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nikko81 @nikko81_fsi
今回拝見したのは①勝興寺蔵武田信玄書状(永禄十一年)②勝興寺蔵武田信玄・勝頼連署状(天正元年)③埴生護国八幡宮蔵武田信玄書状(元亀三年?)④佛嚴寺武田信玄書状(永禄三年)⑤佛嚴寺武田信玄書状(元亀三年?)の五点。勝興寺・瑞泉寺という越中一向一揆の二大拠点への書状。
nikko81 @nikko81_fsi
五点に共通することとしていずれも切紙で、いろいろ信玄・勝頼書状の中ではかなり小さい!という印象。上杉景勝の屋代秀正宛だったか、真田丸展で見た密書と解釈されている文書に近い小ささだった。飛騨経由で行くにしても使者はやはり危険と隣り合わせだからだろうか?
nikko81 @nikko81_fsi
そして宛所の位置。勝興寺宛は日付と同じ高さ、上田石見守宛は一字分だけ低い位置。締めは恐々謹言(一点、連署状のみ恐々敬白)ということでめちゃくちゃ慇懃なのだ。一字分の差は?というのをちょっと考えたけど、勝興寺の当時の住持のことについて、さっき調べて自分なりに納得できた。
nikko81 @nikko81_fsi
信玄在世時の勝興寺住持は顕栄というそうだが、妻が細川晴元娘だそうだ。細川晴元…そう三条公頼の娘三人の内の一人を妻とする、信玄の義兄に当たる人物の娘をこの勝興寺住持は妻にしている。そして三条公頼の娘は本願寺蓮如にも嫁いでいる。姻戚関係からより勝興寺のほうが強かったのではないか。
nikko81 @nikko81_fsi
いずれにしても、駿河・遠江に出て今川・徳川に対峙するにせよ、関東の北条に対峙するにせよ、上杉を封じておく必要は必ずあって、その意味で越中一向一揆はとても重要視されていたのだろうということが推察できる文書群。
nikko81 @nikko81_fsi
また①、④、⑤については詳細を直接語る人物が記載されていて、①八重森因幡守家昌④山田⑤長延寺実了師慶である。今回は見えておらず、写しでしか伝わっていない勝興寺宛信玄書状写にも長延寺とあり、「山田」はよくわからないが、八重森因幡と実了師慶と勝興寺に関わりの深さを感じる。
nikko81 @nikko81_fsi
この二人、江戸幕府の高家衆で大名としては滅亡した武田家の宗家とされている家の祖となった武田信道と関わりが深い。武田家滅亡後密かに匿うのに尽力したのがこの八重森家昌だし、実了師慶は信道の師(信道は顕了道快と称す)。信道を生かすことにも勝興寺が何らか関与してたのでは、と想像が膨らむ。
nikko81 @nikko81_fsi
①勝興寺武田信玄書状(永禄十一年)こちらにデジタルアーカイブあり。 trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView… やはりデジタルアーカイブをみても書状の小ささは気づかないのだけど、現物を見てから改めて見ると文字と書面の大きさから文書の小ささがわかる。文字も武田の文書で見慣れた字。
nikko81 @nikko81_fsi
デジタルアーカイブはすばらしくfullHDのPCで見ると感動する。「御調略肝要」とかさっすがて感じだな。にこにこ。
nikko81 @nikko81_fsi
②勝興寺蔵武田信玄・勝頼連署状(天正元年) trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView… これ手元の資料に元亀三年とあって、まさか信玄在世中の連署!?と思ったけど、年代比定元亀四年(天正元年)にされ直してましたね。これ元亀三年なら、ものすごいことなんですが(笑)
nikko81 @nikko81_fsi
中世富山城のことはよく理解してないのだけど、当時椎名氏と神保氏との間で争奪戦になっていた富山城が椎名氏に奪い返されたことを察知し、それを勝頼が重んじて信玄との連名で(まだ信玄在世中を装っていた)勝興寺方へ越中を重視してるぞ、見捨ててないぞというアピールの為かな。
nikko81 @nikko81_fsi
もしこれ元亀三年なら、信玄が明確に勝頼を後継に据えていた何よりの証拠二なると思うんだけども。だって「(信玄勝頼)父子可令出馬候」ってあるんだよ。確か「出馬」って大名自身が出るときに使うんだったよね?ということはだよ?
nikko81 @nikko81_fsi
これを信玄が書かせたなら、勝頼を後継と考えていることになるし、勝頼が書かせたなら、自らが信玄の正当な後継者になったということを前提にして書かせてるわけで、自らの家督継承の正当性アピールになるよね。
nikko81 @nikko81_fsi
これ昨年テレビに出ていた文書か。このツイートは拝見しましたが、これだったのね。でもテレビの内容は元亀三年比定説だったんだな。twitter.com/mukyuuwoou/sta…
nikko81 @nikko81_fsi
ま、でも信玄・勝頼両名が並んで花押があると興奮するよねぇ。 pic.twitter.com/F3Tf4Cf51s
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nikko81 @nikko81_fsi
③埴生護国八幡宮蔵武田信玄書状(元亀三年?)こちらなんと宮司さんに自由に写真撮って使って下さいとの有り難いお言葉を賜りε=ε=ε= \_○ノ \_○ノ \_○ノヒャッホー!! ここにも「御調略簡要」とあり調略バンザイな感じが出ているのがよい🤣 pic.twitter.com/0o7jDKRtHw
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nikko81 @nikko81_fsi
何よりすごいのが追記で「追而、雖軽微金襴進之候」とあるんだけど、これも含めて残ってるんですよ!ちょうど日本に伝わって間もない舶来の品を与えるとはかなり重視していたのかなという印象。m-hero.jp/kinran/ pic.twitter.com/Q3j8JuA5fw
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nikko81 @nikko81_fsi
ちなみに富山県史では元亀三年に比定しているが、現地の解説では永禄十一年とかなり差がある。どうなんでしょう。Wikipediaみてると、永禄十一年と元亀三年はともにこの書状で言及されている椎名右衛門大夫康胤が上杉に謀叛を起こしているタイミングちょい前なのね。どっちだろう?
nikko81 @nikko81_fsi
④佛嚴寺武田信玄書状(永禄三年)こちらは佛嚴寺さんのWebに過去に開催した展示会のパンフが載せてあり、そこに文書の写真がありますね。今回見た文書の中では一番古い、永禄三年。butsugonji.or.jp/img/lief-image…
nikko81 @nikko81_fsi
勝興寺で見た二通と護国八幡宮で見た一通とは明らかに右筆の筆跡が異なっている。文書の内容でなく筆跡鑑定的な観点で時系列に並べていくのも、年代比定に役に立つのだろうね。一介の歴史ヲタク的には誰の字かを求めたくなるんだけども。何となく駒井高白斎だったらいいなぁ(だとしたら高白斎最晩年)
nikko81 @nikko81_fsi
⑤佛嚴寺武田信玄書状(元亀三年?)こちらもこのパンフに文書写真あり。butsugonji.or.jp/img/lief-image… 「其以来絶音候之間…」とあるんだけど、「富山県史」は元亀三年に比定、石川県編纂の「加能史料」は永禄十一年に比定。元亀三年説だと相当ほったらかしですねぇ、、
nikko81 @nikko81_fsi
そういや③の同じく上田氏宛の文書で比定年代が永禄十一年か元亀三年だった。③と⑤の関係をどう見るか?難しいなぁ。今どういう捉え方が最新なんだろうか。個人的にはなんとなく字の筆跡から⑤は永禄っぽい気がするのと、③とは時代差を感じるんだよねぇ。③が元亀三で⑤が永禄十一に一票。

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