- JunNakagawaWork
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どういう作品が文学に値するのかという条件は、文学のシロートである私には正確に記述することができないけれど、小説(散文)に限ってみれば、少なくとも「思想と物語」は必要条件ではないかしら──当然ながら、それらを著すには、文体が不可欠です。
2019-06-02 19:11:56「心理とは脳髄中にかくされた一風景ではない。また、次々に言葉に変形する太陽下にはさらされない一精神でもない。ある人の心理とはその人の語る言葉そのものである」(小林秀雄)。
2019-06-02 19:12:11「その人の語る言葉の無限の陰翳そのものである、と考えればその人の性格とは、その人の言葉を語る、一瞬も止まる事なく独特な行動をするその人の肉体全体を指す、という考えに導かれるだろう」(小林秀雄)──これが「自分」というものではないかしら。
2019-06-02 19:12:26我々の眼球の構造が同じでそれが正常に作用している限りでは、多数の人々が同じモノを観れば全員の眼が捉える映像は同じであるはずですが、個々人によって「見かた」が異なってしまう。いわゆる「視点(観点)」と云われている「立ち位置」が、意見を述べる時に先ず論点になる。
2019-06-02 19:12:40我々は、生活しているなかで、当然ながら、興味のない事に対しては思考を節約しているでしょう──すべての事について、いちいち詳細に吟味して判断している訳ではない。
2019-06-02 19:12:55そして職業に就いてからは仕事のなかで求められている技術を習得するために自分の考えかた・感じかたが仕事のなかで養われていって、その考えかた・感じかたが自分の流儀になってゆくでしょう。それはそれで尊い事なのですが、時にそれが硬直して足かせとなってしまう。
2019-06-02 19:13:08文を書いた人も或る「見かた」に依って意見を述べているし、それを読んだ人も或る「見かた」で読んでいる。伝達という行為は──特に、思想を伝える行為は──奇蹟に近いでしょうね 。
2019-06-02 19:13:52多様なものを単純にしようと思えば、要約するしかないでしょう。しかし、ひとつの思想を要約して学習する(あるいは、鑑賞する)事は、それを伝える文体を無視する事であって、一種の暴力だと私は思っています。
2019-06-02 19:14:13「愛読書を持っていて、これを溺読するという事は、なかなか馬鹿にならない事で、広く浅く読書して得られないものが、深く狭い読書から得られるというのが、通則なのであります」(小林秀雄、「現代の学生層」)。
2019-06-09 20:35:13Internetが普及してWWW上の膨大な「情報」に簡単にアクセスできる時代になって、我々は「愛読書」を持つ事を忘れがちではないか。読書がInternetとは違う性質があるとすれば、それは「或る人物の『思想』と向かいあう」という事ではないかしら。
2019-06-09 20:35:31天才がその一生を費やして考え抜いた思想は、我々凡人には思い浮かばないものであって、その天才の「思想」から人生を学ぶという事でしょうね。そうするには、その天才の「思想」を熟読するしかない(もし全集があれば、全集を熟読するしかない)。
2019-06-09 20:35:45「思想」というものは実生活から生まれるのですが、そうやって生まれた思想はやがて実生活から昇華されて、その思想家の独自の ものの見かた・考えかた として現れる。それらを伝える天才の文体を逐一読みながら、我々は自らの生活のなかでその「思想」を吟味する。
2019-06-09 20:36:02天才の「思想」は、実生活を離れた「高尚な 講壇じゃない──それを学んだ [ その人の消化できた分に応じて ] その人の考えかたとなって生活のなかで具体的に現れるでしょう、離れようと思っても離れられないのが実生活なのだから。
2019-06-09 20:36:18