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永井均 @hitoshinagai1
私は supererogetory duty の訳として「余功の義務」という表現があると思っており、最近書いたものにこの表現を使いましたが、後でちょっと調べたところ、どこにも使用例が見つかりません。この表現は存在しませんか?
永井均 @hitoshinagai1
D.D.ラファエル著、 野田又夫・伊藤邦武共訳『道徳哲学』紀伊國屋書店、1984年、の第7章で、duty of supererogation の訳語として使われている(自分の昔の手書きノートからなので頁まで確認できない)。「余功の」が他でも使われているかはわからないが、野田先生と伊藤氏を信頼して使うことにする。
永井均 @hitoshinagai1
この概念は、困っている人を助けることが「正義」概念に包摂されるか否か、という問題との関連で使われる。それは「正義justice」の範疇ではなく「慈善charity」の範疇なので、そうしなければならない(本来の意味での)義務dutyはなく、もし義務があるとしても余功の義務にすぎない、という文脈で。
永井均 @hitoshinagai1
ついでに関連する興味深い問題をひとつ:善き人は自分には困っている人を助ける「義務」があると感じるかもしれない。それをたんなる「慈善」ではなく「義務」だと感じることこそがその人を善き人たらしめている。そうであるにもかかわらず、それは誤りである、という問題。
永井均 @hitoshinagai1
しかし、このようにして「義務」概念に二義性が(善い意味と正しい意味との)生じうるからこそ、これは、義務を超えている(supererogetory)のにやはり義務(duty)と呼ばれうるわけである。倫理的概念に付きまとうこの種の二義性に敏感であらねばならない(様々な議論にこれは暗に出現しているので)。
halching @halching1
ところでひとつめ。永井氏の言われる「義務の二義性」を図式化するとこうなる。 pic.twitter.com/f8DMl3jJ6I
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永井均 @hitoshinagai1
これは、煎じ詰めれば、真と善は対立しうるということであり、世の中でさかんに議論されられるような倫理的な対立なども、煎じ詰めれば真なる言説と善なる言説との対立だ、といえる場合は多い。別の色々な対立がそこに絡むのでこの(最も根源的な)側面は見逃されがちだが。
永井均 @hitoshinagai1
別の色々な対立が絡むというよりも、別の色々な対立がこの二つの価値を利用し合う、と言ったほうが適切だろう。「真」も「善」も「正しい」と表現できるので、どちらも相手は正論に耳を傾けない輩と映るということが起こりうる(よく起こっている)。
halching @halching1
そしてふたつめ。永井氏が「真」も「善」も「正しい」と表現できる、と言われることの図式化。(「正義漢」「ニヒリスト」としたのは僕で永井氏の言葉ではない) pic.twitter.com/uq42dzdcQm
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halching @halching1
正義漢が「義務(ねばならなさ)」を拡大するのは、他の人も同じように考えるに違いないと信じているから。ニヒリストがそれを縮小するのは、他の人も同じように考えるとは限らない、なぜなら他者のことは絶対にわかりえないと信じているから。
halching @halching1
藤田一照氏が、「暴走する正義」を引き合いに語ろうとしたことと、永井氏が「義務の二義性」と表現し語ろうとしたことは、倫理や道徳に隠されて前提されている超越に対して、それを敏感に感じ取ることができるかどうかという意味で同じことなのだと思う
halching @halching1
正義が暴走するのは、その正義はどこまでも「(誰か)にとっての」正義として相対化されるものだ、ということに無自覚だから。絶対の正義があるという前提だからこそ、正義は暴走する。私とあなたという、有と無ほどに断絶している同類という観点が、悲しいまでに、そこにはない。
halching @halching1
この「絶対的な分かり合えなさ」(=独在的な同類観)を前提とするか、「話せばわかる」(=併在的のっぺりとした同類観)を前提とするか、の溝は絶望的に深くはないか
halching @halching1
「所詮わかりあえるはずもない」とするニヒリストの方が、「話せばわかる」とする正義漢よりも結果的に世界を正しくする可能性について、僕らはもっと真剣に考え検討するべきである(としてしまうのも正義的義務?笑)
halching @halching1
ひとは独在的な〈私〉への在り方への自覚を経て、平板な「私」という見方ではない、《私》に気づくことができるようになる。澤木老師の言葉、「自分が自分を自分する」は、独在哲学的には、〈私〉が「私」を《私》する、と言い換えられる
halching @halching1
ここで、(精確に記述できる自信がないが)「私」と《私》の“似ていなさ”については慎重にデリケートにならなければいけない。独在性への理解を経たにもかかわらず、そこから他者への理解が《私》となるのではなく「私」へと頽落してはならない
halching @halching1
頽落した「私」の方がはるかに理解しやすいだろう。しかしながらそれは問題の一番肝要な部分を取り逃がしてしまうことに外ならず、議論する意味を失うだろう。
halching @halching1
残念ながら、まとめについたコメントはいずれも永井均氏が言われるところの「問題が終わった後」の議論ばかり。そういう話をしていない、ことこそが重要だというのに。

コメント

他人 @Messiah_Justo 2019年6月18日
正義は暴走なんかしない。暴走するのは「脳みそ」の方。ウシやブタとかイヌやサルは「今ではない時間、ここではない場所」のことなんか考えない。人間だけがありもしないものを見たり、行ってもいない場所のことを考えたり、生きていないかもしれない未来のことを思ったり、会ってもいない人間の言葉を聞いたり感じたりする。そうやってずーっと「暴走」している。それがいたって普通の人間のあり方。
他人 @Messiah_Justo 2019年6月18日
「正義」という感情は「本来あるべきものが不当に損なわれた」という「公平さ」における「被収奪感」からなっている。それは「奪い返す」という論法で語られるほかない。だけど「奪われたものを奪い返す」かぎり、いつまでも終わりはない。どこかで分かち合って赦すしかない。けれど「無償で与えて赦す」ことを正義の倫理は許してはくれない。
苺花見に欲をかけたらラッキー7 @adgjmpt_1011110 2019年6月18日
途中の図は日本語のみで書くのはよくないんじゃないかなぁ。
鳥頭 @toshiaki114545 2019年6月18日
istとsollenが違うって話かな。 にも関わらず日本語で(多分多くの言語でも) 同じ言葉が割り当てられてしまうのは人間の性質だろう。
denev @_denev_ 2019年6月18日
ニヒリストは「結果的に」世界を正しくするのではない。正しくするべくして正しくするのだ。
usisi @usisi00 2019年6月18日
toshiaki114545 誇りと驕りみたいな?
Ayako.Y @Symbiodinium_a 2019年6月19日
d2N5Q4GciZtsa2e 簡単な話っす、ここで言う正義の一番基本的なところはハンムラビ法典っす、やられたら同じ分だけやり返す。でもやり返す方は往々にして過剰になりがちだし、やり返される方は最初に奪った後の方が自然で平常だと思い込みがちっす
Ayako.Y @Symbiodinium_a 2019年6月19日
Symbiodinium_a そうするとやり返された方が更にやり返すのがその人にとっちゃ「正しく」なるっす。以下延々と続くっす。それを止めるにはどっかで二者が妥協する必要があるっすが、今言うような正義の文脈だと原理上は止まらないっす
Ayako.Y @Symbiodinium_a 2019年6月19日
Symbiodinium_a 「自分が損する」ことが許されないからっす。損切りするのは奪われっぱなしでこの定義上は不正義っす、因果応報じゃないのは人間何故か耐えられないっす
Ayako.Y @Symbiodinium_a 2019年6月19日
Symbiodinium_a そして動物にも応報感情や社会的制裁の概念はあるけど人間は「社会」に含める範囲が動物に比べ無茶苦茶広いので、往々にして「今ここ」の損以外の可能性を気にして損切りできなかったり、どんなに損切りしたくても正義を望む「社会」にさせてもらえなかったりするので大変だって話っす。下っ端口調なのには特に意味は無いっす
FFR31 @FFR31 2019年6月21日
英語だとテクノロジーとテクニックは違う意味だけど、日本語だと両方とも「技術」になってしまうのでまぎらわしい。 というのと似た話だと解釈した。
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