賀一向一揆を先導したとは言えないようだ。なし崩し的に追認したというのが実情かなあと。

本願寺の加賀守護の確立

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3 本願寺領国へ 永正三年(1506年)に管領の細川政元と河内畠山氏との間で対立が起きる。七月に政元は河内畠山氏討伐を行う。政元は本願寺の実如に摂津・河内の本願寺門徒の動員を依頼したが、畠山氏と関係が深い門徒たちが拒否したので、代わりに加賀の門徒を動員した。(続く)
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この戦いの功績により、本願寺は加賀にある一族寺院を通じて4つの群(江沼、能美、石川、河北)の支配権を確立した。室町幕府側から加賀支配を「公認」された形となる。(P.56)
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幕府側から本願寺は加賀の守護に準ずると見なされており、幕府は段銭を本願寺に納めるように要請することもあった。また幕府内には本願寺担当の奉行が存在した。別に本願寺は「反権力組織」ではなかったのが実情である。以下引用
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本願寺と加賀一向一揆は、将軍を頂点に有力大名や公家、寺社で構成される室町幕府体制の一員だったといえよう。」(P.74)

顕如vs信長―「石山合戦」の実情

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4 石山合戦の実情 各種メディアだと、本願寺は織田信長の「宿敵」であり、信長は本願寺を最初から滅ぼそうとしていたというイメージであるが、これは後世に作られたイメージであり、実際には違うようだ。(続く) pic.twitter.com/Zb037r1o4D
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近世に入り、「信長に最初から抵抗していた本願寺」が東西本願寺の正統性を巡る論争で形成されて、その「捏造」されたストーリーが「明智軍記」、「陰徳太平記」に取り入れられ、「本願寺の宿敵信長像」が一般に定着した。(P.85) 以下引用
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近世において、本願寺教団の中で門徒の先祖の武勲を表彰するために、本山に忠義を尽くして大敵織田信長と戦った門徒らの、「石山合戦譚」というべき軍記が語られるようになりそれが広まった。」(P.61)
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本願寺蜂起に関して。永禄十一年に本願寺は蜂起するが、本願寺は以前から三好三人衆と誼を通じており、朝倉氏とは婚姻関係、浅井氏とは同盟を結んでおり、信仰上の理由から蜂起したのではなく、政治関係が背景にあるとの事。
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本願寺と信長の戦いは「石山十年戦争」と呼ばれることもあるが、十年間を連続して戦っていたわけではなく、本願寺が石山(なお当時の本願寺の所在地を石山と呼ぶ同時代の史料はない)を退去するまで四度の和睦が結ばれている。
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ちなみに越前一向一揆の殲滅には加賀の高田派・三門徒派などの他の真宗門徒も動員された。天正四年(1576年)から大坂籠城戦が開始、天正八年(1579年)に和睦成立して石山が明け渡される。
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